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※この作品には地震の描写が含まれています。
やがて、私達が自力で脱出したころには、空は既に明るくなっていました。
筆者は京都府南部で阪神・淡路大震災を迎えました。当時、6歳でした。
京都府南部でも全壊家屋が存在しており、ぎりぎり被災地域ではあるのですが、幸いにも筆者は何の被害を受けませんでした。唯一被った不便といえば、電話が不通となったことです。受話器を上げると、「ツーーー」という発信音ではなく、「ツー・ツー・ツー」というビジー音が聞こえました。
実は、阪神・淡路大震災の前日まで六甲山人工スキー場(現・六甲山スノーパーク)にいました。父親が急に体調不調を訴えなければ、もう一泊していたかもしれません。そうしていれば、まともに震災に巻き込まれ、少なくとも数日間は帰宅できなかったかもしれません。帰途に立ち寄ったハンバーグレストランと思われる店が、次の日、変わり果てた姿でテレビに映っているのを見た時のことは今でも忘れません。
ちなみに、特急列車の夢のくだりは、自分自身の体験に基づいています。夢の中で揺れていたのに、目を覚ますと、もっと揺れていたという体験は鮮烈な記憶です。直接的な被害がなかった筆者でさえこうだったのですから、実際に被災された方々の心労は想像を遙かに超えるものだったに違いありません。
あれから20年。
記憶は徐々に彩度を失っていきます。
こうしす!に登場するキャラクターのなかでも、垂水結菜は既に震災を知らない世代となっています。
記憶は薄れていく物。
せめて記憶が薄れる前に何かの形にしておきたい、という想いを込めてこの短編小説を執筆しました。
これは、所詮、外野が描いたフィクションです。
上っ面だけのしょぼい描写かも知れません。また、気分を害されたかもしれません。
予め陳謝いたします。
このような背景をもつ祝園アカネというキャラクターが、今後、こうしす!本編において、どのような活躍をし、どのような成長を遂げるのか、描いていきたいと考えています。どうぞ、ご期待下さい。
2015年1月17日 Butameron
画像 / るみあ、絢嶺るり、Butameron (CC-BY 4.0)
車窓は白い光に満たされていました。
ここは、どこ?
気付いたとき、私は特急列車に揺られていました。この列車がどこを走り、どこに向かっているのか、それすらも判然としません。全開のディーゼルエンジンが力強い唸りを上げています。ガタンゴトンという音が不規則に聞こえていました。
車内はスーパーマーケットです。ここは衣料品の売り場でしょうか。セール品の巨大なトレーナーがハンガーに吊られて揺れていました。
「まま どこ?」
おや。
思ったように言葉が出ません。
私は自分の手を見て、我が目を疑いました。私は縮んでいたのです。口調からすると、二歳児ぐらいでしょうか。どうりで周囲の物が大きく見えるわけです。
「ぱぱ どこ?」
私はどうやら迷子のようでした。よちよち歩きで、売り場を歩き回ります。しかし、両親の姿は見当たらず――。
その時、でした。私は足を止めます。
確かに今のは悲鳴でした。女性の悲鳴です。それも緊迫した。
私は思わず振り向きました。
と同時に、特急列車が消滅し、闇の中に放り込まれました。私は混乱しました。私を包んでいるのは柔らかい温もり――私は布団の中で母に抱きしめられていました。あれは夢だったようです。まあ、そうですよね。特急列車の中に衣料品売り場があるはずがありませんよね。
しかし、です。あろうことか、揺れは継続していました。それも特急列車の比ではありません。まるで巨人のバーテンダーにシェイクされているかのようです。私はシェイカーの中で翻弄されるしかありませんでした。
悲鳴の主は母でした。ここまで恐怖に満ちた声を私は聞いたことがありません。ホラー映画の悲鳴なんて大したことはないんですね。しかし、その声さえも大地の怒号にかき消されます。土埃が舞い、ガラスや陶器が割れる音が絶え間なく続きます。私は恐怖のあまり動くことさえできませんでした。
目が慣れてきて、僅かながら様子が見えてきます。寝室には私達を挟むようにしてタンスが2つそびえ立っていました。しかもしっかりとした造りの重厚なタンスです。それが跳ね踊っているのです。まるでブレイクダンス。タンスだけに。
家が軋みます。遠くでドスンと大きな音がしました。家具がなぎ倒されたのでしょうか。
「アカネ!大丈夫か!」
父の声です。
立ち上がることすらままならない揺れのなか、這うようにしてやってきたのです。父は私と母に覆い被さります。
……重い。
……たばこ臭い。
安心したのもつかの間。
家はいよいよ軋みを増していき、ついに、その構造を保てなくなったのです。
耳をつんざくような轟音とともに、倒壊。
やがて静寂が訪れました。
吹きすさぶ風。それ以外に何も聞こえません。
「アカネ!緋紗絵!大丈夫か!」
父の声でした。土埃に咳き込みながら、そう言いました。
ブレイクダンスを踊りきったタンス達は、人の字のようにもたれ合って動きを止めていました。直撃は避けられたのです。それだけではありません。タンスは家の瓦礫を避ける屋根となり、私達は家の下敷きにならずに済んだのです。まあ、厳密に言えば、父は落ちてきたタンスの引き出しで負傷していたのですが。
「私は……大丈夫です。アカネ、怪我はないですか?どこか痛くありませんか?」
「たばこ くさい」
私は感想を述べたに過ぎません。
「だそうです」
母は笑いを堪えながら、父にそう言いました。
「あ……あはははは」
笑いあう父と母。
しかし、突然父は泣き出します。
「よかった……よかった……」
私達を強く抱きしめました。
冬の冷たい風に晒されているというのに、私はとてもあたたく感じました。
その時、父が口走ります。
「タンスがダンスしてたねえ、タンスだけに?」
……前言撤回。
北風が通り過ぎていきます。 全然あたたかくなんてありません。
やがて、私達が自力で脱出したころには、空は既に明るくなっていました。
私が見たのは瓦礫の山と化した街の風景でした。
*
「……!」
私は顔を起こしました。
キーボードに突っ伏していたためか、額が痛いです。画面上には謎の文字列が所狭しと並んでいました。どうやら、私は夢を見ていたようです。あーあ、卒論の原稿が滅茶苦茶です。まあ、gitでバージョン管理しているので良いんですけどね……。
「はあ……」
ここは鹿鳴館大学草津びわこキャンパスの某棟、アルバイトスタッフ待機室。瓦礫のごとく積み上げられた故障器機、床に転がる予備機のベータデッキ、そんなカオスの中に切り拓かれた作業スペースに私はいました。この部屋の雰囲気が、あの日を想起させたのかもしれません。
今日の日付は、2015年1月17日。
阪神・淡路大震災からちょうど20年。
当時2歳だった私には、明瞭な記憶は残っていません。今の夢も、どこからどこまでが本当の出来事なのかは分かりません。正直、父親がたばこを吸っている記憶がありませんからね。けれども、あの瓦礫の山は今でも思い出します。3歳以前の記憶は残らないものだと言われていますが、これだけは本当の記憶なのでしょう。 避難所生活や、その後の仮設住宅での生活も断片的に覚えています。
私が住む淡路島では、57名が亡くなり、3433棟(筆者注1)の住宅が全壊しました。あの日、私達は幸運だったのです。住居は失いましたが、家族の命は助かりました。
私は鞄のなかにいつでも非常食と水を持ち歩いています。地震は怖いですし、お腹を空かせたまま死にたくもありません。きっと私の震災はまだ終わっていないのでしょう。きっと、これからも付き合っていかねばならないのです。
エピローグ
列車は、明石海峡大橋を渡り、洲本駅に到着します。
『本日は京姫鉄道をご利用くださいまして、ありがとうございました。次は洲本、洲本です。洲本駅から先は、淡路急行本線に参ります。淡路急行北淡線をご利用のお客様はお乗り換えです。洲本駅では乗務員交代のため、5分ほど停車いたします。ここまでご案内いたしました車掌は、京姫鉄道システム課の垂水です。今後とも京姫鉄道、キハ20系をご利用下さい。まもなく、洲本、洲本です。お出口は左側です。列車到着の際、お足元にご注意ください』
妙にテンションの高い車掌とはここでお別れです。
いつもなら、ここから北淡線に乗り換えるのですが、今日はここで下車します。
駅前ロータリーには、シルバーのミニバンが止まっていました。クラクションで呼ばれます。
「アカネ~!」
助手席の窓から手を振るのは母です。
この年になってこれはちょっと恥ずかしいですが……。
運転席に座るのは父です。 ルームミラー越しに目が合います。
「珍しいなあ。何かあったか?」
声も、だいぶ老けましたね。
メールで両親を召還したのは、他でもないこの私。あの夢を見てから、急に恋しくなってしまったのです。
「いいえ。でも――」
「ん?」
「『たばこ くさい』」
「ん?」
「『たばこ くさい』」
「ええ!? もう20年も前にやめたのに」
父は大げさに仰天してみせます。
母は悪戯じみた口調で応じます。
「隠れて吸ってるんじゃないんですか?」
「いやあ、さすがに、アカネにああ言われてはね」
「そうでしたね。もう20年も前のことなんですね。ついこの間みたいなのに」
この幸せがいつまで続くか分かりません。
私が卒論の作業を切り上げて、急いで帰ってきたのはこの言葉を伝えるためでした。
「お父さん、お母さん」
万感の思いを込めて、二人の後ろ姿に言います。
「ありがとう」
ちょっと気恥ずかしいですけどね。
脚注
(筆者注1) 現実の阪神・淡路大震災においては、3432棟です。[1]
参考文献
[1]兵庫県洲本土木事務所 「阪神・淡路大震災 淡路島の記録 兵庫県南部地震 平成7年1月17日午前5時46分」 pp.137 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/11-104/html/pdf/137.pdf
あとがき ~筆者と阪神・淡路大震災~
筆者は京都府南部で阪神・淡路大震災を迎えました。当時、6歳でした。
京都府南部でも全壊家屋が存在しており、ぎりぎり被災地域ではあるのですが、幸いにも筆者は何の被害を受けませんでした。唯一被った不便といえば、電話が不通となったことです。受話器を上げると、「ツーーー」という発信音ではなく、「ツー・ツー・ツー」というビジー音が聞こえました。
実は、阪神・淡路大震災の前日まで六甲山人工スキー場(現・六甲山スノーパーク)にいました。父親が急に体調不調を訴えなければ、もう一泊していたかもしれません。そうしていれば、まともに震災に巻き込まれ、少なくとも数日間は帰宅できなかったかもしれません。帰途に立ち寄ったハンバーグレストランと思われる店が、次の日、変わり果てた姿でテレビに映っているのを見た時のことは今でも忘れません。
ちなみに、特急列車の夢のくだりは、自分自身の体験に基づいています。夢の中で揺れていたのに、目を覚ますと、もっと揺れていたという体験は鮮烈な記憶です。直接的な被害がなかった筆者でさえこうだったのですから、実際に被災された方々の心労は想像を遙かに超えるものだったに違いありません。
あれから20年。
記憶は徐々に彩度を失っていきます。
こうしす!に登場するキャラクターのなかでも、垂水結菜は既に震災を知らない世代となっています。
記憶は薄れていく物。
せめて記憶が薄れる前に何かの形にしておきたい、という想いを込めてこの短編小説を執筆しました。
これは、所詮、外野が描いたフィクションです。
上っ面だけのしょぼい描写かも知れません。また、気分を害されたかもしれません。
予め陳謝いたします。
このような背景をもつ祝園アカネというキャラクターが、今後、こうしす!本編において、どのような活躍をし、どのような成長を遂げるのか、描いていきたいと考えています。どうぞ、ご期待下さい。
2015年1月17日 Butameron
画像 / るみあ、絢嶺るり、Butameron (CC-BY 4.0)