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本がつながる。次へとつなげる。
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本がつながる。次へとつなげる。

2016-02-10 18:30
    読み終えた本から得る読後感。
    これが大事だと以前の記事で書いた。
    そんな中でも好い読後感として、自分の足りなさを感じることを推したい。
    本を楽しめるかどうかは、まず本の内容による。
    けれども、それだけにとどまらず、本と相対した自分にもよる。
    自分の無理解や前提知識の欠落によって内容を味わえないのは、歯がゆい。
    この歯がゆさを克服すること。
    それを可能にするのもまた、本に依るところが大きいのだと思う。

    前回紹介した本は、美術や芸術、そして、哲学に関する本だった。
    内容が高度で、エッセイでありながら気楽に読めるものではなかった。
    では、つまらない本かと言えばそんなことはない。
    ただ、より深く、より楽しむには自分には時機が早かった。
    そこでラストに書いたように、今回紹介する本を購入したわけである。
    この本が1つの手助けになるのは確かだが、十分ではない。
    なぜなら、作家それぞれの思想的・哲学的背景の表出が作品である。
    網羅するのがたやすいことではないのは明白だろう。
    歯ごたえのある本との出合いは、次へ次へと続いていく。


    さて、前置きはこれくらいにして、今回紹介する本は
    加藤尚武著『「かたち」の哲学』(岩波現代文庫)

    あなたが今、愛着を持っている「モノ」はそこにあるだろうか。
    そこにある「モノ」だから、それに愛着を持つのだろうか。
    日々の生活において、概念に意識を向けることはそう多くないだろう。
    例えば、道具は道具であり、利用されるべき効能を持って作り出されている。
    音楽CDであれば、同一の商品に品質の差がなく、大量に生産され、個体差がない。
    どれもいい音を届けてくれる。
    これは、原盤以外がみなコピーだからである。
    販売される1枚1枚のCDを存在としてみると、個体差のないコピーである。
    しかし、認識の上では異なりうる。
    「かけがえのなさ」や「思い入れ」が物を「モノ」にする。
    小遣いを貯めて初めて買ったCDは、当人にとってのみコピー以上の存在に違いない。
    この時、我々は何を手に入れるのだろう。
    CDそれ自体を手に入れるのか、音を手に入れるのか、モノを手に入れるのか。

    「かたち」を漢字で書こうとする。
    PCでの変換候補にが出る。
    これを見て、形容詞という言葉を思い浮かべれば順当というところか。
    形容詞を改まって説明しようとすると、難しいことに気付く。
    wikiを引用する。
    形容詞(けいようし [ 1])とは、名詞や動詞と並ぶ主要な品詞の一つで、大小・長短・高低・新旧・好悪・善悪・色などの意味を表し、述語になったりコピュラの補語となったりして人や物に何らかの属性があることを述べ、または名詞を修飾して名詞句の指示対象を限定する機能を持つ。
    とのことである。
    イチゴで例えてみる。
    新鮮で、大きく、赤味が強いので、ショートケーキに使うのに好さそうだ。
    ここでの好いは、見栄えがするという意味にとることができるだろう。
    見栄えが見た目の立派さだとすると、容姿の美醜ともつながってくる。

    「かたち」を追うと、美との切れない関係が見えてくる。
    の違いも重要で、踏まえるべきところがある。
    第2章 美しいものこそかたちであるからの引用
    まず、形について。
    形という漢字は、井に[彡]を加えたもので、井は鋳型であり、[彡]は光沢を表す。型から抜き取られた形がきらきらと輝くように見えるさまを表現している。「形」とは「美しい形」という意味であったともいえる。古い日本語では「かたちびと」といえば美人のことであり、「かたちあり」といえば「美しい」ということであった。美しいものは素材から抜け出してくるが、醜いものは素材に密着している。
    続いて、型について。
    型という漢字は、井と刂(刀)と土を組み合わせたものである。鋳型に粘土を入れて、刀で切り離すという意味を含んでいる。木製の型を「模」といい、竹製の型を「範」という。この二つをあわせて「模範」という。材料は型に合わせて、作られなければならない。
    型の重要性について、プラトンの「イデア」の話となる。
    これはもともとは、「見る」という意味の動詞(idein)から派生した言葉で「見られたもの」という意味で、姿や形のことであった。美しいものの原型は「美のイデア」であり、善い行いの原型は「善のイデア」である。美のイデアは美の「模範」であり、善のイデアは善の「模範」である。じつは、「美にして善なるもの」のイデアが存在すると考えられていた。美と善と別々の理想があったわけではない。姿だけが存在から抜け出してくると、この世のものではなくなってしまう。
    こうみると、模範解答という言葉の、過不足なく手本となる解答という意味の深さを知る。
    少し軽めに「かわいいは正義」という言葉も頷ける部分もある。
    源氏物語において、醜女として詳細に描かれる末摘花があってこその美の世界もある。


    この著作中、「私」と美しい双子の姉妹「あやめ」と「かきつばた」が出てくる。
    私の恋人はあやめである。
    あやめの「美しさ」から起こる問題が、読みやすさのための1つのテーマである。
    プラトンのイデア論からすると、
    物から形をはっきりと分けてしまえば、肉体はこの世にあって形はあの世にあるのだから、私は「美しいあやめ」を抱くことができない。愛はプラトニックに終わらなければならない。
    これに対して、プラトンの弟子であるアリストテレスは、
    物から形(イデア)を分離して独立の実体に仕立ててしまった。
    として、厳しく批判する。
    アリストテレスはシモンという言葉で形と材料との関係を冷静に説明する。
    シモンとは、獅子鼻で凹みのある鼻。「凹み」という形を持った「鼻」(材料)のことである。「シモンはその質料との結合体であるが、凹みそのものは感覚的質料なしに[まったくの形相として]存在する」。形が素材を離れた一つの要素であるのは、素材の欠けた部分作る形も、一つの形であるからだ。だから、素材と形は常に同居しているからといって、同じ要素ではない。素材の付いた形と、素材の付かない形が同じ形であるということがあるからである。
    ドーナツを思い浮かべて欲しい。
    食べられる部分と、型で抜いて穴の部分。
    穴と抜き取られたドーナツは「同じ形」という関係をしている。
    これは、材料のあるなしを越えて同じと言える形という要素があるからである。
    材料と形は、違う要素であるが、材料のない形は心の中にしかない。私があやめの体を抱けば、同時に私はあやめの美しい形を抱いている。
    アリストテレスによって救われたかに見えたが、ここで話は終わらない。
    あやめの美しい姿、美しさそのものは見えるものである。見えるものを私は「抱く」とどうして言えるのだろう。美しいあやめを抱くためには、視覚の対象と触覚の対象が同一であることが保証されなくてはならない。視覚の対象と触覚の対象が同じであることは、視覚によっても触覚によっても確かめられない。視覚の対象でもあり、触覚の対象でもあるものが、「物そのもの」であるとしよう。あやめから「私を抱いてください。私の身体ではなくて、私の映像でもなくて、私そのものを抱いて」と言われたら、私はどうしよう。

    問題は、美しくみえるものに触れることへと移る。
    視覚と触覚の関係から、「認識することへの認識」を改めて考えさせられる。
    マグリッドの絵画作品に「これはパイプではない」と題されたものがある。
    だが、描かれているのはパイプである。
    人を欺く嘘のようだが、これは真実である。
    パイプの絵はパイプではない。
    形と素材を分けて、形の方が本質的だと思い込む人は、「これはパイプではない」ということの真実を忘れている。芸術は仮象である。理想はにせものである。リアリズムの画法は非実在である。真理とは嘘のことである。本物はもっと寡黙であり、現実の世界の中に沈み込んでいる。
    著者はこう述べて、見方・捉え方への注意喚起をする。
    ヘーゲルを引用し、芸術と美についての考えを示す。
    芸術は実際にたとえ真剣な目的に奉仕し、真面目な結果を生み出すにしても、芸術がその際に用いる手段は(あざむき)である。なぜなら、美は仮象のうちにその生命をもつものだからである。
    あやめそのものを抱くための私は、どうすればいいかの答えも示される。
    示されたと言うべきか。
    上に引用した部分に表れている。
    答えは、できないである。
    ただ、何もできないのではない。
    映像としての姿を否定することで、存在そのものへ出会おうとすることはできる。
    「これはパイプではない」という画像性の否定を抱き合う男女は目をつむることで実践する。目をつむる瞬間には、存在そのものへの出会いへの小さな祈りがなければならない。接吻と行為の意味は象徴である。肉体でもない、形でもない、「あなたの存在そのもの」は、象徴としての行為によってしかとらえられない。視覚対象としてのあやめは、私の視覚世界に住んでいる。目をつむり、肩を抱き寄せ、唇を合わせるときのあやめは触覚世界にいる。触覚対象と視覚対象の同一体であるあやめは、そのどちらにもいない。愛とは、どの対象でもない「あなた」に出会う試みである。
    ここに1つの愛のありようが示された。
    果たしてこの後、私とあやめがどうなっていくのか。

    以下、見分けられないものは同じもの
       永遠の美女は何歳か
       世界は目にさかさまに映る
       光と色だけの初めて見る世界
       大きさと距離感
    等々、著者が哲学テーマとした「錯覚はなぜ起こるか」に主眼を置いた章も並ぶ。

    全編を通して、概念に照らしてみることを学べる本である。
    そして、著者の意図は「主観」という概念のいかがわしさを主張することである。
    冷静に物事をみつめ、考察することで拓ける世界があることを知る本でもある。
    哲学者たちがこれまで考え続けてきた、「かたち」の哲学史。
    わからなさの中に、ほんのりと形作られる「かたち」を大事にしたい本である。
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