霞ヶ関から出ると、桜の季節は終わり、六本木ヒルズがオープンしていた。
関谷さんには、Eメールを送った。彼女になったものの、私は彼の住所も自宅の電話番号も知らなかった。
三ヶ月音信不通だった私に、
「SARSだろ。俺は学校に勤めてるんだから、うつる病気は困るんだよ」と、冷たい返信が来た。
三月に中国で新型肝炎SARSが大流行し、七百人を超す死者が出たということを私が知ったのは、初夏だった。関谷さんのメールに書かれてあったSARSの読み方さえわからなかった。彼は、感染する病気なんだろうとしつこく訊いてきた。
私は、彼からのメールを受け取った直後に、突発性難聴と左顔面麻痺になった。
知り合いの医師がいる本郷二丁目にある大学の医院に通っていた。御茶の水駅の近くには大学病院がいくつもあり、本郷には東大附属病院もあったけれど、知らない人に会う気になれなかった。
難聴は、初期の治療ですぐに回復したが、顔面麻痺は完治まで三ヶ月かかった。水を飲むと口の左側から水が流れ出た。汁物は全て同じだった。外食が嫌になった。
「元気を出して」と、綾子が六本木ヒルズのカフェで、チョコレートケーキを奢ってくれた。担当医は、パン好きな私に「渋谷に素敵なパン屋ができたんだよ」とヴィロンを教えてくれた。生きてて良かった、と思った。医師の勧めで野菜ジュースにウドオイルを入れて飲むのが習慣になった。
四月に日経平均株価が七千六百七円八十八銭の安値となり、十月には急反発し一万一千円台まで回復した年だった。
綾子が大学のヨーロッパ研修で二ヶ月留守にしている間、関谷さんを自宅に呼び、食事を作り、セックスをするという自宅デートが続き、親密度が増した。
彼は、そのころバス釣りに夢中だった。週末になると男友達と霞ヶ浦に出掛けていた。そのうち福島へ行くようになった。
釣り友達が転勤した福島の裏磐梯には、スモールマウスバスが釣れる湖があるという。彼は桧原湖に魅了され、私が名古屋や大阪へ行く気軽さで、車を運転し、毎週末、福島で釣りをした。竿を積む為に、2001年にはセダンからマークⅡのワゴン車に買い替えていた。
松嶋菜々子が反町隆史と結婚すると
「反町にあって俺にないものはバスボートだけだ」
と言い出し、2004年には中古のバスボートを買った。
反町が持っているギャンブラーでも、並木敏成や今江克隆が乗っているレンジャーでもなく、スキーターに毛が生えたような、聞いたことがないメーカーのものだった。O.S.Pの服を着てエバーグリーンやパームスの竿にダイワの高いリールは買えても、レンジャーは買えないんだと切なくなった。
後年、彼は検事に、そのボートは百八十万でローンを組んで買ったと話し、彼の懐具合を初めて知った。
彼は知り合った当初、新興宗教教団の学園本部に勤めていたのだが、その後、世田谷の女子校に異動し、幼稚園では事務次長を務め、2009年春からは杉並の男子校の事務長になった。
いつも趣味に使う金が足りないとぼやき、釣り雑誌とゴルフ雑誌で新製品情報を見てはあれが欲しい、これも欲しい、金があればあんな職場すぐに辞めて福島に移り住むと言うのが口癖だった。その彼が、
「私はここ数年、勤務先から年収で七~八百万程度の給料を貰っていますが、特に贅沢な暮らしをしているわけではないので、自分の給料で十分に生活していけます」と、優等生のような供述を検察庁でしていたのには驚いた。
しかも大澤検事は、彼が自殺するのではないかと懸念したのには失笑した。関谷さんという人は、そういうポーズを無意識にする、自己愛が異常に肥大し歪んだ精神の持ち主なのだ。検事も、彼と何度か会って話すうちに、彼が単なる自分好きではなく、他者は自分のためにいるとしか思えない人間だと気付いたらしい。
2003年は、NHKで放送された「冬のソナタ」に主演したペ・ヨンジュンが注目を集めた。中年女性が韓国俳優に恋する乙女になった。
関谷さんはヨン様に雰囲気が似ており、どこに行ってもそのことを言われ、得意になっていた。確かに当時の彼は素敵だった。
ヨン様が初来日した2004年に、彼は四十歳になった。この年が、彼の肉体的ピークで、私達の恋人としての蜜月時代だった。