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礼讃・第89回「鬱」
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礼讃・第89回「鬱」

2015-03-09 13:00

    私は2005年に入ってから体調のすぐれない日が多かった。

    「花菜ちゃん、最近暗いね」

    と、綾子に言われた。

    夜中になっても眠りにつけない日が続き、昼までベッドから起きられなくなっていた。気力が減退しているのに落ち着かず、色々なことに苛立った。

     思考力と集中力が減退しているのを感じていた。何もしていないのに、ひどく疲れた。疲れているのに、眠れなかった。

     外に出て楽しそうな人たちを見ると、孤独感が強まり、なぜか涙が出た。寂しくなった。

    家族がいて、恋人がいて、愛犬もいる。時間とお金の余裕もある。

    それなのに寂しかった。なぜかわからない。

    どうしようもない重苦しさに心が暗くなった。いつも不安を感じるようになっていた。

     

    綾子は、三月に音楽大学を卒業し、四月から福祉大学の保育児童学科への進学が決まっていた。

     彼女は教員を目指していた。大学で教職課程を学び、母校へ教育実習に赴き、音楽の教員免許を取得したのだが、音楽科目の教員枠は少なく、就職活動は難航した。

    そこで綾子は以前から関心のあった幼稚園への就職を考え始めた。しかし、どこの採用も幼稚園教諭や保育士の資格が応募の最低条件だと知った。そこで、幼稚園教諭と保育士の資格が取得でき、教員採用試験で抜群の合格実績を誇る就職率文系大学日本一という福祉大学を受験し、合格した。

    当初、綾子は

    「四年間音大に通わせてもらったのだから、働きながら通学しようと思う」

    と、言っていたのだが、父が、

    「お金のことは心配しないで学業に専念しなさい」

    と、学費を納め、仕送りを続けてくれることになった。夢に向かって進んでいく綾子が眩しかった。

    私は何もやる気になれなかった。何かしようと思っても頭が回らない。これはおかしい、と思った。

     知り合いの内科の医師に相談すると、

    「鬱病の診断基準を満たす症状が出揃っているよ」

    と、言われた。

    「精神科医のいるところに通った方がいい。一度の投薬で治るわけじゃないから、カウンセリングを受けて、ゆっくり治療をした方がいい」

     精神医療を受けることには抵抗があった。南野さんを思い出した。精神科はハードルが高かったので、メンタルクリニックの診療内科を探してもらった。

     新患外来の予約は、どこも一ヶ月以上待たねばならず、知り合いの医師に紹介状を書いてもらい、港区のメンタルクリニックを受診したのは二月のことだった。

    月に三度、通院するように言われ、自宅に近いクリニックに変えた。三十分タクシーに乗って移動することさえ辛かったのだ。人混みの駅が怖くて電車には乗れなかった。

     精神科医に三種の薬を処方された。その中に、2000年から日本で発売されるようになったグラクソ・スミスクラインのパキシルが入っていた。

    様子伺いの電話をくれた知り合いの医師に、こんな薬が処方されたと伝えると

    「抗不安薬と睡眠導入剤は効果をすぐ感じるだろうけど、パロキセチンは個人差が大きいし、急に服薬をやめると、気分や体調が悪くなることがあるから、必ず医者の指示を守るんだよ。非依存性で中止が簡単な安全な薬だと宣伝されているけど、欧米では裁判も起こされている。抗うつ薬や精神科の薬の効果は25%で、多くは偽薬効果や自然経過だというデータもあるからね。症状が改善されたら、薬を減らしていくように治療するんだよ」

    と、言われた。

    「うん、わかった。ありがとう」

    長く話す気力がなかった。

    入眠障害と途中覚醒の症状は多少軽減したが、ふらつきや残眠感、目眩、頭痛、倦怠感といった副作用も強かった。おくすりカレンダーのポケットに薬を入れていると、認知症の高齢者と変わらないじゃないかと情けなくなった。

     おくすりカレンダーは、飲み忘れや飲み違いを防ぐために、朝・昼・夕・就寝前と服用する時点ごとに分けて入れる壁掛けタイプの薬入れだ。一目でいつどれを飲めばいいかわかるようになっている。

     医師からは、完治するまで大事な決断はしないようにと忠告された。判断能力が欠如しているということらしい。

     メンタルクリニックに通い始めてからも、関谷さんとは泊りがけで裏磐梯に行った。彼は自分のバスボートで湖に出るのが楽しくて仕方のない時期だった。

     
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