ゼロサムゲームを求めたがる弱い側の多い人々は多様性を認めなたがらない。
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ゼロサムゲームを求めたがる弱い側の多い人々は多様性を認めなたがらない。

2014-03-19 03:07



    「競争」より「共生」で生き延びる時代?


    映画か何かの設定をイメージしてほしい。

    2つの無人島それぞれに10人ずつ若者が連れてこられたとする。

    A島とB島とする。

    そこである種のゲームが始まるとする。

    「自分たちの力で何とか生き延びろ」とミッションが下される。

    A島では、リーダーが「みんなで生き残ろう」と呼びかけて、それぞれの得意分野を生かして、食料を調達し、雨風を遮るシェルターを探し、生き延びようとした。全員の力を合わせてのサバイバルが始まった。

    B島では、一人のメンバーが「自分だけでも生き残ってやる」と考え、ほかのメンバーの食料を力尽くで奪い、ほかのメンバーにばかり働かせて自分の体力を温存しようとした。10名は互いに疑心暗鬼になり、B島では生き残りをかけたバトルロワイヤルが始まった。

    さて、あなたは自分の子どもを、A島かB島に11人目のメンバーとして参加させなければいけなくなった。

    A島とB島どちらを選ぶか?

    答えは明白だと思う。

    日本はA島になろうとしているのか、B島になろうとしているのか。

    さらにC島やD島が存在することが判明したら、どうするか。

    その対応で、自分がA島に住んでいるのか、B島に住んでいるのかがわかる。

    つまり、グローバル化を目の前にしたとき、それを危機と感じるかチャンスと感じるか。

    「これからはグローバル化の波が押し寄せるからやばいよ。あっちの国にもこっちの国にも負けていられない」と危機感をあおる人はB島の住人。競争原理で発想するときっと生き残れない。

    「グローバル化が進めばあっちの国の人ともこっちの国の人とも協力できる。生き残るチャンスが広がる」と考えられる人はA島の住民。共同体原理で発想するときっと生き残る確率は高まる。

    一部の人たちは、競争主義や自由市場主義を採用すれば競争原理が働いて、いろいろなものの質が向上するという妄想をもっているようだ。

    競争原理や自由市場主義、個人主義を部分的に導入するのはいい。

    それによって部分的なオーバーアチーブは生じやすくなる。

    しかしそれを社会全体に例外なく当てはめると、B島のような悲惨な社会になってしまう。はどめのない競争主義は社会全体を弱体化させる。

    A島においても「今日はオレとオマエどっちが魚をたくさん捕まえられるか競争だ!」とやりつつ、取れたものをみんなで山分け(再分配)しているうちはいいが、「オレが取ったものは全部オレのもの」みたいな感覚の住人(成果主義者)が出てくるとB島化してしまう。

    いくらでも資源があるのであれば、B島でも生きていけるかもしれない。

    だから、社会が右肩上がりの成長を続けているときには競争原理や自由市場主義、個人主義が幅をきかすのもわかる。

    しかし限られた資源の中で生き延びなければならないのであれば、B島の住人は結局最後の一人も含め全滅するだろう。

    ましてやB島で子どもを産んで育てようなんて誰も思わない。

    今、日本では、以前に比べ株価が高値にある。

    TPPによってグローバル化も加速するだろう。

    その流れ自体を悪いというつもりはない。

    しかしバブルの再来や急速なグローバル化で、競争主義や自由市場主義、個人主義が無制限にあおられれば、日本社会の弱体化はさらに加速するだろう。

    「ゼロか百か」ではない。

    どこまでなら競争原理や自由市場主義、個人主義を認めてもいいのか、柔軟にガイドラインを調整し続けるセンスが問われている。


    こういうバトルロワイアル的考えのお話とか、映画ってよくあって、ミストとかザ・ビーチとかもそんな感じで、ようは人間社会で繰り返されてるスゲーありふれたお話っていう啓示でもあるのかなと、まあ現実社会でも、当然ねえっていう。


    競争原理主義ってのは一見解り易くてかっこよく見えたりするけど、それは途中までで。
    だって当然トップってのはほとんどの人がなれないから。自分で自分に鞭打って頑張っている人もいるけど、自分で首絞めて苦しくなっている人もいるし。で、リアルで自ら〆ちゃう人もいるし。


    トップの塾入って、その中でトップになって、トップの学校入って、その中でまたトップになって、トップの組織入って、またその中でトップになって、、、少しでも休憩してたら周りに追い抜かれて挫折の烙印押されるからって、上には上がいる無限ループから抜け出せなくて、トップになれないヤツは敗者で、言い訳ばかりしやがって、惨めな奴らだな。って嘯いてる。

    競争はあって当然なんだけど、その受け皿も必要で、そもそもそれが甘えだとかいい訳だとかいうのは、どうなの?

    誰もがずっと強く生きて行けるわけもなくて、何かに巻き込まれて一夜にして10億円の資産も散財してしまうかもしれない。それどころか人の借金を肩代わりさせられてしまうかもしれない。痴漢冤罪に巻き込まれ社会から罪もなき人の悪意のレッテルを貼られるかもしれない。自分の子供が殺人犯になるかもしれない。急に交通事故で下半身不随になるかもしれない。なにかの病気で目が見えなくなるかもしれない。人に優しくなれない人は自分を傷つける。

    明日は我が身ってコトバは訓示的すぎてあれなんだけど、例えば、他人ってのは自分だったりするわけで、家族を持てば妻(女)とか旦那(男)とか子供とかは自分の拡張だったり、ってことに気付いて、逆に自分の両親兄弟関係の再構築になったりして。

    イマは若いと思ってても、目の前の老人は将来の自分つまり延長にあったりするわけで、って考える。共感性の共有ってのはこういうことだと思う。クリスマスキャロルのスクルージおじさんが改心した理由をもう一度読み直した方がいい。


    本当に強い人というのは孤独で優しいジャイアンであるべきだと思いたい。



    【そういう世界観の映画↓】

    前半かなり冗長的な映画な気もして見ていたけど、たった2時間もない映画に落ち着いてゆっくり感じることもできない自分の現代人のココロの余裕の狭さみたいなのを少し痛感した。
    何も見えない絶望という恐怖の中で、なにを拠り所とし、静かに優しく、そしてゆっくりと感傷に浸る映画かなと思う。原作は有名なのでwikiる一瞬でネタバレするので見ない方がいい。あと二コ動で密かに全部鑑賞できたりする。最初タイトルの意味がわからなかったが、最後でなるほどで笑った。


    ザ・ロード』(: The Road)は、アメリカ合衆国の作家コーマック・マッカーシー2006年に発表した、ピューリッツァー賞を受賞した終末もの小説である。2009年には映画版が公開された。↓








    「あなたは火を持って行けなければならない。」

    これって、キリスト的な倫理観でもある一方で、道徳とか宗教倫理系全般、とくに人類社会全体で共有される暗黙のルールというか、人間が人間を信じるココロみたいなボーダーというか、

    以前も、どっかで触れた気もするが、ミニョネット号事件とかひかりごけとか極限状態になったら、ってのはここでは少し別の問題として置いておいて、

    火を持って行く、何度もこのブログで登場しているが、東洋思想や釈迦も自分の心に火を灯して考えなさい(自灯明)という教えを死ぬ直前に(つまり私がいなくても誰に頼るでもなく)説いた。なんだか、もしかしてみたいなのがスゴくあった。



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