町の沿革が毛筆で記された黄ばんだ冊子を開くと、この町に最初に入植した男性について書かれてあった。
明治二十一年
福井県に生まれたその男性は、村の助役を務めた後、岐阜県庁に奉職。新天地を求め昭和四年に入植したという。開拓に奮闘し、識見豊富で温厚篤実な彼は、村の人達に尊敬され、村のリーダーとして活躍したという。昭和四十六に八十四歳で亡くなったと結ばれていた。私が生まれる三年前のことである。頁を捲ると「木山正秀」という名前に目が止まった。それは、他ならぬ本家の祖父の名前だった。私が驚異で目を見張ったのは、木山正秀が最初に入植したこの男性の息子だと記述されていたことだった。
本家の祖父は、大正七年に福井県で生まれ、昭和三十五年に司法書士事務所を開業。三十七歳で村議会議員に初当選して以来、永きに渡り在任しと、本家の祖父が刻苦精励したという功績を称賛する言葉が並ぶ。本当にあの本家の祖父の話であろうかと、違和感があったけれど、木山と言えばひれ伏すような町の人の言動に合点した。
六十五歳の本家の祖父は、町議会議長として現役で活躍していたけれど、まさか町の郷土資料館に名を残すほどの人物だとは想像だにしていなかった。しかも、曾祖父は、この地域の開拓者の相談役で、リーダーとして活躍した有名人だと知って、心底びっくりした。
興奮冷めやらぬ面持ちで資料館を出た私は、トイレに行きたかったことを思い出し、腰をくねらせながらトイレに駆け込んだ。スッキリして、手を洗ってから長い廊下を歩いていると、今度は右手から直立したヒグマに不意打ちをかけられた。
二度も同じ剝製にしてやられた私は、この位置にこんな威嚇的なポーズのヒグマを置くのは間違っていると思った。気の弱い人なら、心臓発作を起こしかねない。そう考えながら、司書の安井さんのいるカウンターまでゆっくり歩いていった。