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最初から存在しないサムシングを振り翳し縋り付き讀み違え五月蝿く拗らす狢の群れ。戦国夢想ニューヨークの幻。
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最初から存在しないサムシングを振り翳し縋り付き讀み違え五月蝿く拗らす狢の群れ。戦国夢想ニューヨークの幻。

2014-01-18 00:01




    モラル・パニック

    モラル・パニック(Moral panic 、道徳パニック、道徳恐慌)とは、「ある時点の社会秩序への脅威とみなされた特定のグループの人々に対して発せられる、多数の人々により表出される激しい感情」と定義される[1]。より広い定義では、以前から存在する「出来事、状態、人物や集団」が、最近になってから「社会の価値観や利益に対する脅威として定義されなおされる」ことと言える[2]

    モラル・パニックとは、ある種の文化的行動(多くの場合サブカルチャーに属する)や、ある種の人々(多くの場合、社会的・民族マイノリティに属する)に対して、世間一般の間に「彼らは道徳常識から逸脱し、社会全般の脅威となっている」という誤解偏見、誇張された認識が広がることによって社会不安が起こり、これら「危険な」文化や人々を排除し社会や道徳を守ろうとして発生する集団パニック集団行動である。モラル・パニックは、少数の人々に対する、多数の人々(必ずしも社会の多数派というわけではない)による激しい怒りという形をとる。

    概説

    架空の例であるが、次のようなものがモラルパニックである。

    社会に急速に携帯電話が普及したことにより、若者が携帯電話などに熱中することへの懸念が中高年の間で広がるとする。やがて「若年犯罪の増加や少女売春の増加や人間関係の劣化は、携帯電話の電波による脳へのダメージが原因だ」というようなセンセーショナルな説がメディアなどを通じて蔓延し、保護者の間に携帯電話に対する恐怖や社会不安が発生する。不安の高まりの結果、携帯電話の害悪を訴えて携帯電話を子供から取り上げたり、携帯電話販売を禁止したり携帯電話サイトを一律閉鎖したりする運動が社会全体に一気に広がる。この社会不安と運動はモラルパニックである。

    これらのパニックは社会問題や俗流若者論などを取り上げるメディア報道により火が付くことが一般的であるが、半自然発生的にモラル・パニックが起こることもある。集団狂気(マス・ヒステリア、mass hysteria)はモラル・パニックの要素となりうるが、集団狂気とモラル・パニックの違いは、モラル・パニックの場合は人々の持つ道徳性によって燃え上がり、普通「純粋な恐怖」というより「怒り」として表現されることである。社会的・文化的価値観を覆すものに対する静かな不安が広がっている時に、怒りを表現してパニック的運動を発生させる人々は市民運動家や政治家やメディアなどの「道徳事業家」(道徳起業家、moral entrepreneurs、アメリカの社会学者ハワード・S・ベッカー Howard S. Beckerによる造語)と呼ばれる人々であり、その標的となるのは「フォーク・デビル」(folk devil、「民衆の悪魔」、社会からよそもの視される人々で、民話や噂話やメディアなどではさまざまな害悪の原因としていつも非難される人々)と呼ばれる人々である。

    モラル・パニックとは社会に緊張を起こすような論争の副産物でもあり、またモラル・パニックに対し疑問を呈することは社会の敵を擁護するものとしてタブー扱いされ、公の場での論争ができないこともある[3]

    モラル・パニックは、社会が共有してきた価値観や規範に対する脅威が知覚されたときに、人々がその「脅威」を思い巡ることで起こるものである。普通、これらの脅威はマスメディアによる大々的報道に刺激されるか、社会の中の・言い伝え・都市伝説などによって刺激される。モラル・パニックはさまざまな結果を残すが、最も痛ましいものはパニックの中にいる参加者に対する「免状」である。彼らの行いはマスメディアによる観察や報道によって正当性を与えられ、それゆえマスメディアに見られている/支援されている彼らは集団心理によって激しい活動に向かって突き進んでしまう。

    起源

    「モラル・パニック」という言葉は1972年英国社会学スタンリー・コーエンStanley Cohen)によって生み出された。彼は著書『Folk devils and Moral Panicsフォーク・デビルとモラル・パニック)』に於いて、1960年代の英国でマスメディアがモッズロッカーズといった荒れる若者達をどう報道しどう過剰反応したかを記述する際にこの語を使用した。しかしコーエン以前に、彼の同僚であるジョック・ヤング(Jock Young)がロンドンのノッティング・ヒルでドラッグを吸う人々に対する社会の反応を「モラル・パニック」と表現した例がある[1]

    モラル・パニックという言葉は比較的最近にできたものだが、多くの社会科学者は1925年に開始された「ミドルタウン・スタディーズMiddletown studies)」というアメリカ合衆国都市についての事例研究case study)に、この現象に関する最初の深い研究が含まれていた、と指摘している。この研究で、研究者達は、アメリカの小さな町の社会的・宗教的指導者達が、当時の最新技術であるラジオ自動車を「非道徳的な振る舞いを起こすもの」として非難していたことを報告している。例えば、この研究の際にインタビューを受けた牧師は、自動車を「車輪のついた売春宿」と表現し、この新発明を教会に出るべき時間に街の外へドライブに出かける手段を市民に与えるものとして非難している。

    スチュアート・ホールらは、『Policing the Crisis: Mugging, the State and Law and Order』(1978年)において、アメリカで発生していた路上での強奪(mugging)がイギリスにも出現したことに対する社会の反応を研究し、コーエンの「モラル・パニック」を援用して、「上昇する犯罪率」の議論は、社会の管理化を行うイデオロギー上の機能を果たしていると理論づけた。ホールの考えでは、犯罪に関する統計は政治的・経済的目的で歪められ、「危機を取り締まる」ことへの大衆的支持を作りだすためにモラルパニック(例えば、路上強奪に対するモラルパニック)が起こされるとし、メディアはそのためのニュース生産に中心的役割を果たすとした[4]

    パニックの進行

    モラル・パニックにはコーエンのいう「逸脱を増幅するスパイラル」という要素、すなわちメディア批評家の定義によれば「反社会的行動に分類される出来事やその他望ましくない出来事についての報道が更に次の報道を起こし拡大する螺旋状の進行」という要素がある。

    1. 関心 - モラル・パニックが起こるには、まず世間に、疑わしい集団や文化は社会に対し悪影響がありそうだ、という認識があることが必要である。
    2. 敵意 - そうした集団や文化に対する敵意が高まり、「フォーク・デビル」へとされてゆく。「やつら」と「わたしたち」の明確な区分が形成される。
    3. 合意 - 国民的なものとはならないまでも、「これらの文化や集団は社会に対する現実的な脅威である」という認識が広まり受容される必要がある。このとき、「道徳事業家」たちの声が大きく、その一方で「フォーク・デビル」の声は社会に届かず組織化もされていないことがモラル・パニック発生には重要である。
    4. 不均衡 - 大衆は、非難されている集団が持つ実際の脅威に比べて不均衡な統計を与えられる。
    5. 揮発性 - モラル・パニックは揮発性が高く、激しく燃え上がるが終わる時も早く、大衆やメディアの関心は次の事件やニュースへ向かう[1]

    批判

    『フォーク・デビルとモラル・パニック』で、コーエンは「モラル・パニック理論」に対して起こった批判について概要を述べている。そのうちの一つは「パニック」という言葉に関するもので、この語が不合理さや混乱などの意味を内包してしまっているというものだった。コーエンは、パニックという語はメタファーとして使った時にはぴったりくる言葉だと主張している。

    他の批判は不均衡性に関するもので、ある文化や集団に対する不均衡な反応の「不均衡」とはどれくらいの程度のものか、測る方法がないことを問題としている。コーエンが同書で述べているフォーク・デビルの例のうち、すべてが弱者であったり不当に中傷されたものであったりしたわけではないことを批判する者もいる。

    Jewkesは「モラル」や「モラリティ」という語に関する問題、この語が「モラル・パニック」論において疑問なしに受容されている問題を挙げている[5]

    モラル・パニックの例

    実例や仮説が広まることによって、多くのモラル・パニックが起こっている。ただし、これらの事象を「モラル・パニック」とみなす立場と、正当な社会的運動とみなす立場には対立があるため、決着のつかない議論になる場合があることに注意したい。

    法により線引きをすることは可能ではあるが、かつて魔女狩り裁判、奴隷制度を認める法や禁酒法などが存在したのも事実であり、普遍的なものではない。モラル・パニックが広がることにより、犯罪の取り締まりの強化や行政上の変化、さらには法制にまで影響をもたらすこともある。

    古いもの

    • 魔女狩り
    • ホワイトスレイブリ(19世紀後半-20世紀初頭)
      若い女性をさらって性的奴隷のため売り飛ばす商売があるという噂が広がり、中国系移民ユダヤ人がその首謀者だとして攻撃を受けた。
    • 血の中傷Blood libel
      子供などを生贄にして殺し、その血を宗教的儀式に使っているという主張。反ユダヤ主義に関して長年、ユダヤ人を非難するために流布されてきたが、他のあらゆる宗教的異端者も中傷の標的となっている。
    • ホモフォビア同性愛に対する嫌悪、恐怖)
      同性結婚に対する反対も含まれる。
    • 混血移民などに対する恐怖・差別、ユダヤ人に対する暴行・虐殺
    • 小説演劇映画などの害悪
      1930年、アメリカでギャング映画の隆盛に対する宗教団体などの非難が高まり、アメリカ映画製作配給業者協会(MPPDA、現在のMPAA)は自己検閲のためヘイズ・コード(Hayes Code)と呼ばれる映画製作倫理規定を策定した。1934年からはすべての映画に対し厳格適用されることになった。こうした自己検閲は1966年の廃止まで続き、アメリカ映画の勢いを少なからず殺いだ。
    • アルコールに対する、宗教団体や女性団体からの批判
      1920-1933年の間、アメリカ合衆国においていわゆる「禁酒法」として具現化。

    20世紀半ば以降

    20世紀後半以降

    20世紀末以降

    • 少年犯罪の増加・凶悪化
      日本では少年犯罪が統計では減少しているにもかかわらず、1997年神戸連続児童殺傷事件以降センセーショナルに報じられるようになった。そして、特に2000年頃からは17歳の少年の犯罪が盛んに報道された。このことは日本政府を動かし少年法改定の推進力となった。また犯罪全体に対する厳罰化死刑制度の支持・存続を求める声も増加している。
      校内暴力や(対象が頻繁に入れ替わるようなタイプの)いじめの背景にもモラル・パニックがあると論じられる[7]
    • ペドフィリア(幼児性愛)に対する反発
      英国などではタブロイド紙などで反ペドフィリア・キャンペーンが行われており、結果、幼児性愛者と間違われた人に対するリンチも起きている[8]
    • 学校の安全
      アメリカでは1999年のコロンバイン高校銃乱射事件以来、生徒による校内での事件防止のため様々な安全対策がとられたが、しばしば過剰反応も指摘される。また同じくアメリカで、学級崩壊や成績悪化、麻薬取引など校内犯罪の増加に対し、1990年代以降ゼロ・トレランス方式とよばれる厳格な指導が広がったが、熱心な推進派と批判派の間の論争も起こっている。
    • フーディー(フード付きスウェット)
      若者の間で一般的な服装であるが、これが非常に流行している英国では万引きなど犯罪につながるという不安が広がり反対運動が起きている。
    • ハッピー・スラッピング
      悪戯と称して、行きずりの他人にいたずらや暴行をする映像を撮る行為。英国では社会的不安を起こしている。
    • クリスマスの世俗化(Secularization of Christmas
      メリー・クリスマス」の挨拶が無宗教的な「ハッピー・ホリデーズ」に変化しつつある風潮に対し、21世紀に入りアメリカの宗教保守派の間から反発の声が上がり、「ハッピー・ホリデーズ」を使用する企業や人物に対して「宗教的価値観を損なっている」という集中攻撃が行われた。
    • ソーシャル・ネットワーキング・サービス
      特に、英米で10代の若者の多くが、MySpaceFacebookに夢中になることへの不安、MySpaceを使った犯罪の恐怖が保護者などに広がり、法的規制が検討されている。
    • デジタルネイティブ
      デジタルネイティブの範囲については諸説あり、Prensky(2001)によると1980年から1994年に生まれた世代ということになるが、彼らのICT関連技術や関連サービスへの関心の高さとリテラシーの高さが、旧世代の間に一種の異人種観を引き起こしている、という見方もある。


    モラルパニックからのモラルパニック

    モラル・パニック批判は、パニックに乗じて犯罪者に対する厳罰化を進めようとする保守的な政策への批判として展開されていたはずが、「犯罪不安の沈静化」という誤った目標を目指すことで、犯罪の抑止および犯罪不安の沈静化を目的とする「割れ窓理論」のような保守派の議論を期せずして肯定することになってしまったと批判される。

    モラル・パニックとは、実際にはそれほど重要ではないとされる出来事に関して、マスメディアが大騒ぎし、そこに専門家や政治家が介入して社会問題になってしまうという現象を指す。しかし、このモラル・パニックという概念には数多くの批判が寄せられている。その批判は、内在的な批判(概念そのものが孕む危うさに関する批判)と外在的批判(時代の変化によって概念の有効性が失われてしまったとする批判)とに分けられるのだが、ここでは内在的批判を紹介することにしたい*1。

    まず一つは、モラル・パニック概念は非常にイデオロギー的なのではないか、という批判だ*2。つまり、モラル・パニックとして言及される現象は、特定の立場からの問題提起によるものがほとんどであり、それと対立する立場からの問題提起がモラル・パニックと呼ばれることはほとんどない、というのだ。

    分かりにくいので乱暴に言えば、右派の問題提起(犯罪の増加、失業保険の不正受給など)はしばしばモラル・パニックとして批判的に論じられるのに対して、左派の問題提起(差別問題や警察官の職権乱用など)がモラル・パニックとして名指しされることはほとんどない。モラル・パニックという概念を価値中立的に捉えるならば、人種差別や性差別にしても「実際にはたいしたことのない問題である」可能性も検討しなくてはならない。モラル・パニック研究においてそのような可能性がほとんど検討されないのは、この概念そのものが党派的な攻撃の道具でしかないことを意味している、との批判だ。

    そして、もう一つのより重要な批判が、モラル・パニック概念に内在する「不均衡性」という想定に関するものだ。モラル・パニック批判では、問題の実際の程度とそれに対する反応の大きさとが「不均衡」だという論理構成を取ることが多い。しかし、前回でも述べたように、ある問題に対してその対応策が「過剰である」または「適正である」という客観的な価値基準を設定し、それによって人びとを説得することは果たして可能だろうか?人によっては「まあ、それぐらいは仕方ないでしょ」と看過できるリスクであったとしても、別の人が「絶対に嫌だ」という拒絶反応を引き起こしうることは、福島原発事故への反応を見ていればよくわかるだろう。

    「『マギング』(暴力的な路上強盗のこと:引用者)がしばしば想定されるよりもずっと深刻度の低い犯罪であるという結論に対する反論は、そうした結論が何が「深刻」または「軽度」なのかという法的な定義と、より幅広い社会的・倫理的考察とを混同しているというものである。…若い男性にとってはささいなことと考えられうる傷害も、年配の女性にとっては痛ましいものとなりうるである。」

    もっとも、過去や他の社会との比較によって、その反応の大きさを相対的に評価することはできるかもしれない。たとえば、日本における凶悪な少年犯罪に関して、過去との比較では発生件数が減少しているにもかかわらず、マスメディアの集中的な報道が厳罰化の後押しをしたというモラル・パニック批判がある。

    しかし、この論理が成り立つためには、少年犯罪とそれによって生じる被害に関する社会的価値観が過去と現在とで同一であるべきだという前提が存在しなくてはならない。この前提に沿うならば、かつてであれば問題とされなかったような家庭内暴力や差別に多くの人びとが注目するようになることも、過剰反応として位置づけられることになりかねない。少年犯罪が減っていたとしても、社会の側がそれにより敏感になっているのだとすれば、そのこと自体を責めることはできない。

    また、「被害のより深刻な外国ではさほど問題視されていないのに、被害の軽微な我が国では大問題となっている」というような形で他国との比較に基づく「不均衡性」を主張しようとしても、それぞれの国において価値観が同一でなくてはならないとの前提に立たざるをえなくなってしまう。たとえば、別の国からすれば全く些細な問題でしかない行動が他国ではきわめて重大な犯罪と見なされることは往々にある。そのような価値観の違いを踏まえると、他国との比較でモラル・パニックか否かを決めることは無理筋だ。

    このような不均衡性の問題を突いた批判と類似した議論を展開したのが、以前のエントリでも紹介した左派リアリズムの犯罪学だ。そもそも「パニック」という言葉は、社会問題に直面している人びとの非合理性を暗示している。つまり、不安を実際に感じている人びとの訴えに真摯に耳を傾けるのではなく、それを単なる誤謬として切り捨ててしまっているというわけだ。

    左派リアリズムの立場からすれば、モラル・パニック概念は、人びとの犯罪不安やそれに起因する対応を非合理的で過剰なものと決めつけてしまう結果、犯罪自体を問題視するのではなく、犯罪不安の鎮静化という誤った課題を浮上させてしまうということになる。実際、犯罪に対して深刻な恐れを抱いている人びとに対し、彼らの犯罪不安が犯罪に遭遇するリスクに比べて過剰であると指摘することは何の慰めにもならないとの指摘もある*3。

    他方で、これと大きく異なる立場からのモラル・パニック概念に対する内在的批判も存在している。社会的構築主義の立場からの批判だ。よく知られているように、社会的構築主義の視座からの社会問題研究は、客観的に存在する所与の現象として社会問題を分析するのではなく、それが社会問題としてマスメディアや関係団体などによって「構築」されていく過程を分析対象とする。

    したがって、この立場からすれば「治安の悪化」も構築された社会問題にすぎないということになり、モラル・パニック論の視座とも合致する。ただし、社会的構築主義の論者のなかでも「厳格派」と呼ばれる立場からすれば、研究者は治安が実際に悪化しているか否かを語る資格を持たない*4。なぜなら、社会問題を構築する人びとに比べて、社会問題の研究者がより客観的で妥当な現実認識をなしうる根拠はどこにもないからである。こうした立場に立脚するならば、実際の問題の程度とそれに対する社会的反応の過剰さ(不均衡性)を問題視するモラル・パニック概念は根底から覆されることになってしまう。

    以上のように、モラル・パニック概念にはどうにも危うさが存在する。しかし、前のエントリでも述べたように、モラル・パニック概念には確かに面白さがある。それは世間的には「常識」とされてきたこと(たとえば治安の悪化)が実際には虚像に過ぎないという驚きを与えてくれるからだ。厳格派の社会的構築主義からすれば「真実暴露」として否定される行為であるが、そうした面白さはやはり捨てがたいと思う。

    それでは、上記の批判を踏まえたうえでモラル・パニック概念を維持するためには何が必要か。まず、この概念のイデオロギー性に関する批判については受け入れるほかない。つまり、犯罪不安の拡大や生活保護の不正受給をモラル・パニックと結びつけて論じるのであれば、たとえばブラック企業の蔓延、貧困の増大、特定集団に関する差別の広がりもまたモラル・パニックである可能性を認めなくてはならない(あくまで可能性として認めるだけの話であって、検証するまではモラル・パニックだと認める必要はない)。

    そして、もう一つ必要になるのが、不均衡性という想定を放棄することだ。それでは、不均衡性の想定を放棄したときに、いかなる根拠をもってある現象をモラル・パニックと名付けることができるのか。その根拠は、社会的・道徳的な秩序への脅威と見なされる集団やそのふるまいに関する描写や情報に明確な誤りが含まれており、問題の提起にとってその誤謬が重要な意味を有しているという点に求められるだろう。凶悪な少年犯罪が実際には減少しているにもかかわらず、それが「急増」していると報じられ、その報道を根拠として対処が行われるばあいには、モラル・パニックが発生していると判断することができる。

    そしてそれは、先に触れた厳格派の社会的構築主義とは一線を画するということを意味する。つまり、ある事象をモラル・パニックとして分析するにあたり、それに参加している人びとよりも研究者は妥当性の高い現実認識を行えるという立場をとるということである。逆に言えば、そのような立場をとらない限り、モラル・パニック概念は維持できない。

    というわけで、モラル・パニック概念を維持するうえで何が必要なのかを考えてきた。しかし、前回のエントリで述べたように、モラル・パニック概念を駆使したところで、人びとの不安を軽減することには寄与できるとは限らない。研究者が分析のさいに用いる概念としては有用だとしても、何らかの実践的な効果を常に期待できるわけではない。

    無論、そういった啓蒙的な努力が必要であることは論を待たない。だが、近年のパニック研究によれば、何かをきっかけとしてパニックが発生する場合には、より幅広い社会不安が存在しているのだという(逆に言えば、そういう不安が希薄な場合には、マスメディアが多少煽ったところでパニックは発生しない。余裕があるほど、人びとはマスメディアの言うことを鵜呑みにはしなくなる)。

    したがって、モラル・パニックをより深く理解するためには、個別具体的なケースのみならず、より幅広い社会状況にも目を向ける必要があると言えるだろう。

    というところで、なんか論文調になってしまったが、モラル・パニック概念についてはここまで。最後は「社会不安と向き合う」みたいなえらく漠然とした話になってしまった。

    どうやって?という話にもなるだろうが、方向性の一つはやはり不安の対象そのものを正面から捉えることではないだろうか。犯罪については、犯罪不安のみならず、犯罪についてもきちんと考える必要があるということだし、若者バッシングのみならず若者についても目を向ける必要がある。放射線被害に関しても、「放射脳」と呼ばれる人たちを嘲笑するだけの人たちよりも、現場で地道に放射線を測定している人たちのほうがずっと不安の解消に貢献しているのではないだろうか。

    最後に。犯罪不安については男性よりも女性のほうが強く感じるという調査結果は多い。それは、日常的に女性が犯罪(性犯罪など)に遭遇する機会を男性よりも多く有していることに起因するように思われる。しかも、そうした犯罪は非常に暗数が多く、犯罪統計にはそのまま反映されない。この点を踏まえるなら、犯罪不安をモラル・パニックとして切り捨てること自体にジェンダー・バイアスがかかっている可能性も否定できないのではないだろうか。

    要するに、モラル・パニック批判の問題は、どうにも「上から目線」になってしまいがちだということなんだと思う。実際、「統計的データからすれば裏付けのないことでガタガタ騒ぎやがって、このバカどもが!」という印象を受けることが多々ある。本論の趣旨からすれば「騒ぐ」こと自体は個々の価値観の問題なのでそこを批判しても仕方がなく、騒ぎの根拠とされている情報に過ちがあればそれを淡々と指摘していくしかないということになると思う。


    *1 外在的批判については、McRobbie and Thornton(1995)、Unger (2001)を参照のこと。
    *2 以下のモラル・パニック概念に関する内在的批判をもっとも明確に展開したのが、Waddington(1986)である。
    *3 Lee(2007)。
    *4 こうした問題がより顕在化しやすいのは自然科学的な問題に関するモラル・パニックである。たとえば放射線被害に関して、放射線医学のトレーニングを受けたわけでもない社会学者やメディア研究者が何の資格があってそれをモラル・パニックであると断ずることができるのかという話になる。



    KANSOU
    まず前置きとしてここでは、とくに多くの事を語ることはしません。
    それぞれ各自にて引用したものを参考に感じ取ればいいと思います。
    また逆に何も感じないというのもいいと思います。
    いつもと気分を変えて少しだけ真面目モード機動した。

    閲覧注意系


    こういうのみるとカッコーの巣の上でから始まって、TM2、ビューティフルマインド、シャッターアイランド、果てはバイオハザード、シックスセンスにヴィレッジまで、ここら辺の映画ものは枚挙に遑がないくらい事例が浮かんできます。スピリチュアル系ホラーというか、集団圧力型スリラーというか、映画の世界の話しじゃなくて実際に現実世界で現在進行形で起きてるっていうのが、肝要ですよね。

    ↓なにこれ、こわい [お布団]д; ))) コワイ…

    宇都宮病院事件

    ロボトミー殺人事件

    あと、念のために言っておくけど、”ロボトミー”で画像検索は禁止だからな。絶対ダメだからな。

    人間各個人の精神の闇の部分でもあり、さらに社会という集団生活の中で助長された一つ一つの分子成分が合体して肥大化するリヴァイアサンのようなキマイラで異様なモンスターというか。合成の誤謬。人間の合理を追求したドイツでは過去に変テコな収容システムをつくったことがあるようです。現在では負の世界遺産という型でトマソン化されているようです。

    重大なシステムトラブルを回避するために、いかに自らで制御し、またいかに勝手にコントロールされないようにするか、日常から前頭前野を鋭敏に働かせて対応できるように訓練しておこうと思います。むろん、自分自身にもそうした過ちを犯す危険性を内在させ、現に内側にいることに気づいてないということも多分にありますので、自省的に立ち止まって時に点検を怠らないようにデフラグ・メンテナンスです。フォギーでミスティーな状態だと物事って見えないからね。

    以前に”夜と霧”と言われている本を読んだのですが、そこにでてくる人はとても深い精神世界を持っておりました。そしてそこは異様な時代の暗闇のときのお話ですが、その人の心の中では希望を決して忘れませんでした。ですので、精神世界を持つというのは人間にとっては尊いことであり、それ自体はむしろあったほうがいいのでしょう、ただし、操縦の仕方を誤ると大事故爆発炎上木端微塵に繋がる可能性があるということなのでしょう。そのお話は集団システムに絶望的に巻き込まれてもなおサヴァイブしなければならないという壮絶な運命と闘うお話でしたが、どうやら60年前くらいに実在したお話のようです。なかなかいい本でした。








    この映画を観る前は、宇宙系ミュータントみたいのと戦う映画かとバイアスしていたが、実際には、正体不明の外の敵と戦いを考える中で、恐怖という敵は内側にいるということに、徐々に切り替わっていくというのが決定的な面白さで、結構考えさせられる映画。つまりいい映画。あとはラストの深い谷底に落ちていくような選択、当然後味は最高にワルいデス。サイレントヒル的な恐さというより、ミザリー的な怖さ。勧善懲悪、正義は勝つみたいな道徳的価値観は崩壊して、これが現実なんだよボクちゃんってのを否応無しに目前に突付けられるみたいな、そこかしこに気付きのメタファーが落ちていてドライでアダルトなテーマではあった。その点でいえば家族やカップルでワーキャー言いながら鑑賞するものではないかな。むしろ一緒には観ない方がいいかなあ。たまに鑑賞した人で、なんだ宇宙人あんまり出てこなかったねと趣旨を誤読している人をチラホラみかけるが、ゴッドファーザーをヤクザ活劇のアクション物と勘違いしているくらいの表面的なミスリーディングがあるような気がしてならないのだった。



    誰得フェスタ2013




    科学者は、ある実験をするために5匹のサルをケージに入れ、ケージの真ん中の上方に一房のバナナをぶら下げた。ケージには、サルがバナナを取るたびに水が吹き出し、サルたちがびしょ濡れになる自動装置を取り付けた。

     1匹のサルが早速バナナを取ると、水が吹き出て、全員びしょ濡れになった。他のサルも同じ事を繰り返したが、結果は同じく全員びしょ濡れになった。これで、この5匹のサルはバナナを取ると水が出るという共通の認識を持った。

     のち、科学者は5匹のサルのうち、1匹を新しいサル(サルA)と入れ替えた。サルAはバナナがあることを知り、すぐに取ろうとしたが、他の4匹のサルに阻止された。何故なら、バナナを取ると、ケージに向かって水が吹き出し、全員がびしょ濡れになることが分かっているからだ。しかし、サルAはそれを知らずに、何度もトライしたため、ほかのサルにめちゃくちゃに殴られた。結局、サルAはバナナを取ることができなかったが、5匹のサルはびしょ濡れになるのを免れた。

     科学者はさらに、最初からいたもう1匹のサルを新しいサル(サルB)に入れ替えた。サルBもバナナを見て、すぐさま取ろうとしたが、ほかの4匹のサルに殴られ阻止された。そのときに、サルBに対して、もっとも力を入れて殴ったのがサルAだった(所謂、老兵が新兵をいじめるように)。サルBは何度かトライしたが、何度も殴られたため、最終的にバナナを取ることを止めた。

     その後順に、最初からいたサルは1匹づつ入れ替えられ、すべてのサルが新しいサルになった。しかし、どのサルも本当の理由こそ分からないが、バナナを取ろうとすると殴られるから、誰もバナナを取ろうとしなくなった。








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