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夜の散歩
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夜の散歩

2021-03-12 19:20

     私がなじみの古本屋から帰ると、妹の理恵が同じ大学に通う三世子と駄弁っているところに出くわした。

     理恵は私の姿を見ると、何か思いついたように今度の休みにどこか連れて行けという。どうやら前職でため込んだ貯金をあてにしているようだが、次の仕事を慎重に選ぶことにしているため、どうしようか迷った。ほんの数年の労働で貯めた金額だから、実家暮らしとはいえ限界がある。だが、図書館とハローワークと家とを周回するだけの生活で閉塞感を覚えていたし、気休めにはなるかと了承した。

     どこに行くか希望を聞いていると三世子は、私が仕事を辞めた理由を聞きたがった。就職活動を前に仕事選びの参考にしたかったのだろうと思った私は、求人情報にある残業時間や、休日の表記の読み方についての注意点、急募の求人は採用されやすいが、どこか問題を抱えている可能性があることは覚悟しなければいけないなど、自分の知りうる限りのことを話していた。

     そのうち、どういう話の流れだったか忘れたが、退職を決断するきっかけとなったある出来事の話になった。

     仕事への不満で、いわゆるブラック企業などに見られるような、外から見ても明らかな退職理由になるような違法な出来事は稀だ。上司が自分の話を聞いているふりをして、実際には若造の意見だからと検討すらした気配がないとか、トラブルがあって状況を確認した時にころころ証言を変える従業員がいるとか、自分から見ても他人から見ても一つ一つはそれほど大きな不満ではないことも少なくない。だが、それが頻繁に起こると積もり積もって爆発してしまうことがある。表面張力でぎりぎり保っていた水面がほんの一つの些細なきっかけで崩壊するので、相手も自分も何故そんなことで怒ったのだろうと不思議に思う。

     とある夜、残業がしばらく続いていたため、気晴らしをしようと帰宅後に散歩に出た。時間はまもなく深夜を回る頃で、10分程度近所を散策して翌日に備えるつもりだった。外は湿気が酷くて小さな水の粒が顔に当たるのが感じられた。

     濃い霧が立ち込めていて少ない街灯が照らすアスファルトは白い絵の具を混ぜたようになっていた。近くの海は浜辺が広がっていて、日中は海水浴客の賑わいがあるのだろうが、今は虫の鳴き声が高らかに響くばかりだった。

     潮のにおいに誘われるように河口付近の橋に差し掛かった。海の近くに住んでいるのに子供のころに少し遊んだくらいで、もう何年も海に行っていないなと思ったが、そもそも私は運動やアウトドアの趣味がないので、海に行く理由がないのだ。懐かしさを感じるのは子供のころに見た海の景色で、今の海ではない。

     コンクリートの欄干に凭れかかって流れる川面を見下ろした。潮が満ちてくると海と川の境界が橋のあたりまでせりあがってくるが、この時間では川の両端に設けられた堤防が街灯の光を遮るため、光一つない暗闇の中で水が流れる音が聞こえるだけだった。

     そうやってぼうっとしていたのだが、足首をつかまれる感覚で正気に戻された。ぎょっとして足元を見ても、何もない。風で飛ばされたごみが足首に絡みついたわけでも、通行人がいたずらで私の足をつかんだわけでもない。依然として足首をつかむ感覚は止まず、徐々に力が強くなっているようでもある。街灯でうっすら照らされる足首から下が妙にぼんやりしているように見えた。

     私はとっさに、海から伸びる手の怪談を思い出した。盂蘭盆会の時期に海に入ると、溺れ死んだ者だか、成仏できない霊だかに連れていかれるのだという。クラゲが出るとか、伸びた水草が足に絡まるのを勘違いしたのだとか、いろいろな理由が後付けされているが、その時の私は暗闇で彼岸と此岸の境界が曖昧になって亡者が私を引きずり込もうとしているという考えに支配された。

     そのとたん、私は欄干の隙間から橋の下へと引き込まれそうになった。姿勢を崩しかけ、片足が橋の外側に出て、無数の何かが絡みつく感触があった。

     私は何とか抵抗して這う這うの体で逃げ出した。ほどなく家にたどり着き、清められていない普通の食塩を玄関にばらまき家族に驚かれた。

     一晩明けて落ち着いた私は、仕事への不満が限界に達しているのだと結論付け、退職を願い出たのであった。

     この話をすると理恵は大声で笑い、三世子は大変だったんですねえ、とぼんやり返答した。


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