母の執念が実り、私のダイエット計画は着実に成果を上げていた。標準体重の維持のために、相変わらず食事制限され毎日の体重測定と採寸は続けられている。母は交換日記に、「今、油断するとリバウンドしてダイエット前より太ってしまうのよ。気を引き締めて頑張りましょう。ファイト!」
と、運動部のコーチのような気合が入ったメッセージを書き続けた。
妹の美穂は、食事のたびに「もっとご飯を食べなさい」と、言われている。のりたまふりかけを気に入って、白いご飯ばかりおかわりするほど食べていたら、「おかずもきちんと食べなさい」と言われ、おかずを食べるとお腹いっぱいになり、白飯が食べられないと言う。信じがたい悪循環だ。
私の周りには、もっと太りたい、食べなくちゃいけないとわかっているのに、これ以上は喉が通らないと、切実に思っている少女がたくさんいた。私にすれば、嫌みのようなことだけれども、意地悪や当て擦りで言っているのではない。彼女達は、昼休みの時間になっても、給食を食べ切れず、泣きながら先割れスプーンを口に運ぶ少女なのだ。
クラスでいちばんか細い体の彩ちゃんは、暴風の日、傘と共に吹き飛んでいってしまったという逸話の持ち主で、体育のスケートの授業で、強い風が吹くとスケートリンクの外に飛ばされていた。そんな彩ちゃんは、給食で麺が出ると必ず泣いた。啜る力がないのである。
私は、昔、妹にしてあげていたように、食べ終わった空袋と彩ちゃんの手付かずで残されたソフト麺を交換し、二玉食べた。それから、それは麺類が出たときの二人の暗黙の了解になり、彩ちゃんが涙を流すことはなくなった。彩ちゃんは、「花菜ちゃん大好き」と言い、私の腕にしがみついてくる。
そう、いつも私のことを「好き」と言ってくれるのは、女の子達だった。
そんな年の夏、私はクラスメイトの男子が毎週、発売日を心待ちにしている『ジャンプ』、『サンデー』、『マガジン』の回し読みの輪に入った。
ある日、中学生の兄を持つ男子が、「ヤンマガのビーバップが面白いんだよ」と言って、お兄さんから拝借してきた『ヤングマガジン』を見せてくれた。初めて読んだ『ヤングマガジン』に、痺れるほどの感動を覚えた。初めて耳にする、きうちかずひろという漫画家が描く『BE-BOP-HIGHSCHOOL』のあまりの面白さに、発行されていた単行本をすぐに買ってきた。ツッパリコンビの中間徹と加藤浩志が喧嘩と恋に明け暮れるという不良高校生の日常を描いたこの漫画に、私は強烈に魅了された。私とは縁のないツッパリ高校生の世界が、とても眩しかったのだ。
ビーバップの中に出てくる高校生達は、私が知らない言葉を操り、始終喧嘩をしていたが、とても清々しかった。
時代の風俗を貪欲に取り入れて、人情の機微を細やかに描きながらも欲望を糊塗しない秀作という点で、当時『モーニング』で連載していた『課長 島耕作』の弘兼憲史ときうちかずひろは同列にあると思う。その理由は、ひとえに誰もが性欲を隠さないことにあった。
五中の鬼姫と呼ばれる如月翔子や二中の持田リョウなど中学生も登場したが、小学生は出てこない。徹君に恋している翔子が、
「中学生でもカラダはすっかりオトナ」と、アピールしても、
「そーゆーセリフは、もうちっとおっぱい膨らましてから言えよ」と、あしらわれる始末。
ショックだった。おっぱいが膨らまないと、徹君には相手にしてもらえないのだ。早熟に甘んじていた自分が恥ずかしかった。
少女の告白を断る硬派の徹君に強烈な男らしさを感じた。陰毛に毛ジラミが出たり、クラミジアに罹ったりする軟派な浩志より、私は断然、徹君が好きだった。
でも、私にはこの感情が、「恋」という漢字で説明できるかわからなかった。
五年生になって、やっとCカップになった私の胸は、体型の割には小さいように思えたし、Bカップのブラジャーでも問題がないほどの大きさだった。Dカップの西の祖母は、
「あまり大き過ぎるのも品がないし、小さい方が大人になってからも垂れないで綺麗な形が保てるって聞くから、胸の大きさなんて気に病むことないんだよ」
なんて慰めてくれるのであるが、西の祖母や母の白くてふっくらした大きなおっぱいを見るにつけ、やっぱりいいなあと憧れてしまう。
西の祖父母の家の近くに住む同い年の奈々ちゃんは、
「花菜ちゃんのおっぱいは大きくて羨ましいな。柔らかくて気持ちがいい」
と、私の胸に触れる度に言うけれど、まな板にレーズンを二個並べたような胸の奈々ちゃんの言葉では褒められた気がしなかった。
奈々ちゃんはエンゼルパイを一個食べ切れずに、残りを私に渡してくるので、いつも私は一個半食べることになる。私が食べる様をうっとり眺めて、「ありがとう。花菜ちゃん大好き」と言う。そして、顔を近付けてきて、唇を重ね、舌を絡めてくる。この秘め事は、お互いの祖父母の子供部屋で、二人きりのときにだけ行われる。キスしたり、裸を見せ合ったり、触り合ったりするのは、普通ではないらしいと気付いてからも、この行為は続いていた。五年生になっても、どんどん深みを増していた。奈々ちゃんは、唾液を啜りながら、
「手を繋いでキスすると気持ちいいね」
と言ったり、私に抱き付き首筋に舌を這わせたりしては、私を驚かせた。
電電公社が民営化し、NTTが発足した翌月、アスキーネットが開局した。昨年末に父が買い替えたNEC98には、五インチの2HDフロッピーディスクドライブが内蔵されていた。CPUが8メガヘルツに高速化され、使い勝手が良くなったこのマシンで、私は初めてパソコン通信を体験した。
緊張するという感覚を忘れていた私だったが、モニターの前で身震いした。ドヴェルザークの『新世界より』をバックに、父が静かに打つキーボードの音と二人の呼吸が木霊するように響く書斎。私は父と共にエンターキーを押してネットの世界に飛び込んだ。モニターに表示されたアルファベットと数字が目を射った。
Login:******* wed may 1 19:07:14 Welcome! This is ASCII-NETWORK.
「繋がった」
二人の声が重なった。そして、なぜか父と握手した。きっとお互い興奮していたからなのだろう。
プログラミングが得意な父は、自作ソフトウェアをオンラインで公開し、利用者からのバグ報告や要望を取り入れては、趣味でソフトを開発していた。
私は、もっぱら遠くに住む知らない人との会話を楽しんでいた。掲示板とチャットの利用だけで、あっという間に数時間が経過し、月の電話代が十五万円を超えることもよくあった。
アスキーからも一分ごとに課金されるため、毎月とんでもない金額を支払っていた経験を持つ人は、パソコン通信の黎明期には多いはずだ。
母は、毎月NTTの請求書を開くたび、下唇を噛み、震えながら友の会の家計簿を抱えて父のいる書斎に駆け込み、ヒステリックな声を上げていた。
パソコン通信での意思伝達は文章であったから、文章作成力と読解力を実践で鍛えている実感があった。
意見が衝突する大人達の議論を見物するのも楽しかった。非営利の草の根BBSと呼ばれるものでは、限りある回線を占有するだけで積極的に参加しない人を「ROM」や「DOM」と呼び蔑んでいたので、私は必ず発言するようにしていた。その発言が女性というだけでも珍しかったのに、
北海道に住む十歳の少女だと知ると、必ず大きな反響を呼ぶのも愉快だった。父は以前から「アマデウス」をハンドルネームとして使っていた。父がモーツァルトの名前から取ったのだから、私はシューマンからと思ったが、父のアドバイスで、シューマンの妻から取ることにした。ピアニストで、名前はクララ。音の響きも気に入った。
十五歳でシューマンに出会ったクララは、生涯彼を愛することを誓う。激しい女性遍歴の末に、梅毒と躁鬱病を患ったシューマンに添い遂げたクララの女性としての生き方に感銘を受けたと、シューマンの伝記を読んだ後に、父に話したことがあったのだ。
夏休みの予定を立てようかという頃、針ヶ谷さんから国際郵便が届いた。差出人は真由ちゃんのお父さんだ。夏休みに日本に一カ月帰国する予定で、娘が是非北海道の木山さんの家に遊びに行きたいと言っているのだけれど、都合はどうだろうか、という内容だった。
どうやら、真由ちゃんが一人で
北海道に来ることを予定しているらしい。しかも、一週間ほどのんびりしたいとのこと。たとえ真由ちゃん一人でも、この狭い家に招くのは気が引けた。隣町で暮らしていたときに住んでいた大きな一戸建てから辺鄙な田舎町の小さな家で生活していることを知られたくなかった。没落したとしか思えない変容を、真由ちゃんだけには見せたくなかった。
真由ちゃんはどんな女の子になっているのだろう。初めて会ったあの夏から、もう四年が経っていた。両親は考えあぐねた末に、私と美穂を真由ちゃんと一緒にヤマザト会に預けるという選択をした。
ヤマザト会では、一九七五(昭和五十)年から『夏の子供楽園村』と、銘打って全国各地の施設に小中学生を集めて農業体験を行っていた。一人数万円の参加費を払い、一週間、ヤマザト会の施設で共同生活をする。「共に生きる力と心を育てる」をテーマにプログラムされたヤマザトイズムの子供楽園村は、皆で食事をし、思いっきり遊び、農業体験し、仲間と暮らす。難しいことは何もしない。何しろ楽園なのだから。
私は幼い頃からヤマザト会を身近に感じ、好意を持っていたので、子供楽園村への参加には諸手を上げて賛成した。そして、何よりも真由ちゃんを自宅に呼ばなくて済むことに胸を撫で下ろした。弟の正博も参加したがったけれど、対象が小学一年生以上だったため、幼稚園生の正博は留守番になった。
私は、ヤマザトの人達から醸し出されるピュアな雰囲気がどのような生活から形成されているのかということに、とても興味があった。ヤマザトの少女にも興味があった。
私はどうしてか、特殊な女性に関心を持つ傾向があり、特定の男性に恋心を抱くことがなかった。心の奥深くで感じる「もっと、知りたい」という欲求は全て対象が女性だった。玉置浩二さんのような芸能人や漱石などの作家の男性を慕うことはあっても、それはいわゆるファンの心理だ。
三島由起夫『仮面の告白』の読了後に湧いた、奇妙な親近感は、何だったのだろうかと常に疑問だった。
『仮面の告白』が、半自伝小説と呼ばれていることも不思議だった。確かに主人公は三島と同じ誕生日で、「公ちゃん」と呼ばれていた。三島の本名は公威であるし、本の内容と年譜を照らし合わせても相違はない。
ただ、公ちゃんは男色家なのだ。その事実が私を惑わせていた。果たして、同性愛者が異性と結婚して、子供を作るなんてことがあるのだろうか。
公ちゃんは二十一歳を過ぎて、初めて接吻をしたけれど、私は十歳になるまでに二人とキスをしていた。二人とも女子だ。
一人は奈々ちゃん。彼女は赤ん坊の頃からいっしょに撮った写真や八ミリフィルムが大量に残っている幼馴染みである。三歳の子供に、いやらしい気持ちは一切ない。好意があるからキスをする。素直な気持ちの発露がスキンシップなのだ。それだけである。
二人目のキスの相手は、一九八三(昭和五十三)年の四月、転校先の小学校で同じクラスにいた歩美ちゃんだ。彼女は札幌生まれで、私より少し前に転校して来たらしく、クラスで一人だけ都会的な雰囲気を持っていた。彼女の父親は町でいちばん大きな病院の小児科医で、兄一人、弟二人の四人きょうだいだったことも、仲を深めるきっかけになった。
歩美ちゃんはさっぱりした気質で、とても付き合いやすく、放課後もいっしょに遊んだ。歩美ちゃんの部屋で裸を見せ合いながら、お医者さんごっこをした。そしてその流れで自然にキスもする。
そんな歩美ちゃんとの蜜月も、数カ月で終焉を迎えることになる。歩美ちゃんが突然、転校することになったのだ。歩美ちゃんはその後、歯科医になるが、私が大人になっても連絡を取り続けていた数少ない故郷の同級生の一人である。
公ちゃんは、彼女とキスをしても何の快感も感じなかった。愛は出現しなかった。
私も公ちゃんのように、異性とキスをしても愛が出現しないのではないかと不安になった。
二十三歳になっても童貞の公ちゃんは、誕生日に決心を固め娼婦のお姉さんとチャレンジするのだが、無感覚の強烈な痛みに痺れ、十分後に不可能が確定した。
私は考えた。男性の不可能はインポテンツであるという。では、女性の不可能は、どういう状態なのであろうか。女性の膣に勃起したペニスを挿入することがセックスというものならば、膣という穴が存在する限り、女性に不可能ということがあり得ようか。
しかし、当時の私の日常において、恋愛と性欲は深く思い詰めることもなく過ごしていた。