二〇〇九(平成二十一)年の秋、私は検察庁と裁判所に送致されるたびに大勢の報道陣に追い掛けられた。
私が乗っている警察車両を撮影する為にへリコプターまで飛んでいた。スモークガラスの車中で『家族ゲーム』のラストシーンみたいなヘリコプターの羽音を聴いていた。
一般道では、車の前後左右を囲まれて、信号が赤になり車が止まるたびに、リポーターが乗っていた車から飛び降りて、カメラマンはスモーク加工の窓にレンズを押しつけ撮影する。信号が青になると彼らも車に乗り、追い掛けてくる。
当然、渋滞になり、先導車がつくことや警察が信号を操作し、赤信号を避けたりもした。乗っている車が通る道路の信号が全部青に変わるという体験は、なかなかできないものである。
顔を隠されていた私が一部始終を知っているのは、同じ車に乗っていた警官が実況中継してくれていたからだ。
「一、二、三、四……、今カメラが八台囲んでます。前の車は、車内の後部座席からこっちにテレビカメラ向けてます」
隣に座っている婦警が教えてくれる。
助手席の男性は、携帯で捜査本部に逐一、現在地点と追尾車両の数を報告している。
運転している警官は、
「おーい木山、暑くないか。カメラに手を振ってやったらどうだ」と、冗談を飛ばした。
「俺は最近、木山を乗せてないのに、カメラに追い掛けられて困ってるんだ。木山は乗ってないって言ってもついてくるんだぞ」と、笑っている。
赤信号狙いができなくなると、報道陣は通り道を先回りして、路肩でカメラを構えて待つようになった。店も民家もないエリアの路肩から、カメラのフラッシュが突然バシャバシャ光るのは怖かった。カメラマンの執念が恐ろしかった。その写真を見たがる人の鬱結した心理に寒気立った。
三十七歳の冬、私は「名器発言」で有名になった。裁判所の法廷という場で、自らのセックスを赤裸々に語ったことが特異で、こうした女性は例がないという。
私は愛した男性を嫌いになったことがない。十八歳以降の恋愛の終わりは、今交際している彼より、もっと好きな人ができたことが理由の全てだった。
だから必然的に、二人の男性と交際期間が重なる糊代ができる。
ステディーな彼がいない期間は一日もない。一人で夜を過ごした日は数える程しかない。そんな人生を送ってきた。
私は今まで、小説を書こうと思ったことは一度もない。まず、文才がないと自覚していたし、自分の中にドラマがないと思っていた。これを書くにあたって自分の人生を振り返ったときに、徹さんとの出来事は劇的だったと今更ながら気付いたのだった。
文章で表現することが、身体を拘束された特殊で制限の多い環境にあっても、思考という領域の中では自由でいられることの証明になれば良いと思っている。
徹さんと過ごした時間は、私の胸にじんわりとした追憶となって打ち寄せてくる。彼がいる光景は、私の心の奥深くにまだとても鮮かに残っていることに驚かされた。徹さんの姿は、私にとって大切な風景のひとつとなっている。
それはとても大きな意味を持ち、私はそれを説明するために生きているような気持ちにさせられる。女として生きていく根拠が、徹さんとの交際に全て詰まっていると感じざるを得ないのだ。
私が初めてセックスしたのは、高二の夏休みのことだった。