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居酒屋にて
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居酒屋にて

2021-01-08 18:34

     大学の長い休みも終わりに近づいた9月の半ばに、正成は数少ない友人に誘われて珍しく居酒屋へ酒を飲みに行っていた。友人たちは高校時代に知り合った3人で、3人ともが県外の大学に出ているのだが、夏休みで地元に帰ってきていたのだった。

     久しぶりの再会だったが半年後に就職活動を控えていて、先輩がなかなか内定をもらえずお祈りされてばかりだの、エントリーシートを何十枚書いても1社も通らない先輩がいるだの、暗い話が続いていた。3人のうちの1人、浩二はウイスキーをがばがば飲んでいて、早いうちからだいぶ出来上がっていた。

    「いくら何でも飲みすぎだぞ」

     正成が言うと、浩二は今にも眠りそうなとろんとした目で周囲をみまわした。

    「留年する俺には関係ない」

     浩二はぶっきらぼうに言い放った。そこで初めて留年することを告げられ、他の3人は驚いた。浩二は4人の中では最も成績がよくて、要領もよいので留年など想像だにしなかった。

    「俺くらいの奴なんか世の中にはいくらでもいる。俺が所属したゼミの教授が大変厳しくて、不正確な言葉遣いをするだけで逐一訂正されるんだ。ゼミの課題も難解で、正直他の授業に影響が出ている。他の授業もそんなに簡単というわけではないのに。もう脳みそが溶けて何も考えられなくなりそうだ」

     浩二は哲学科に進んだのだが、功利主義者たちに将来何の役にも立たない学科に進んで何がしたいんだと言われるなか、自分の成績を盾に黙らせて無理やり進んだ道だった。浩二はそういう背景もあってか、自分一人でどうにかしなければいけない、自分以外はあてにならないと考えるようになっていた。

     正成は心理学科に進んだこともあって、なにか精神的な病を患うようなら何か力になりたいと考えたが、かける言葉が見つからなかった。他の2人も同様で沈黙してしまったが、浩二はかまわず愚痴を口にし続けていた。

     浩二の独擅場で、他は誰もしゃべらずに酒をちびちびと思い出したように飲んでいるだけのその席に、底抜けの明るい声でアルバイト店員が近付いてきた。

    「お済の皿、片づけますね」

     慣れた手つきで皿を重ねると店員は去っていった。空いた机にだんだんと呂律が回らなくなっていた浩二は急に突っ伏し、いびきをかき始めた。あまりにうるさいいびきで、普段なら周囲を気にして起きるように声をかけるだろう面々も、起こした後どう言葉をつなげようということを考えると憂鬱で、誰もがどこか、浩二が寝てしまったことを安心したようでもあった。

     浩二の独演会が終わって話題は変わり、友達と映画に行ったら無理なダイエットをしていたそいつが倒れたとか、留学生と仲良くなって家で料理していたらアホだのバカだの言うからなんだと思ったら、アホはニンニク、カルネデバカは牛肉のことだっただのと、とりとめのない話をしていた。

     浩二の隣に座っていた明也が急に素っ頓狂な声を上げて椅子から飛び上がった。

    「おい、こいつ本当に脳みそが溶けているぞ!」

     額を机に押し付けているようにしている浩二の耳を見ると、ウニのような色をした液体がとろりとこぼれかかっていた。3人は脳みそが溶けて耳からあふれ出しているということに何の疑問も抱かなかった。

    「ホラ、ティッシュ! ティッシュ!」

     明也が浩二の左耳を抑えて右耳を上にすると、正成が差し出したティッシュを浩二の向かいに座っていた一平が手にしてこよりを作り、浩二の右耳に詰めた。今度は強引に頭を回し、同じように左耳にもティッシュを詰め込んだ。

     頭をそっと回し、元に戻すと3人はお互いの顔を見回した。3人とも目を丸くして、声が出なかった。正成は救急車を呼ばなくていいのかと狼狽したが、間もなく浩二はすっと頭を持ち上げ、グラスが空になっているのに気付いて、追加で注文しようとした。

     一平が注文を遮り、いつものように間違った慣用で“おあいそ”を店員に要求した。浩二は不満げだったが、勘定に立つ3人についてきたので、正成はほっとした。

     夜も深まっているとはいえ、残暑が厳しい駅への道を歩く途中、浩二はなんで耳にティッシュが詰まっているんだと独り言ちた。


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