八月の末に、父が知床の峯浜で車を運転中に事故に遭った。本家から最初に電話を受けた時は、父が行方不明になっているという内容だった。
私はその日の飛行機で帰省した。実家は、父が生活していたままの状態だった。ひょっこり父が戻ってきそうだった。
しかし、何日待っても父は帰宅しなかった。
私は一度東京に戻った。すると、本家から、きょうだい全員で至急来てほしいと連絡がきた。四人で駆け付けた。私は二匹の犬を、美穂は0歳の愛音を連れて、飛行機に乗った。
実家は、本家の人間が数十人出入りし、大変な事態になっていた。自宅での仮通夜が終わり、その晩は、父が横たわる祭壇に線香を絶やさないよう同じ部屋に布団を並べ、子供たちが交代で線香を上げ続けた。
「お骨になるまでお線香を絶やしてはいけないものなんだよ」
と、西の祖父が亡くなった時に祖母が言い、交代で線香の番をしたのは十一歳の夏だった。
「お線香の煙は上へ上へと伸びていくから、天上の道しるべになるんだよ」
西の祖母の言葉を思い出し、太い線香を蠟燭の火に近づけた。
九月十日に、隣町にある本家の菩提寺で十九時から父の通夜が執り行われた。翌日、午前十時からの葬儀には、母も参列した。
喪主は、長男である弟にすると、本家の親戚が話し合って決めたことに、母の兄弟たちは立腹し、葬儀には顔を見せなかった。
西の祖母は、棺桶の中に横たわる父が『二十世紀少年』の「ともだち」のように包帯を巻かれているのを見て、
「正芳さん、こんなになって…」
と、静かに涙を流し、本家の人達に深く頭を下げた。
私は祖母を抱き締めた。
母は、小劇団の舞台女優みたいに、おいおいと泣き出した。意味がわからなかった。背筋がそそけ立った。 なぜか母は、父の妹の典子、聡子、祥子の三人の叔母たちと抱き合って泣いていた。
あなた達が謝罪すべき相手は父だろう、と思いながら、彼女が演じる様を白けた気持ちで眺めていた。
この時期、私の鬱はピークだった。家族以外からの誰一人、それに気付かないらしかった。
私と綾子は東京に転籍した。父のいない北海道に本籍を置く必要はないと思った。母と分籍しようかという話になったのが、きっかけだった。しかし、若い独身女性が一人の戸籍を作るのも寂しいわよね、と綾子と話し、転籍にした。
私と綾子は、今後、母と生活を共にする気持ちは一切なかった。私たち四人の子供は、父の寿命を縮めたのは母だという共通認識を持っていた。
父は生前日記をつけていた。私達家族と生活していた頃にはなかった習慣だ。
その日記は主に、昭子さんとの交際日記でもあった。父の男としての本心が赤裸々に綴られていた。子供たちへの想い、母や本家の祖父母への心情も記されていた。この日記の存在は、母には内緒にしようと四人で約束した。
パソコンの電子メールと携帯のショートメールも使っていた。電話でもよく話し、毎日何かしらで連絡を取り合っていたことを、私は昭子さんから直接聞いて知った。
昭子さんが送ってきた香典袋には、親戚の額よりも多く包まれていた。斎場にも大きな花輪を贈ってくれた。それを忌ま忌ましげに見つめる母の視線が怖かった。
母は出棺の際に女優張りの号泣をして以来、嬉々として、父がいなくなった自宅の模様替えをし始めた。