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【駄文】Konoseの物語論そのいち【文章の話】
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【駄文】Konoseの物語論そのいち【文章の話】

2015-11-17 20:35
    ※あくまでもKonose個人の考えであり、特定の作品を貶める意図はありません。ご理解下さい。

     小雨の降る中、原付で帰宅している最中に浮かんできた今回のテーマ。「物語論」というと堅苦しいかもしれませんが、実は今回は「どうやって物語で人を感動させるか」というお話です。

     まず、あなたの好きな「感動的な作品」を挙げてみてください。いくつでも構いませんし、多いほうがこれからの話に該当するものが多くなると思うのでこちらとしては好都合です。
     ではここで質問です。今あなたの想像した作品の中に、「大切な人が死ぬ話」はいくつあったでしょうか?そう、これが今回のブロマガの真のテーマです。
     物語を書く際に最も簡単に感動させる方法は、ずばり「大切な人を殺すこと」です。主人公やヒロイン、もしくはその話における中心人物にとって大切な人が死ねば、主観的に読んでいる(見ている、聴いている)受け手は大体が感動します。ちなみに「大切な人を殺すこと」としましたが、別に殺人に限定しているわけではありません。「殺す」のは、作中の誰かではなく、作品を書いている「作者」です。誤解のないように。
     何故「大切な人の死」が受け手の感動を生むのか。それは簡単に言えば登場人物への「共感」があるからです。作品の登場人物には大体が受け手の共感を呼ぶ特徴を持っています。例えば「普通の学生」だったり、「平凡な日常を過ごしている」とか、「友達と何気ない会話をしている」とか。あとはある状況下における反応が一般的なものであればそれもまた共感を呼ぶ特徴となり得ます。逆にいえば、これらのようなものがなければ受け手は共感できず、主観的に、より具体的に言うなら投影して作品に入り込むことができないのです。だからこそ、いわゆる起承転結の「起」と「承」あたりでは登場人物の人間性や人間関係を細かく描かれるのです。
     さて、「死」というワードを何度も使っていますが、実はこれ、一種の比喩に近いものなんです。例えば「別れ」も「死」に近い感動を呼びます。関係性の死という考えもできますが、「今後会えない」は限りなく「死」に近いものだと考えられます。それはもう切なくなるでしょう、悲しくなるでしょう。

     ここで一つ例を挙げましょう。僕は幼少期に映画館で見た「劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」が大好きです。初めて映画館で見たことに加え、テーマがレーゾンデートル(存在価値)という、難しいながらも考えさせられる作品で、今でも時折思い出して見返したくたります。
     この「ミュウツーの逆襲」に、ある有名なシーンがあります。
    注意!以下ネタバレ 反転で表示
     ミュウとミュウツーの戦いを身を挺して止めようとしたサトシは、二匹のポケモンの攻撃を受けて石化してしまいます。ピカチュウが呼びかけても、頬に触れても、電気を与えても、石となったサトシはそのまま動きません。もう動かない親友の姿を見て涙を流すピカチュウ。その一人と一匹の友情と、そのどうしようもない状況に涙を浮かべる他のポケモン達。ミュウとミュウツー以外のポケモンの涙は奇跡を呼び、サトシは元の姿に戻ることができたのです。
     このシーン、「死」という直接的な描写はありません(おそらく子供向け作品におけるタブーのため)が、限りなく死に近い状況に追い込まれます。そして奇跡的な復活を遂げる、という展開です。典型的な「人を感動させる」作品と言えるでしょう。

     逆に誰も死なない、別れないという状態で感動させるのは難しいでしょう。例えば悲願の達成。家族や恋人からの愛情。これらはほぼ実現不可能な状況を脱し、ハッピーエンドに行き着く際によく見られるものですが、それらはどのようにすれば脱出可能かを、理不尽(例えば何の前触れもなく助けられたり、突如自身に宿った特殊能力を使ったりするなど)のない形で構築する必要があるのです。

     以上が、Konoseの物語論そのいちどうやって物語で人を感動させるか」でした。実は、今回このテーマで書こうと思った切欠が、「闘病ドキュメンタリーを題材としたドラマ」にあります。某チャリティ番組で毎年作られているあれです。個人的な意見ですが、僕はあれが大嫌いなんです。理由は明白。「人の死を一つの感動作品として消費しているから」です。
     普通のドラマや映画であれば、どれだけ人が苦しみ、闘い、そして命を全うしても文句はありません。作った側も見る側もそれをフィクションだと思っているのですから。主観性を持つかどうかは受け手に委ねられるのです。しかし実話に基づくドラマはどうでしょう。それはドラマという「演出、脚本のある作品」でありながらも、「自分たちの世界で実際に起こった出来事」という形を持って受け手の前に現れるのです。これは卑怯です。この世界にいる私たちはそれを客観視することが難しくなるのですから。2次元的な作品が、急激に3次元的な要素を身に付けた瞬間に、感動の強制が行われるようになるのです。


    次回は、Konoseの物語論そのに「2.5次元という概念」をお送りしようと思います。


    Konose
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