批判と対峙する。
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批判と対峙する。

2014-08-26 02:00


    何をするにも必ず批判される。
    全ての人が肯定する事などありえない。
    どこかには粗があり、そこを突いてくる。
    人間自体が欠陥だらけの存在なので、
    批判される事を避けて通れはしない。


    では、その批判に対して、
    どう向き合っていけばいいのか。
    ひとつは、何事も全く受け付けない。
    気にする事により起こる精神汚染を思えば、
    はねつけて、自分の道を進んでいく。
    多くの場合において、
    批判に論拠はついておらず、代案も出されはしない。
    ただ単に、正義を振り回して、
    主張する事の正しさを訴え、自らの優位性、
    存在をアピールしたいに過ぎない。
    こちらへの気持ちなど全く入っていない。
    そういうものに対しては、
    内容は云々する以前の問題で、
    はねつけるより他はない。
    そして、そういう場合の内容も、
    論拠が述べられていない分、
    あたかも事実かのように書かれている事も、
    こちらの愚かさや浅はかさを強調するための方便で、
    眉唾物と言わざるを得ない。
    もし、とある領域において正しい事を熟知して
    述べてくる人であるなら、
    そのような下らない批判などしない。
    そういう人こそむしろ、我が道を進んでいるはず。
    他の無関係な存在に構ってはいられないはずだ。


    そう、相手にしない。
    それが基本の姿勢であり、多くの人が考える事だ。
    しかし、それだけでは、人を出し抜く事は出来ないし、
    人より前へ進む事も難しくなる。
    人とは違う事をする。
    新しい価値を生む上での根本の行動だ。
    そう考えた場合、批判に対する向き合い方を
    もう一度考え直す必要がある。
    私が考える事は次の事だ。


    まずは批判が来た時に、全く精査せず、
    何も見ずに捨ててしまう。
    これは非常に勿体無い。
    特に使うべきは
    「お前は××を知らない」
    「○○の事を分かってない」
    という指摘。
    その中でも、やり方が判らないもの、
    すぐには思いつかず、手に入らないものには
    手をつける必要は無く、弾いて良い。
    なぜなら、批判してくる人間も、
    その知識を持っているかどうかが疑わしいからだ。
    方法がそう簡単に見つからない事は
    批判してくる人間とて同じ事。
    気にしても、変えられない事を考えるのは無駄骨。
    おいおいフェイズが変わって、出来るようになったら
    進めていけば良いと思われる。
    知らない事が事実なら、知ればいい。
    知る事で損はしない。
    中身のない批判においても、気付く事はある。
    まずは、全てを捨ててしまわないようにしよう。


    もう一つ。
    仮に正論だったとしても、その正論を行う事と、
    今の自分の現状が釣り合うかどうか。
    もし、釣り合わない、無理な要求を正論として
    掲げている場合、撥ね付けるしか道はない。
    これもまた、おいおいフェイズが変わってから行う事だ。
    その典型が、アマチュアにプロを要求する事。
    プロになる野望を抱いている人がいた場合
    「プロはこうしている、だからお前は甘い。」
    そう言って、プロと同じ事をしなければ、
    プロにはなれない、という論法。
    これは無茶苦茶だとしか言いようがない。
    なぜなら、プロになっている人は、
    お金を貰っている事だからする事であるし、
    これまでに経験で培ってきた事がある方こそ、
    無理な事をやってのけられるとも考えられる。
    それをアマチュアにもやって、努力しろ。
    出来ようはずがない。
    金も貰えず、成功の保証もない。
    モチベーションが上がる訳もなく、元より無理な話。
    でも、プロを振りかざせば、
    その無理が、当たり前にしなければならないように
    聞こえてしまう。
    物事には順序と段階がある。
    今、プロとして活躍している人においても、
    その一連の展開があったはずだ。
    目指す物は大きく、だが、進める事は小さく手堅く。
    仮にマラソン選手になりたいと願う人がいる。
    その人が行うトレーニングで、
    プロがやっているからと言って、
    いきなり数十キロの走行を強要出来るかといえば、
    物理的に不可能だ。
    短い距離から始めて、いずれ長い距離へと進む。
    それは、誰もが当たり前に受け入れる論理だろう。
    短い距離から始めるなど、お前は甘い。
    だから、うちらプロと同じことをしろ。
    これがどれだけ無茶苦茶な事はお分かり頂けよう。
    なので、自分の置かれている現状に
    そぐわない批判においても、撥ね付けるしかない。


    あとは、人格否定とも言える、ただの悪口。
    これは論外。
    耳に入れて、気持ちがネガティブになっては
    投げつけてきた人間の思うツボなので、
    そして、何の役に立たないので、
    取り合うだけ無駄。
    これこそが、最初のスタンス、
    批判は無視して、はねつける。
    それがベストの向かい方だ。


    批判において使われる口上についても
    細かく考えてますか。
    実際に私が受けた言葉について考えます。
    「誰でもやっている」という言葉がある。
    これは、批判される側が劣っている。
    それでは、全く意味がない事を
    強調する時に使う。
    ここでまず考えるのは、
    「誰でも」という言葉の裏取り。
    まず、そういう批判の場合、
    裏、つまり例が挙げられる事はまずない。
    挙げられていても、どこでその情報を知ったのか、
    ソースも非常に疑わしい、リアリティがない。
    どこでそれを知ったのか。
    知っているということはその手の事に精通、
    もしくは、良く知っている友人なりがいる。
    そういう事になる。
    そんな人が、零細の人間の事に
    とやかく口を挟むわけがない。
    よって、「誰でも」という言葉に
    信憑性はなく、無視するのが正解。
    これに関連して、
    「こういう人間なら、こうしているのが当然」
    という事も同様。どこでそれを知ったのか。
    なぜ、そんな事が分かるのか。
    言えば、納得すると思ったら大間違いだ。
    現実味、もしくは、必要性を考えれば
    自ずと、意味がある事なのか、
    そうではないかは見える。



    「やろうと思えば、誰でもできる」
    これもまた、批判対象の凡庸を強調して、
    士気を下げる効果がある。
    やり続けていることへの疑問を生じさせ、
    うまくいけば、躓かせる事が出来る。
    しかし、ここで注目するべきは
    「やろうと思えば」というフレーズ。
    逆を言えば、やろうと思わなければしない。
    やろうと思わなければ、やりたくない。
    これは非常に重大な事だと気づかない。
    努力をする事は誰でも出来る。
    勉強はやれば誰でもできる。
    日本人は精神論で、
    こういう事を思っている人がどれだけ多い事か。
    しかし、現実問題として、勉強が出来ない人は多い。
    誰でも出来るはずの勉強で、落伍者が出る。
    なぜか。やろうと思えないからだ。
    努力についても同様。体や気持ちがついてこない。
    そうだ、ここまで言えば気付いて貰えるだろう。
    「やろうと思える事自体が既に能力であり、
     一歩進んでいる事だ。」
    これにより、何事においても、
    誰でも出来る事は限られている。
    特に継続を要するものは
    「やろうと思えば、誰でもできる。」
    だが、実際継続できる人は少ない。
    仮に、その継続する事自体に効果はなくても、
    それを続けるだけのマインドがある事は、
    価値があると云えよう。


    批判のツール、根拠として
    「常識」「モラル」「倫理」などを掲げる人もいる。
    これもまた概念が希薄だ。
    「常識」について言うなら、
    どれだけの人がそう思っているかのデータがない。
    なぜ、それが常識と分かるのか。
    誰でもそう思っていると言う保証を与えられるのか。
    「空気感」だけで物を言っている。
    そして、仮にそれが常識だとして、
    それは誰でも思っている事であり、
    言い方によっては陳腐だ。
    新しい事、変わった事をやろうとすれば、
    「常識はずれ」「非常識」と言う批判を浴びせる。
    人と同じ事をやれば、陳腐だと叩く。
    確かに、法律に触れたり、
    物理的に損害を被る人が現れた場合、
    仮令、新しい事が斬新で面白くても、
    それは、行うべきではないので、
    批判は免れない。
    ただ、「常識」という言葉自体は希薄で、
    惑わされる事はない、と私は考えている。
    ある時代の非常識も、切り開いた人間によって
    常識と言えるまでになっている事もある。
    時代によって変わるものでもある。



    「モラル」「倫理」についても、
    これは数多くの人が考える事なので、
    見方によっては陳腐なものだ。
    勿論、その事を踏まえて行動しなければ
    命取りになる仕事や、状態にある人もいる。
    そして、それもまた自覚する事だと思う。
    流石に、それがわからないほどバカでもあるまい。
    「モラル」「倫理」を問われる立場の人であれば。
    しかし、そういう立場にはいない人の場合は、
    「モラル」「倫理」を用いた批判は
    あまり意味をなさない。
    ひとつは「分かってやっている」場合。
    誰でも考える事ではない、外れた事を行い、
    意見や行動の特殊性、独自性を出す戦略。
    「炎上商法」という言い方が最近なされているが
    それも、この事に含まれると思う。
    「分かってやっている」場合、
    「共感を得られる」確信がある事も
    セットだと考えられる。
    誰も共感しないことを書いても意味がない。
    「倫理」「モラル」に反する過激な論調。
    腹の中では思っていても、口に出来ない。
    そういう人たちの代弁者として、
    あえて汚れ役となる。
    特別な支持を得る。興味を抱かせる。
    支持を得られる、考えている人も多い。
    そこを突いていく、これもまた差別化のやり方。


    相手からの批判を一つ一つとって
    考えを巡らしてみても面白い。
    但し、相手にぶつけても意味がない。
    相手はもとより論議などする気がないからだ。
    揚げ足を取って、嘲て終了。
    論を展開した事自体をバカにして終わり。
    中身を読む事はありえない。
    だからこそ、白日に晒して、
    不特定多数の人に読んでもらう。
    今回の掲載の趣旨はそんなところだ。


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