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著:古樹佳夜
絵:花篠
吽野:浅沼晋太郎
阿文:土田玲央
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◆第五話 第一章「泥棒!」
◆◆◆◆◆不思議堂◆◆◆◆◆
阿文 「先生、大変だ!」
阿文が血相を変えて飛んでくるものだから、
吽野は書き途中の草稿をくしゃくしゃと丸めて部屋の隅に放ってしまった。
もっとも、原稿用紙の上に、落書いていたことを悟らせないためだ。
吽野 「どうした? 3日前買い付けてきた呪いのマネキンが喋りでもした?」
阿文 「あいつ喋るのか!?」
吽野 「って噂だよ」
阿文 「昼間ぶつぶつ聞こえるのはあいつだったのか……って!そうじゃない、それよりも大変なことが起きたんだ」
吽野 「一体何が起きたの?」
阿文 「不思議堂に泥棒が入った!」
吽野 「なにぃ!」
その一言で、吽野は文机をひっくり返す勢いで立ち上がると、
青筋を立てながら廊下を抜け、店内の様子を確認しに行った。
吽野 「店中がぐちゃぐちゃじゃないか!」
阿文 「すまない……。朝来てみたらこの様子で」
吽野 「しっかり施錠はしていたのに?」
阿文 「この通り、玄関のガラス部分を割って侵入したようだ」
吽野は玄関を一瞥して、ひどい有様であるのを確認した。
吽野 「はぁ……なんてこった……」
引き出しが抜き取られたアンティークの箪笥。
荒らされて床に散乱する商品たち。
呪いのマネキンは床に横倒しになっていて、
恨めしそうに吽野を睨んでいる。
それでも、吽野はお構いなしにマネキンを跨いで、
高価な品を納めていたアンティークの
ショーケースに歩み寄った。
吽野 「ああ〜〜こっちの棚に入っていた金色の茶碗が一式ないよ……!それから、啜り泣くビスクドールと、持ち主を呪う幽霊画の掛け軸も!ミイラの粉末や、悪魔の映る鏡も! あれも! これも……!」
阿文 「金目のものから気味の悪いものまで満遍なく盗んでいったんだな……」
吽野 「どうしてこんなひどいことを! ひと財産だぞ」
阿文 「夜の間に忍び込んだのだろうか……なぜ気づかなかったんだ。本当にすまない」
阿文は申し訳なさそうに頭を垂れた。
吽野 「悔しいが、君のせいじゃない……」
吽野 「そうだ……! 毛玉はどこだ?」
阿文 「毛玉って、ノワールのことか? そういえば、さっきから姿が見えないな」
吽野 「あいつ、昨晩はここで寝てたでしょ。何か見てないかな?」
阿文 「ああ、なんてことだ……!」
吽野の言葉に阿文の顔が青ざめ、
猫の名前を呼びながら店内をうろうろし始めた。
阿文 「ノワール! ノワールーー!」
吽野 「ちょ、阿文クン落ち着きなさいよ」
阿文 「落ち着いていられるか!まさか可愛いばかりに泥棒に誘拐されてしまったんじゃ!?」
悲鳴にも似た阿文の絶叫が店内にこだました時だった。
ノワール 「にゃーん」
阿文 「ノワール!?」
吽野 「あ、この甕の中でうずくまってるよ。ほら」
吽野の指さした大甕の中から、確かに猫の声が響いていた。
阿文は床に横倒しになったマネキンをジャンプして飛び越えると、
甕の中に首を突っ込んで中を覗き込んだ。
阿文 「ノワール!! 無事だったか〜〜〜ああ〜〜〜よかった〜〜〜!」
ノワール 「にゃああん」
阿文 「あああ〜ノワール! ノワール! もう二度と離さない!」
ノワール 「にゃーん」
吽野 「毛玉のこととなると本当におおげさだな」
阿文はノワールを抱えながらクルクルと回っていた。
ノワールも嬉しそうに阿文の頬に顔を擦り付けて喉を鳴らし、
甘い鳴き声を出している。
吽野 「おい、毛玉。泥棒の顔を見てないか?」
ノワール 「にゃーん」
吽野 「なんだその返事は。見てんのか、見てないのか。ニャンじゃなく、はっきり喋れ〜」
阿文 「無茶言うな」
吽野 「くそっ……役立たずめ」
ノワール 「シャー!」
吽野が近寄ろうとするとノワールは威嚇した。
吽野 「こうなったら、俺たちの手で盗まれた品々を取り返すよっ」
吽野が鼻息を荒くし、
今にも壊れた玄関から飛び出そうとするので、
阿文が袖をつかんで引き留めた。
阿文 「俺たちの手で……って、捕まえる気なのか?よしたほうがいい。警察に任せればいいじゃないか」
吽野は阿文の制止を振り払って、首をぶんぶん横に振る。
吽野 「そればできないっ! 盗まれたものの中にはミイラの粉とか……まあまあ誤解を呼ぶものもあるし……! 元の通り帰ってくるとはとても思えないよ」
阿文 「そういう問題のあるものを興味本位で仕入れるなと、あれほど……」
また阿文の説教が始まる気配を察知して、吽野は矢継ぎ早に捲し立てた。
吽野 「御託はいい! 取り戻すには時間が勝負だ。行こう! 阿文クン」
阿文 「行こうって……どこかあてでもあるのか?」
吽野 「こういう危なそうな骨董品は売り捌くにしても足がつきやすいんだ。だから、売るとしたら無法地帯な『あそこ』しかないんだよ」
阿文 「あそこ、とは……?」
吽野 「骨董闇市だ!」
阿文 「闇市だって!? おいおい、大丈夫なのか?」
吽野 「大丈夫。ちょっと治安悪い感じだけど、大富豪とかけっこういるし。俺も常連なんだ」
吽野の笑顔はどこか自慢げだった。
阿文 「この店の怪しげなものの数々は、そこで仕入れてきたのか……」
阿文は呆れてため息をついた。
吽野 「じゃあ、行こう。あ、毛玉も連れてってよ。犯人の気配を察知したら、にゃあ、と鳴くんだぞ!」
阿文 「犬じゃあるまいし……なあ?」
ノワール 「にゃー!」
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◆第五話 第二章「再会」
◆◆◆◆◆骨董闇市◆◆◆◆◆
吽野に案内されてやってきたのは大きな古い洋館だった。
町外れに建つそれは、近所の子供に『幽霊屋敷』と噂されるような場所だ。
モダンなアーチ窓に嵌っているガラスは割れ、
古い木の扉は塗装が剥げてボロボロだ。壁一面には蔦が這っている。
窓の内側は暗く、人の住んでいる気配はないようだった。
綺麗に手入れすれば立派であろうに……と阿文は心の中で思った。
阿文 「こんな場所で骨董市が開催されているのか?」
吽野 「そう。月一でね〜」
阿文 「個人の家のように見えるが」
吽野 「まあね。以前はある富豪が所有はしてたようだけど、ずいぶん前に亡くなってね。骨董闇市の主催者が仲が良くて、譲り受けたらしい。その人もここに住んでるわけじゃないから、手入れも最小限にしかしてないようだよ」
阿文 「なるほど。てっきり、公園とか、大きな通りで開催してるのかと……」
吽野 「普通の蚤の市と一緒にしない方がいい。なんせ、扱っている品には、『やばいブツ』もあるんだからね。日の下じゃとても扱えないよ」
阿文 「ミイラ以上のものもあるのか」
吽野 「ミイラなんて序の口だよ」
口元をニヤつかせた吽野とは対照的に、阿文は口をへの字に曲げた。
大きな鉄製の門を開け、中に入ろうとした時だった。
後ろで黒塗りのベンツが停まった。
中から現れた人物は毛皮を纏った太った婦人だった。
骨董闇市へ参加しようとしている客だろうか。
洋館の開け放たれた玄関の内側には、
黒い背広のガードマンがいる。
屈強な男を前にした吽野は一瞬立ち止まり、
後ろから来る太った婦人に順番を譲りがてら、阿文に耳打ちをした。
吽野 「阿文クン、連れてきた毛玉を懐に押し込んどいて」
阿文 「わかった」
阿文は強ばりながらも、吽野についていった。
吽野は着物の袂から会員証を取り出して、ガードマンに見せる。
ガードマンは頷き、目元を隠す仮面を二つ吽野に手渡した。
阿文 「仮面……? どうして」
吽野 「後で説明するよ。とりあえずこれ被っといて。じゃないと会場に入れないの」
阿文 「あ、ああ……」
阿文は言われた通り仮面を被った。
勝手知ったる様子の吽野は屋敷の中に入っていく。
阿文もそれに続いた。
吹き抜けの天井には立派なシャンデリアが下がっているが
火は灯されていない。
それどころか大きな蜘蛛の巣まで張っている。
吽野 「地下が会場なんだよね」
大階段を下りながら、吽野が言った。
辿り着いた先はざわめいていた。
大きくひらけた地下広間はダンスホールのように天井が高い。
間接照明は少なく、会場全体が薄暗く感じる。
地べたに引かれた敷物には不可思議な品物たちが並べられている。
それは不思議堂に並べられた品物同様、
普通の雑貨屋ではお目にかかれないようなものばかりだ。
その品々目当てに100人以上がひしめき合っているようだ。
阿文 「こんな薄暗くて、よく品物が見えるな」
吽野 「顔を公にしたくない奴ばっかだし、こんくらいがちょうどいいんだよ」
阿文 「後ろ暗いのか?」
吽野 「まあ、全部じゃないけど、窃盗品とかも横行してるから。買う側も、売る側も警戒してるってわけ。今回不思議堂にしのびこんだ泥棒も、きっとここに紛れてるに違いないよ」
阿文 「そういう出店者は出禁にならないのか」
吽野 「無法地帯だ」
阿文 「なるほど。売っている品物も闇なら、会場自体も闇だな」
吽野 「そう。おかげで掘り出し物の宝庫だ」
阿文 「本当にそうなのか?」
阿文の視線の先には、人だかりができている。
その先、ライトアップされたテーブルの上に、
頭蓋骨に二本のツノが生えた形状の弦楽器が置かれていた。
眼窩はぽっかりと暗く、頭頂部は平になっていて、皮が張られている。
側面には髪の毛も生えており、禍々しい。
薄暗い会場内で、テーブルの周りは眩く輝いていた。
阿文 「なんだあれは」
吽野 「あー……リラでしょ?」
あの趣味の悪い楽器のことを、吽野は知っているらしかった。
阿文 「あんなもの買う気になれないが」
吽野 「そう? こういう場所だから、すっごく魅力的に見えるけど」
阿文 「見えないだろ」
吽野 「なんだかよくわかんないからこそ、ハイになるっていうか。闇鍋を突いているみたいな感じだよね。とはいえ、あれは店先に置くのは躊躇うなぁ」
阿文 「先生でも怯むレベルか」
吽野 「怯むっていうか、雰囲気壊すじゃん? 一応、店内は俺の基準でコーディネートしてるんだよね〜」
阿文 「ああ、そう……」
この先も店の中が珍妙な品で溢れるのだろう。
想像しただけで阿文はげんなりした。
吽野 「阿文クンも何か買いたくなったら買ってもいいけどさ、変なものも掴まされないでよ?」
阿文 「先生のようにはなるか。それに、買い物に来たんじゃなくて、品物を取り返しにきたんだろう?」
「そうだった!」と吽野は阿文の手を引っ張る。
吽野 「行こう! 早くしないと盗まれたものが取引されてしまう」
阿文 「わ、ちょっと、引っ張るな!」
すると、よろよろと歩く阿文の前方に、妙な男が屈んでいた。
?? 「へー……西からですか。ずいぶん遠いところから……」
手に取った茶碗に向かって話しかけている。
?? 「君は金継ぎが美しいですね。江戸時代生まれ……それはすごい」
?? 「あなたは?」
?? 「いえいえ、こちらこそ、出会えて光栄です〜」
吽野は思わず、隣の阿文に耳打ちする。
吽野 「なんだあいつ……茶碗に向かってぶつぶつ話しかけて……ね、阿文クン」
阿文 「ん? ああ……確かに、ちょっと変わった人だな?」
その時、阿文の胸元からノワールが顔を出した。
阿文 「ノワール」
ノワール「ふぎゃ……」
初めての場所を警戒して、阿文の肩に縋り付いて離れない。
阿文 「あたたた、ノワール、爪を立てないでくれ」
怯えたノワールは、阿文の仮面に手を引っ掛け、
バリバリと阿文の頬を引っ掻きながら頭上目掛けて登っていく。
阿文 「あだだだだ……」
吽野 「わ、毛玉何してんだお前」
阿文 「う! ま、前が見えない!?」
吽野 「阿文クン! 足元!」
阿文 「!?」
阿文は地面で品物を物色している男に蹴躓いて、派手に転んだ。
吽野 「大丈夫!? 阿文クン」
阿文 「ううっ」
瞬間的にノワールを庇った阿文は、
代わりに顔面を強かに床に打ちつけていた。
吽野 「痛かったでしょ」
阿文 「ああ、そんなことより……!」
男の方は阿文の様子を気に求めず、茶碗に話しかけ続けていた。
阿文 「すみません、お怪我ありませんでしたか?」
?? 「え? 僕はなんとも……?」
阿文 「よかった……」
どうやら怪我はなかったようで、阿文はほっと胸を撫で下ろした。
仮面が邪魔して男の容姿はよくわからないが、
口元の表情や声色から、男が怒ってはおらず、
朗らかに笑っていることは確かだ。
?? 「すみません、付喪神さんに話しかけていて、気づかなかったです」
吽野 「付喪神と?」
?? 「ええ、そうですよ」
吽野 (うわぁ……おかしな奴だなぁ……)
?? 「わ〜〜可愛い猫ちゃんですね〜」
阿文 「え、あ、はぁ……」
突然、男は甲高い声を出し、阿文の抱き抱えていたノワールに手を伸ばした。
?? 「わー、ふかふか〜」
男はノワールの身体中を無遠慮に撫で回していた。
ノワール「シャー!」
ノワールはたまらず威嚇の鳴き声をあげた。
?? 「ああ、そんなに怒らないで? ごめんね?」
猫の手の鋭い一撃をひらりと交わし、尚も撫でようとしたので
阿文はノワールを胸元に抱き抱えなおした。
吽野 「阿文クン、行こう」
阿文 「そ、そうだな。それでは、我々はこれで……」
阿文が立ち上がろうとした時だった。
?? 「待って、付喪神さんが……うん、あなたたちに何か言ってます……」
吽野 「は? 俺たちに?」
?? 「……ふむふむ。『我々を置いていくのか?』と言ってますね」
吽野 「置いていく?」
?? 「はい、この子達が……」
男は目の前の露店に並ぶ品物に目をやり、吽野に合図した。
吽野 「あ!!!」
吽野の大声に阿文は肩をびくつかせる。
吽野 「この茶碗……! 不思議堂から盗まれたものじゃないか!」
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◆第五話 第三章「鏡」
◆◆◆◆◆骨董闇市◆◆◆◆◆
吽野 「この茶碗……! 不思議堂から盗まれたものじゃないか!」
吽野の大声に驚いたのは阿文だけではなかった。
茶碗を並べていた露天商は腰を浮かせて後ろに後ずさる。
?? 「この店の人は泥棒さんってこと、ですかね?」
さっき会ったばかりの、奇妙な男も、
目の前でしどろもどろになっている露天商に視線を注ぐ。
阿文 「ええ。うちは骨董屋なんですが、今朝店内の品物がごっそり無くなっていたんです」
?? 「そうか、だからですね。この子達が騒がしかったのは」
露天商 「えーと、あの……し、失礼!」
吽野 「こら! 待たないか!」
露天商は商品を置いたまま一目散に逃げていく。
吽野は懸命に追いかけようとするのだが、
向かう先は人波で、揉まれるだけでうまく先へは進めなかった。
その間にも、露天商は人を蹴散らしながら、
どんどん先へ行ってしまう。
吽野に追いつこうと、駆け出そうとした阿文だが、
隣にいた男が咄嗟に手首を掴んだ。
?? 「待って。『また置いていくのか』と、この子達が言ってます」
男は露店に並んだまま、置き去りにされた茶碗を指さし示す。
なんの変哲もないように見えるのだが、口調は至って真面目だ。
?? 「目を離すとまた盗まれちゃいますよ。ここ、無法地帯ですからね」
阿文 「でも……!」
?? 「まあまあ、任せてくださいな」
仮面の下で余裕の笑みを浮かべているようだ。
男は立ち上がり、ジーンズのポケットから紙らしきものを取り出した。
阿文 「そんなものどうするんですか」
よく見れば、それは丁寧に折り畳まれた折り紙だった。
?? 「とりあえず、足止めだけでいいですよね?」
阿文 「え?」
訳もわからず、素っ頓狂な声を出す阿文の返事を待たず、
男は折り紙に向かって呟いた。
?? 「急急如律令」
手の中で折り紙がむくむくと起き上がり、羽根を伸ばす。
阿文が「あ!」と声を上げた時には、それは鶴の形になっていた。
?? 「いけ」
落ち着いた、しかし鋭い響きを持った声だった。
男の合図で、鶴は風もないのにふわりと宙を舞い、
たちまちのうちに、逃げる露天商の方角へ羽ばたいていく。
露天商 「うわ!」
男の声とドサっと倒れ込むような音が聞こえ、露天商が転んだのがわかった。
露天商 「いたたた!」
遠目でもわかる。鶴が露天商の頭を小突き回している。
相当痛いのか、露天商の男は、頭を抱えてその場にうずくまった。
これ幸いと、追いついた吽野がその上に覆い被さる。
吽野 「捕まえたぞ!」
吽野が叫んだ。
二人が地べたで取っ組み合いをしているのを、周囲は遠巻きに見て、
何事かと叫んだり、ひそひそ囁いたりと忙しい。
ところが、会場中はざわめくだけで
誰もこの捕物に手を貸そうとしない。おかげで
ガードマンが現れるまでの数分間は取っ組み合いが続いた。
吽野が泥棒の露天商をガードマンに引き渡し、
事情を説明しているのが見えて、阿文はホッと胸を撫で下ろした。
?? 「よかったですね」
男が仮面の下で笑みを零した。
阿文 「あ、ありがとうございます……! 助かりました」
?? 「いえいえ」
阿文は頭を下げた。
あの不思議な力の正体はわからないが、
男の活躍で露天商を捕まえることができたのは間違いなかった。
?? 「ところで、あの人どうします?」
阿文 「あの人、とは?」
?? 「泥棒さんですよ。生かしときます?」
男の手元には、さっきとは別の和紙が握られていた。
それは人の形を模したものだ。
?? 「呪えますよ。マーキングしてあるので」
愉快そうな明るい声だったが、男の右手は和紙をぐしゃりと握りつぶし、
人形の胸のあたりに親指の爪を立てていた。
すると、ガードマンに抱えられていた露天商が、
蛙が押しつぶされたような呻き声を漏らして身悶えているのが見えた。
何事が起こっているのか、詳しいことはわからない。
しかし、阿文は背筋を凍らせた。
阿文 「だ、大丈夫! 呪わなくても平気です。こうして品物は戻りましたし……!」
?? 「おや、そうですか? 残念」
男は穏やかな含み笑いのまま、握りしめていた右手を緩めた。
同時に、露天商の男も床にうずくまる。
そうこうしているうちに、吽野がこちらに駆け寄って来た。
吽野 「阿文クン! 茶碗は、ミイラは! 無事か!」
阿文 「あ、ああ……多分、無事だと思う」
吽野 「よかった〜!」
吽野は一安心だと言って、その場に脱力してへたり込んだ。
露天商と揉み合ったおかげで、着物は気崩れを起こしている。
阿文 「そこの方が助けてくださらなかったら、泥棒は捕まらなかった。だから、お礼を言ってくれ」
?? 「いえいえ。大したことはしてないですから」
一部始終を見ていなかった吽野だが、
阿文はそう言うのであればと、簡単に会釈してみせる。
一方の男は和紙をポケットに仕舞い込み、吽野と視線を合わせ、
上から下まで観察し、納得したように頷いた。
?? 「その姿、力が使いにくいでしょう」
男の唐突な質問に、吽野は首を捻った。
吽野 「は? どういうことですか?」
?? 「いや、別に……」
吽野の怪訝な返答は、男の思ったものではなかったようだ。
そのまま話題はそれていった。
吽野 「はやくこの露店から商品を手分けして探そう」
阿文 「しかし、暗くてよく見えないな」
?? 「この子と……あ、そっちからも呼んでますよ」
男は屈んで、迷うことなく品を手に取り、吽野と阿文に渡していく。
そのどれもに、吽野は見覚えがあった。
間違いなく不思議堂から持ち出されたものだ。
吽野 「本当に付喪神が見えてるのか?」
?? 「ええ。見えるし聞こえるし、時には使役しますよ。……さて、これで、最後かな?」
男が最後に手渡したのは、小さな銅鏡だった。
悪魔の映る鏡なら、さっき回収したはずだ。
こんなもの、不思議堂にあっただろうか?
吽野は身に覚えがなくて、混乱した。
吽野 「これ……」
?? 「では、僕は帰りますね」
吽野が質問する前に、男は立ち上がった。
阿文 「あ、待ってください。何かお礼を……」
男は首を横に振って微笑んだ。
?? 「そのうちまた再会しますよ。多分」
阿文の懐から顔を出しているノワールに手を伸ばす。
男が無遠慮に額を撫で回したので、
ノワールは、威嚇の鳴き声をあげた。
?? 「またねー」
男は上機嫌な挨拶を残し、踵を返す。
そしてその場を足速に去っていった。
阿文 「変わった人だったな。名前も聞かなかったが……」
吽野 「うん……」
吽野はさっき手渡された鏡に、もう一度目を落とす。
そして、驚きのあまり目を剥いた。
吽野 「え……! うそ、これって……!」
阿文 「ん? どうかしたのか」
吽野の手の内にあったのは、
かつて、主人が依代にしていた『あの鏡』だったのだ。
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◆第五話 第四章「主人との再会」
◆◆◆◆◆不思議堂◆◆◆◆◆
吽野 「ふう、やれやれ。これで元通りだね」
吽野は安堵の息を漏らした。
盗まれた品は全て不思議堂に戻った。
今回のことは災難だったが、盗人は先ほど捕まったし、
商品も無傷であったから、よしとしよう。
そう自分に言い聞かせ、荷解きを始める。
店内は散乱したままだったが、早々に片付け始めれば
明後日にはまた不思議堂を開店できそうだ。
もちろん、阿文も片付けを手伝ってくれるだろう。
吽野はそのつもりで算段をしていた。
ところが、
阿文 「……なんだか、目眩がする」
そう言った阿文は足元がおぼつかなくなり、
床の小さな段差でつまずいた。
吽野 「おっと」
吽野は転びそうになる阿文を咄嗟に受け止めた。
そして、いつも腰掛けている籐の椅子に座らせた。
吽野 「阿文クン、大丈夫?」
阿文 「ああ」
阿文はうなだれていた。
阿文 「疲れたのかもしれない。大捕物だったし」
一言返すだけなのに、やけに緩慢な様子だった。
吽野 「捕物をしたのは俺なんだけどね!」
阿文 「まあ、それはそうだが……」
吽野は冗談めかした口調で、
阿文に言い返されるのを待っていた。
いつも通り軽妙に返してくれると踏んでいたのだ。
ところが、とうの阿文は笑うこともなく、ぼんやりしている。
『僕だってあんな場所に付き合わされて、たまったもんじゃない』とか
普段通りであるならば文句の一つも出そうなものだ。
吽野 「阿文クン? おーい」
吽野は阿文の前で掌をひらひらとさせる。
ようやく、阿文はハッと正気付いた。
阿文 「すまない。ぼんやりしていた」
吽野 「ほんとにねぇ。どうかしちゃったの?」
阿文 「うーん。頭が痛いような。あの場所、空気が悪くて……」
吽野 「そうだった?」
阿文 「先生は感じなかったのか?」
吽野 「……あんまり?」
阿文 「そうか」
阿文はそう言ったきり、
目頭を押さえて、また具合が悪そうに項垂れてしまった。
言われてみれば、帰り道でも返事が単調で
朦朧としていたかもしれない。
吽野 「お風呂に入って、早めに眠ったら」
吽野は阿文を心配し、肩を叩いて促した。
阿文 「ああ。そうさせてもらう」
阿文は勧めに応じ、店の奥へと引っ込んだ。
吽野 (……そろそろ依代を新調した方がいいのだろうか)
吽野は阿文の後ろ姿を見送りながら、心の中で呟いた。
その時だ。
吽野 「そうだ……」
ふと、吽野は思い出し、
懐からあるものを取り出した。
それは、さきほど出会った男から手渡された銅鏡だ。
この形、重さ……紛れもなく、
あの日、件が持ち出した銅鏡である。
吽野は手の中に収まっているそれをひと撫でして、
周りに誰もいないことを確認した。
ついでに、不思議堂の玄関の鍵が閉まっていることも確認する。
吽野 「よし……」
準備が整ったところで、吽野は鏡を口元に近づけた。
そして、遠慮がちに、祈るような気持ちで呟いた。
吽野 「もしもし? もしもーし」
不毛で馬鹿らしいとも思えた。
元御神体とはいえ、今やこの鏡はくすみ、
以前の霊気を纏ってはいない。
返事が返ってくる可能性は低い。
吽野 「主人様、聞こえますか? おーい」
そばで見ていたノワールがうるさいな、と
尻尾をあげて遠ざかるのを見送りながらも
吽野は信じて話しかけ続けた。
吽野 「はあ……やっぱ、無理かなぁ」
そう呟いた瞬間だった。
銅鏡全体がほのかに光を放った。
吽野の心臓はどきりと脈打つ。
主人 「……もしやその声は、吽行か?」
吽野 「はい! そうです!」
吽野は目を輝かせた。鏡から聞こえてきた返事は、
以前の通り、鈴のような響きを持っていた。
吽野は思わず飛び上がって、小さくガッツポーズをする。
吽野 「よかった、主人様に繋がって!」
主人 「言葉を交わすのはいつぶりであろう」
問われた吽野は指折り数える。
吽野 「えーと……あの化け物が神社を襲ったのが、江戸末期くらいで、だから……ざっと180年くらいですかね」
主人 「そうか。現世の時の流れは速い。私があの社を離れてから、ずいぶんと経ったのだな」
吽野 「ええ。我々二人、人間の姿に身をやつし……色々ありましたよ」
吽野はここに至るまでの色々を思い返し、一人頷いた。
主人 「お前たちを残し、現世を離れ……あの地を守ることも叶わなくなった。時折鏡を覗き見ても、様子を窺い知ることもできなくなり、心配をかけたな」
主人が現世から本来の住まいである
常世の国に帰られたのは、随分と昔のことだ。
二度と会えないのだろうかと思う日もあった。
見捨てられてはいないかと、弱きになる日もあった。
だが、長い時を経て再会を果たすことができたのだ。
柄にもないと苦笑しつつも、吽野は感極まっていた。
主人がこちらを気遣ってくれていたと知れたのも幸いだ。
主人 「ところで……吽行。阿行は今どこに居るのだ」
鏡の向こうの主人は、もう一人の消息を心配しているようだった。
吽野 「それが、阿行は今、具合が悪くて休んでます」
主人 「具合が?」
吽野 「ええ。阿行の依代である石像は、まだ壊れたままでして……」
主人 「なるほど、あの時のままか」
異界の神の襲来によって、
社や石像がめちゃくちゃにされた日を、
主人も思い出しているようだった。
吽野 「はい。何度も作り直そうと試みましたが、俺ではどうすることもできなくて。せいぜい仮の依代を、都度用意するくらいでした」
今までに何度も、不安定になる阿文のために
依代を用意してきた。
時に吽野の手作りの形代で、時に骨董市で手に入れた品で、
石像の代用を試みたのだ。
しかし、どんな依代も、元の石像ほどに安定はしなかった。
吽野 「依代の寿命は短いんですよね。常時人間の姿だから、余計に力も使いますし」
主人 「以前のように、依代の姿で私を待つことはできなかったのか?」
吽野 「それはむしろ難しいですよ。阿行は未だ本来の姿を思い出せずにいます。人間の形を保つ以外を知らないんですから」
主人 「記憶が戻らぬとは……」
それは、主人が現世を離れた直後に分かったことだった。
思いもよらぬ状況だったと見え、言葉を失っていた。
吽野 「そう。だから俺もこうして人間のまま過ごしてます。あいつは、自分がそうとは気づいてませんけど、かなり不安定です。依代が変わったタイミングで、俺以外のことを全部忘れていることもある。見張ってないと、何しでかすかわかりませんよ」
ここに至るまでの数々が蘇った吽野は、
うんうんと頷く。
自分を労いたい気持ちだった。
主人 「早々に助けられず、苦労をかけたな」
とはいえ、率直に労われると、少々くすぐったくもある。
吽野 「片割れに何かあっては、俺の存在意義ってものが無い。我々阿吽は、二人で一つですからね」
阿文の前では口が裂けても言わないであろう
正直な気持ちがまろびでる。
主人を前にして、気が緩んでいるのだろうか。
吽野自身、気恥ずかしさを覚え、軽く咳払いした。
主人 「……やはり石像を作り直す必要がありそうだな」
吽野 「ええ。おっしゃる通り。主人様のお力が必要です」
主人の協力なしに阿行の完全復活は無理だ。
これは、200年弱の間に思い知らされたことだった。
主人 「今の阿行の依代を見せてみろ」
吽野 「はい」
吽野は言われた通りに、阿文の依代の元へ向かった。
それは不思議堂の奥、
二人の居住部屋の鍵付き金庫の中に保管されている。
吽野は古めかしい錠を懐から取り出し、金庫を開けた。
中には人間の赤ん坊ほどの大きさの布包がある。
幾重にも巻かれた布を解くと、小ぶりな阿行の像が出てきた。
主人 「焼き物か」
吽野 「……数年前に変えたばかりなのですが」
吽野は手にした像を、主人の銅鏡の前に置いた。
主人 「既にヒビが入っているな」
吽野 「あ、本当だ……」
阿行の焼き物には、薄くヒビが入っていた。
どんなに厳重に保管していても、
劣化していくのは常だ。
吽野はさほど驚かなかった。
吽野 「今の器もそろそろ寿命かもしれないですね」
主人 「私が石像を作り直す。早々に実体化してな」
吽野 「そんなこと、可能なのですか」
主人 「うむ。そのためには私自身も安定した依代が必要だ」
吽野 「今の、銅鏡のままではダメですか?」
この銅鏡は、元は神社の社に祭られた立派な御神体である。
ようやく自分たちの元に戻ってきたというのに……。
主人 「この銅鏡は霊力が弱まっている。あの化け物がこの鏡を一度依代にしたようだ」
吽野は愕然とした。
この銅鏡を盗み、阿行像を破壊した、禍々しい化け物……
あれは異界から来た『神』が乗り移った死体であった。
あの異形が銅鏡を盗んだ真の理由は、結局わからず仕舞いだった。
ところが今、主人の口から出た言葉、
『この鏡を一度依代にした』という事実によって、吽野は確信した。
吽野 「まさか、あの化け物が神社を急襲した理由って……」
主人 「この御神体の乗っ取りだったのだろう」
主人は小さく唸った。
主人 「故に、今は力が出しづらい。汚れが邪魔をするのだ。この銅鏡を通しては、別の依代を作ることはできぬ」
吽野は大きなため息をついた。
吽野 「……となると……うーん」
銅鏡以上の神の依代があるとは思えなかった。
阿行の依代を探すよりも骨が折れそうだ。
その時、吽野の頭にひらめきが走った。
吽野 「そうだ、以前ノワールに乗り移れたじゃないですか」
主人 「ノワール?」
吽野は気づいた。
あの黒猫が阿文の神通力のせいで蘇生して特別な化け猫となり、
180年経ってなお健在とは、説明していなかった。
おまけに、小洒落た名前をつけられて同居しているなど、
主人も思わないだろう。
吽野 「黒猫のことです」
主人 「ああ……あの化け猫に乗り移るのは難しい。以前も言った通りだ。生きた猫の意思がある。弾かれてしまうだろう」
阿文の依代を作るために、主人の依代を探す。
吽野は顎を撫で、ふむ、と考える仕草をした。
ここにきて問題は山積みだ。
吽野 「こんなことになるとはなぁ。もう少し早く分かっていたら、骨董闇市で、依代によさそうなものを見つけてきたのに」
そういえば、と吽野は気づいた。
吽野 「それにしても、なんで主人様の銅鏡が、露天商の売り物なんかに……まさかこれも前の持ち主から盗まれて……?」
江戸時代に盗まれ、どこかであの化け物に捨て置かれたあとは、
明治、大正、昭和、平成、令和……長い長い旅をしたに違いない。
そして、あの悪悪しい顔の露天商が
正規で仕入れたのか、はたまた盗んだかは定かでない。
しかし、これだけは言える。
この鏡がどれだけ貴重な御神体かなど、知るよしもないだろう。
吽野は想像して、呆れ混じりの怒りを覚える。
ところが、
主人 「この銅鏡は、長らく男の手にあり、仕舞い込まれていた」
主人から放たれた言葉は、意外なものだった。
吽野 「男……? 露天商ではないのですか」
主人 「いいや。直前の持ち主は、この鏡をお前に手渡した男だ」
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◆第五話 第五章(終章)「満月」
◆◆◆◆◆居酒屋◆◆◆◆◆
吽野「おじさん、こっちに串3本」
店主「はーい」
宵の口。
商店街の居酒屋のカウンター席に、吽野はぽつんと一人座り、
ジョッキを片手に、一杯やっていた。
普段であれば傍に阿文が並んでいて、
マイペースに杯を傾けているというのに。
吽野は小さくため息をついた。
阿文は闇市から帰るなり、寝込んで起き上がる様子もない。
吽野「……現世に神仏がとどまるのは、難しいもんだな」
吽野は虚空に向かって呟いた。
それは、主人のことでもあり、相方である阿文のことでもある。
懐から銅鏡を取り出し、それをカウンターに置く。
自然と主人と交わした会話が思い出された。
主人曰く、この鏡は、闇市で出会った男が長らく所有していたと言う。
それ故、この汚れた銅鏡を長く依代にするのは困難なのだ。
ならば、この銅鏡を所有してた、あの男の正体とは――……
質問を重ねたかったが、
銅鏡を介しての交信は不安定で真相には未だ辿り着けていない。
おまけに、心配事は他にもある。
現在の阿文の依代には、しっかりとしたヒビが入っている。
吽野(依代の替え時なんだ。こんなことは一度や二度ではなかったし)
吽野はジョッキを傾けて、心配事を喉の奥に押しやろうとした。
きっと近いうちに、主人の手で阿行像は再建される。
そのための繋ぎを早く見つけないとならない。
念の為、不思議堂店内を隅まで掘り返して、代わりを探したが
阿文の器にちょうどいいものはなかった。
布団に横になったまま、ぐったりする阿文を見て、焦りも覚えた。
吽野「まあ、考えすぎても、仕方のないことだ……」
先ほどまで作業をしていたので、
身体中埃まみれでクタクタだった。
ただでさえ、今日は大捕物だったのだ。
店主「はい、串3本」
吽野「ありがと」
皿を受け取り、焼きたての鳥を頬張りながら、吽野は阿文を思った。
おかゆを作って台所に置いてきたが、
きっとあの様子では手はつけてないだろう。
夕飯をさっさと済ませて家に帰ろう。
3本目の串を頬張った時だった。
??「その鏡、しまっといた方がいいぞ」
吽野「ん?」
??「嫌な気配がする」
カウンターの隣から声がした。
横を見れば、いつの間にやら座っていた真っ黒な服を着た大男がいた。
男はこちらに視線もくれず、何をしているかと覗けば
手元で一心不乱に焼き魚をほぐしている。
嫌な気配と、この男は言った。
主人曰く、この鏡は汚れがあるというから、言い当てられたことになる。
吽野「わかるのか」
??「まあ……」
妙に低い声だ。威圧感があって、重々しく腹に響く。
顔から視線を落としていけば、
黒いタートルネックから刺青がはみ出している。
それから、耳たぶのあちこちを貫通している刺々しい銀のピアス。
吽野は怯んで、ジョッキの酒を飲み干した。
??「警戒してるだろ」
空のジョッキを握りしめていた吽野は、酒の代わりに
ごくりと生唾を飲み込む。
吽野「警戒しない方がおかしいでしょ」
どう見てもカタギじゃない。
男はじろりと睨んだので、吽野と視線がぶつかった。
おかげで、その瞳が真っ青であることに気づかされる。
整った鼻梁。髪は真っ黒で、長く伸ばしている。
外国人だろうか。
吽野「あんた何者?」
??「ただの通りすがり」
酒のある店で、この手の輩に絡まれるなんて、
面倒だし都合が悪い。
なるべく平静を装って、刺激せず、
やり過ごそうと、吽野は心に決めた。
男はカウンターに何かを置いた。
それは、くしゃくしゃになったレシートだった。
??「紙……これしかなかったわ。まあいいか。お兄さんペンある?」
吽野「……万年筆なら」
??「貸して」
吽野は袂に放り入れていたままの万年筆を男に手渡した。
男は慣れた手つきで、紙に線を引いていく。
吽野「それ、なに?」
??「おまじない。なんかあったら、駆けつけてやる」
吽野「えー……電話番号かなにか?」
??「はは! まさか。そういうのは可愛い子にしかしない」
ナンパなやつだな、と吽野は鼻で笑った。
困った時にこいつに電話をかけたとして、
ことが済んだら取り立てられて身ぐるみ剥がされてしまうのでは……。
想像して、吽野は身震いした。
吽野「ねえ、『なんかあったら』って、どんなこと?」
??「さてね。俺の勘だと、今夜中に起こると思うぜ」
吽野「言い切る根拠は?」
?? ないよ。勘だっていってるっしょ」
冗談を交えている間に、男はペンをカウンターに置いた。
??「俺の勘って、だいたい当たるんだよね」
吽野「怖いこと言うなよ……」
??「はい、これ袂に入れといて」
男が書いた線は交差して、格子模様になっていた。
一体、なんの模様なのか。おまじないと言っていたが。
裏を返すと、コンビニで煙草と水を買った会計が書いてあった。
吽野の目には、ただの悪戯書きにしか見えない。
??「そんじゃね」
男は立ち上がって、勘定を置いて去っていった。
残された皿の焼き魚は、綺麗に骨だけになっていた。
◆◆◆◆◆不思議堂◆◆◆◆◆
煌々と満月の照る丑三つ時だった。
布団の上から雲ひとつない夜空をぼんやり眺める。
吽野の目は冴えていた。
相変わらず、阿文は起き上がってくる様子もない。
静かで、けれども妙な胸騒ぎがする夜だった。
先ほど居酒屋で声をかけてきた、
あの男の声が耳にこだまする。
??(今夜中に起こると思うぜ)
吽野は手に持っていた銅鏡を懐にしまい、
ムクリと起き上がった。
そして、足音を立てぬよう、静かに立ち上がり
阿文が寝ている寝室まで歩んでいく。
吽野の部屋と隣接しているので、数歩の距離だ。
襖の前に立つと、部屋の中からかすかな唸り声がする。
吽野「……阿文クン?」
ささやくように呼びかけた。唸り声は、ぴたりと止んだ。
阿文「……」
返事はなかった。
代わりに響き渡ったのは、
がたがたがた! という物音だ。
吽野(な、何事だ!? また泥棒か……!?)
阿文を起こさぬよう、必死で声を抑える吽野だが、
動揺が隠せなかった。
音はどんどん大きくなって、そのうち、
物を引っ掻くような……いや、何かを
齧るような音までする。
吽野(一体、どこから……!?)
吽野は辺りを見回した。
どうやら店の方ではなく、居間から音はしている。
ノワール「ふシャー!」
音に驚いたノワールが足元にやってきて、
唸り声をあげている。
襖の前で踵を返し、吽野は慌てて居間に向かった。
ノワールもついてくる。
吽野「え!?」
居間に入るなり、吽野は声を漏らした。
小刻みに振動する箱――
それは、阿文の依代がしまわれている金庫だ。
吽野の全身が泡立つ。金庫の鍵を解錠し、扉を開く。
そこには、小さく黒いものが群がり、
キイキイと鳴き声をあげていた。
包を引きちぎったり、齧ったりして中でうごめいている。
鼠だ。
吽野「ぎゃっ!」
吽野の声に反応して、
鼠は四方八方に向かって駆け出していった。
その数、十を超える大群だった。
吽野「どこから入ったんだ!?」
逃げる鼠を置いかけて、
ノワールが部屋の中をぐるぐると走り回る。
月光に照らされ、形をあらわにした鼠に目はない。
吽野は息を呑んだ。はたと我に返る。
吽野「阿文クンはどうなった!?」
金庫の中の阿行像の包を取り上げ、腕に抱く。
鼠が歯を立てて包みにしがみついていた。
それを勢いよく払う。
腕の中で、ぴしりと陶器の軋む音がする。
割れたのかもしれない。
中を確認したかったが、
冷静さを欠いた吽野はドタバタと廊下を走り抜け、
阿文の部屋の襖を勢いよく弾いた。
阿文が布団の上でのたうち、体中をかきむしって唸っている。
吽野「大丈夫!?」
阿文「うううう……」
阿文は何も言わなかった。
喉から獣のような唸り声をあげるばかりだ。
吽野が屈んだ拍子に銅鏡が懐からぽろりと落ちた。
阿文「あっ……!」
阿文が尖った声を出した。
吽野「どうしたっ」
布団の上の鏡が、満月を映し出す。
薄暗い部屋の中が、ぼんやりと白い月光に照らされた。
その拍子、
ずずずず!
おぞましい、這うような音と共に、
鏡の中から白い手が這い出てきた。
吽野「うわっ!」
思わず吽野はのけぞってしまう。
阿文「あ……ああ、先生……!」
白い手は、のたうつ阿文の腕をしっかりと掴んで、
あっという間に阿文の全身を鏡の中に引き摺り込んでしまった。
後に残ったのは、阿文の着ていた羽織だけ。
中身は、忽然と姿を消した。
一瞬だった。
あまりの出来事で、吽野は声も出なかった。
何が起こったのかもわからない。
頭の中が真っ白になっていた。
抜け殻のように散らばる羽織と小さな鏡を前に、
呆然と立ち尽くすしかない。
パキン!
足元で、大きな音がした。それは、陶器の割れる音だ。
正気付いた吽野は、急いで包を解く。
中の阿行像が、真っ二つに割れてしまっていた。
吽野「まずい、まずいぞ……!」
阿文の依代が完全に破壊された。
あの日、神社の阿行像が壊れた時の阿文の姿が蘇る。
あんな恐ろしく、悲しい思いを二度としたくはない。
吽野はその場で右往左往していた。
吽野「そうだ、主人様に……! 主人様に知らせないと!」
主人様!と悲痛な叫びをあげそうになった吽野の足元に、
ノワールがすり寄ってきた。
??「ここだ」
ノワールが、喋った。鼠を咥えながら。
吽野「主人様! やはり、あの時と同じく、ノワールを依代にしたのですね! ということは、今もそこに阿行は……」
主人「いや、この猫には居ない」
それを聞いた吽野は、がくりと肩を落とす。
一縷の希望も潰えた。
であれば、阿文は今、どこに消えたと言うのだ。
主人「あの銅鏡、やはり仕掛けがしてあったようだな。嫌な予感はしていた」
吽野「鏡に吸い込まれたまま行方知れずなんですよ! どうしたら……」
主人「助けてやりたいが、この猫の依代、長くはもたぬ」
吽野「そんなこと言わず! 今は主人様が頼りです」
主人「ぺっぺっ……ちょっと、待てっ」
次々言われても、口元の鼠が邪魔をして話にくい。
ノワールは口から鼠を離して、前足で踏みつけた。
主人「……この黒猫が咥えていた鼠……これは、陰陽師の……」
吽野「陰陽師?」
突然、吽野の着物の袂から煙が上がった。
吽野「うわわわわ! 今度は何!?」
袂を探ると、先ほど男から預かったレシートが煙を上げ、
熱を持っていた。
紙のちょうど真ん中がタバコを押し当てたように焦げてゆく。
その穴が、ずぶりと貫通する。
紙片の向こう側から、紙穴をこじ開けたのは、指だった。
??「どうも」
吽野「うわっ」
穴の中から、見覚えのある青い目が覗いている。
??「もしかして今、一大事?」
声にも聞き覚えがあった。こいつは……
吽野「あんた、さっき居酒屋で会った……」
??「そう、隣で飯食ってた奴です」
吽野「ど、どうしてこんなところから話しかけてくるの!?」
吽野の質問は至極もっともだった。
まさか、もらったレシートから話しかけられるなんて、
思いもよらなかった。
??「玄関が閉まってるんだもん。不法侵入で捕まるのは嫌だし」
男が何を言っているのか、
吽野にはさっぱりわからなかった。
混乱のあまり、頭をガシガシと掻きむしる。
吽野「たく、何なんだよ、どういうことだよ! 今日は色々起こりすぎてる」
??「落ち着けって。あんたの持っていた銅鏡、呪詛がかかってたんだ。たぶん、陰陽師の仕業だよ」
吽野「陰陽師?」
??「そう。俺も同業だからわかる。必要なら力貸すけど、どうする?」
吽野の頭の中は混乱の中にあったが、
今は藁にも縋りたい気持ちだった。
仮に、このカタギじゃない男が後から
とんでもない請求してきたとしても、
相棒である阿文の一大事を放っておけるはずはなかった。
吽野「お願いします!」
??「りょーかい。んじゃ、玄関の扉、開けて入っていい?」
吽野「ふえ?」
??「いいよね。入るよー」
吽野が聞き返す間もなく、
玄関がガチャガチャと音を立て、終いに、
ガシャン!
と、蹴破られたような物音と、
続いて、廊下をドタドタと歩く音近づいてきた。
不思議堂の裏手で飼われている犬が
わんわんと騒がしく吠えている。
??「どーも、お邪魔します」
現れた男は、体長2メートルはあろうかという大男だ。
居酒屋で見た時、ずいぶん座高が高いなと思ってはいたが、
こんな巨人並みであるとは気づかなかった。
ノワールも思わず身構えて、吽野の後ろに隠れてしまう。
??「俺は満月(みつき)って名前。あんたは?」
吽野「う、吽野……」
満月と名乗った男が、床に転がる鏡を一瞥して言った。
満月「その鏡、人を食ったでしょ」
吽野「なぜそれを」
満月「やっぱね。かかっていた呪詛が、身体を乗っ取ろうとするものだから。食べられたのって誰?」
吽野「俺の相方で、同居人」
満月「……てことは、その人も、人間じゃなさそうだね」
吽野はぎょっとして、満月を見返した。
一体、どこまで知っているのだ、この男は。
満月「最初からお兄さんが人外なのは気づいてたよ。だから、霊符を渡したんだ」
吽野「霊符って……ありゃレシートだろ!」
満月「俺の凄腕にかかれば、レシートだって霊符になる」
主人「お喋りはそこまでにしろ」
足元でノワールに乗り移った主人が一喝した。
満月「この黒猫、喋るのか」
満月は特に動揺もしていなかった。
吽野「俺の仕えている主人だ。猫を一時的な依代にしてる」
満月「へー……」
満月は興味深そうに、口元を歪め、しばらくノワールを眺めていた。
ふと、満月がピンと研ぎ澄まされた表情をする。
何事かと思い、吽野は視線の先を追う。
見ていたのは銅鏡だ。それは鈍く光って
たちまちに黒い炎に包まれた。
禍々しい黒い炎は布団を焦がしていく。
そして、鏡から這い出てきたのは、またしても腕だった。
満月「お出ましのようだぞ」
吽野「……!」
その姿を見て、吽野は目を剥いた。
その人物とは……
吽野「阿文クン!?」
先ほど飲み込まれてしまった阿文だった。
阿文は吽野の呼びかけに、ニタリと笑みをこぼす。
阿文「入れた、入れたぞ……!」
吽野の背筋が寒くなった。
あの笑み、虚な目。
人語を解さないような、のっぺりとした表情。
間違いなく、『あの男』のものだった。
その目を、吽野は今に至るまで、幾度と見てきた。
神社を襲ったあの男、
農村で阿文に取り憑いた「件」、
平井邸で出会った「久多」……
どんよりと暗い、おぞましい眼差し。
あの時の「もの」がまたここに入ってしまった。
主人「阿行が支配されている」
吽野「でも、依代は割れているはず」
満月「いや、乗っ取ったのは『器』じゃない。『存在そのもの』だ」
吽野「ど、どういうことだ……?」
満月「つまりは、あいつの存在を上書きしたんじゃないか?」
それを聞いた吽野の腕に、おぞましさのあまり鳥肌が立つ。
吽野「嘘でしょ!? じゃあ、阿文クンは存在ごと消えちゃったの!?」
満月「まあ、そうだろうな」
こともなげに、満月は言った。
主人「まだ……! まだわからぬぞ」
言い合っている間にも、
阿文の中の『モノ』は、新しく手に入れた身体を
恍惚の表情で見回していた。
阿文「この身体……なるほど、神のために用意された存在。私に持ってこいだな……」
阿文の声でいて、その言葉は阿文のものではなかった。
吽野はそれが悔しくて、叫んだ。
吽野「阿文クンを……阿行を返せ!」
阿文「いやだね」
主人「目を覚ませ阿行!」
飛びかかったノワールが阿文の手首に噛み付くが、
勢いよく振り下ろされた腕によって、
ノワールは強かに地べたに叩きつけられた。
主人「ぎゃっ」
吽野「主人!」
阿文は笑っている。
日頃可愛がっているノワールや、
自分の主人に向かって、容赦がなかった。
屈んだ阿文は、銅鏡を拾い上げ、
神通力でもって、粉々に砕いてしまった。
散った破片は宙を舞い、吽野目掛けて飛んでいく。
吽野「げえ! 嘘だろっ!」
吽野がなすすべなく頭を抱える。
満月「下がっていろ!」
満月は阿文と吽野の間に勢いよく躍り出た。
同時に、満月の指の間から無数の霊符が飛び出し、
その全てが破片を包み込んで、畳の上に落ちた。
吽野「すっごいね! あんた!」
満月「感心してないで、お兄さんも反撃しろよ」
吽野「んなこと言っても……! この姿じゃ、ろくな力も使えない!それに、しばらく主人のそばに居なかったから霊力自体が弱まってて……」
主人「私のせいだ。面目ない」
ノワールの中に入った主人が、首を垂れた。
満月「それじゃ人間と大差ないじゃないか」
吽野「う、うるさいな」
満月「まったく、訓練の足りてない犬どもだ」
吽野「犬じゃない! 狛犬だっての」
呆れたように満月が言い捨てた。
三人が言い合う隙を見て、阿文は駆け出した。
満月「このまま逃げる気だ。追え! 吽野!」
吽野「俺は犬じゃねーぞ!」
主人「狛犬だな」
吽野「ぐぬぬ、そうだけど」
阿文は裸足のまま、壊れた玄関をくぐり、
商店街の裏手に向かって走っていく。
三人はその後を追いかけた。
ノワールの姿の主人はすばしこく、先頭をきった。
商店街を駆け抜け、民家の庭を横切り、時には塀をよじ登る。
途中に現れた石階段の前で、吽野はぜえぜえと息を吐いた。
吽野「これ……もしかして、神社の方に向かってる?」
主人「かも知れぬ。かつて馴染みのある場所であるから、あの身体が勝手に動いているのか」
行き先がわかるや、主人はぐんと加速した。
吽野はそれについていこうと、必死の形相だ。
満月「猫の方がすばしっこいとは。犬の面目丸潰れじゃねーか」
吽野「うるさいよもう! 俺はインドア派なんだっての!」
満月「そんなんであいつと戦えるのか?」
吽野「……それは……」
吽野は言い淀んだ。追いかけていることと、
阿文と対峙することは、別問題だった。
吽野にとって、長年の相棒を手にかけることなどできるのか。
満月「……まあいい。あいつを始末するのは俺に任せろ」
吽野「待って! 阿文クンを殺さないでよ!」
満月「んなこと言ったって、このままじゃ悪鬼になって悪さするだけだぞ」
吽野「わかってるけどさ……!」
吽野は阿文を救いたい一心だった。
けれども、今の阿文の暴走を止めるいい案は思い浮かばない。
階段を上り切りきると、神社の社の前で、阿文は立っていた。
吽野たちを待ち構えていたのか、
ニタニタしながら、身体を揺らしている。
吽野 あいつ、からかってやがるな」
人の気も知らないで、と吽野は腹立たしく思った。
満月「好都合だ。ああ言う舐め腐った態度が、命取りだと教えてやろう」
満月が手で印を結び、呪詛を吐くと、
阿文の体はびくりと痙攣して
動かなくなった。
吽野「どんな技を……」
吽野は驚き、満月の方を見た。
満月「さっき破片を避けた時、霊符を一枚、あいつの体に貼り付けておいたんだ」
吽野は思い返す。
阿文が銅鏡を割った時の、
あの防御の隙をついたというのか。
吽野はひどく感心した。
こんな怪しげな形をしているが、
ずいぶん戦い慣れしているようだ。
主人「満月とやら……」
主人は重々しい声で、満月の方を見て言った。
主人「もし、私の手によって、新たな阿行の依代がここに作り出せるとしたらどうだ。あの異形から、阿行を引き剥がすことはできるであろうか」
満月「……なるほど。やってみる価値はある。だが、その猫の姿で、できるか?」
主人「……そこが問題であるな」
満月はうーんと唸って目を閉じた。
満月「んじゃあ、俺を依代にするか?」
主人「なんと……」
満月「この身体、用が済んだら返してくれよな」
満月は来ていたジャケットと、黒いタートルネックを脱いで、
上半身をあらわにした。
その体、腕や背、胸に至って刺青が走っている。
吽野「まさか、ヤ……!」
満月「ちがうわ、バカ。よく見ろ」
刺青の内容は、呪文や霊符に使われる模様が刻まれていた。
吽野「あんた、身体ごと商売道具にしてるの?」
満月「その方が手っ取り早いんだよ」
満月は両瞼を閉じ、深呼吸した。
満月「冗談はここまでだ。神降しに集中する」
満月は静かに両手で印を結び、呪詛を唱え始める。
すると、周囲の空気はあたたかくなり、渦を撒き始めて、
終いには小さな台風のようになった。
吽野「すごい……」
満月の体は発光し、ほんの数秒で、あたりは眩い光に照らされた。
あまりの明るさに吽野は目が眩み、次に目を開けた時には、
満月の体は、白く、すらりとした男性の姿になっていた。
その姿は、紛れもなく常世の国に住まう阿吽の主人の姿だったのだ。
主人「吽行、こちらへ」
促され、吽野は主人の方へ歩み寄る。
主人「手を出しなさい」
吽野「手、ですか」
言われるままに腕を伸ばすと、
主人はその大きくあたたかな掌を吽野の手に重ねた。
吽野 「……!」
膨大な霊力が手を通して流れ込んでくるのを感じる。
まるで熱湯に引っ張り込まれたような感覚だ。
全身が熱く、蕩けてしまうそうになりながら、
吽野は自分の姿が、
常世で主人に仕えていた時の姿に変わっていることに気づいた。
主人「これで、少しはいいだろう」
吽野「はい、力が漲るようです」
主人「次に、阿行――」
そう言った主人の指先から、無数の白い糸が現れ、
それが何重にも絡まり、紡がれ、大きな光の塊となった。
その塊は軽々と宙を舞い、元あった阿行像の場所に降り立つ。
塊はみるみるうちに岩の質感に変貌する。
主人が岩に向かってフウ、と息を吹きかけた。
すると、岩はパラパラと削れ、
あっという間に阿行像の形になったのだった。
吽野は驚き、息を呑んだ。
像が作り終わると、主人は吽野の方に向き直った。
主人「吽行」
吽野「はい」
主人「これ以上は、満月の身体がもたない。神降しは命懸けだ」
見れば、差し出された主人の手は赤く、火傷のように爛れている。
放出される熱量に、生身の人間の身体は耐えられないようだ。
主人「霊力が高まるほどに、依代への反動は大きい」
吽野「そんなリスクのあることを、あいつは引き受けたのか……」
主人「私は常世に一旦帰る。力を取り戻した今の吽行であれば、阿行を救うこともできよう。頼んだぞ――……」
そう言い残し、主人はスウ、と満月の身体から抜けていった。
満月は膝からガクンと地面に落ちた。
それでも、呪詛の印を結んだ状態を保てているのは、
彼の精神力ゆえだろう。
吽野「おい、大丈夫か」
満月「いいから、今のうちに。動きはいつまでも止めておけねえから……」
促された吽野は、固まったままの阿文に歩み寄った。
そして、自身の手を阿文の手に重ねた。
阿文「……!」
阿文の体に、主人から分け与えられた霊力が、吽野を通して一気に流れ込む。
阿文「あ、あああ!」
吽野は掴んだ阿文の右手をぐいと引っ張った。
つられて阿文の霊体が引き出される。
それは、光をまとった半透明な姿で、今の吽野同様、
常世の国で主人にお仕えしていた時の姿そのままであった。
阿文「吽行……!」
吽野「ようやく思い出したか、阿行!」
吽野は阿文の手を引き、主人が残していった阿行像に霊体を導いたのだった。
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◆第五話 エピローグ「阿吽の絆」
◆◆◆◆◆不思議堂◆◆◆◆◆
存在が消えかかった阿文をなんとか救い出した吽野は
神社で満月と別れた後、不思議堂に帰ってきたのだった。
吽野「ただいま〜……。ようやく不思議堂に帰ってこられたね……って、うわあ〜そうだった、玄関!あーあ……風通しが良くなっちゃって」
二人の目の前には、粉々になった玄関扉があった。
ガラスは砕け、木枠はひしゃげ、ひどい有り様だ。
阿文「これ、蹴破ってないか? まさか強盗に入られたのか」
吽野「いや、ちがうんだ。満月(みつき)って奴の仕業だよ。たく、派手にやってくれたな。明日修理業者を呼ばなくちゃ」
阿文「満月……あの、僕を助けてくれた陰陽師の男か」
阿文にとっては、神社にて初めて会う男だった。
その風貌は暗くてよく見えなかったが、
いかつい大男だったのは確かだ。
吽野「そうそう。ちょっと強引な手段だったけど、あいつが居なければお前を助けることはできなかった」
阿文「なら、これくらいはおおめに見よう。命の恩人だからな」
吽野に説明されてわかったことだが、
満月は、いかつい見た目によらず、親切な人間であるらしい。
見ず知らずの自分を助けてくれたなんて、と、
阿文は感謝せずにはいられなかった。
話をしながら、
二人は玄関扉……だったものを跨いで、店の中へ入った。
吽野「それにしても、俺たち、懐かしい格好になっちゃったね〜」
阿文「主人様にお仕えしていた頃のままだな」
吽野「おや、ちゃんと記憶も戻ったんだね、『阿行』」
阿文「ああ、我々のあるべき姿も、背負っている使命も、しっかりと取り戻したぞ。『吽行』」
吽野「なによりだ」
阿文が吽野に向かって微笑むと、吽野はニヤリと笑い返した。
その表情は、ようやく相棒が戻ってきたことによって満足げだ。
吽野「それにしても、ここに至るまで、苦労の連続だったなぁ」
阿文「……そうか?」
吽野「大江山のことをよーく思い出せ。酒呑童子にしこたま酒を飲まされて、俺はお前を担いで山道駆け上がったんだぞ!」
阿文「あの時は、僕に『件(くだん)』が取り憑いたんだったな。まるで今回のように……」
阿文は思い出し、うんうんとうなずく。
吽野はさらに思い出す。
吽野「それから、海辺のレストランで人魚に追いかけられたり……」
阿文「レストラン龍宮か。人魚の生き血を飲まされ、不老長寿にされそうになった」
吽野「そんなことしなくても、俺ら不老不死みたいなものだけど」
阿文「いやいや。僕は今回、危うく存在ごと消滅しそうになった。身をもって、命の大切さを知ったよ」
吽野「そういえば、あのレストラン、まだ開いてるのかな?」
阿文「訪れたのは大正時代くらいだったか。潰れていないといいが」
吽野「経営してるのが不老長寿の人魚なんだもん、まだやってんじゃない?」
阿文「それもそうだ。今度一緒に行ってみるか」
吽野「いいねそれ! あそこ、料理はおいしかったもんね」
龍宮で食べた海鮮やエビフライは絶品だった。
吽野は思い出しながら舌なめずりをした。
それから次々と、遭遇した事件の思い出が蘇る。
吽野「そういえば、平井邸を覚えてる? オカルトの会合に招待されて、気持ち悪い絵を観にいったよね」
阿文「ああ。あったな。あそこでも奇妙なことが多かった」
阿文は懐かしい気持ちになり、相槌を打った。
吽野「そうそう。江戸の町では、狭くて汚い長屋で二人で暮らして……」
阿文「確かに、人間界に身を置くようになってから、様々なことがあったな。危ない場面もあったが、楽しいことも多かった」
満足げに笑う阿文に対し、吽野は怪訝そうに眉をひそめる。
吽野「阿行は昔から楽天的だよね。俺はその真逆。今に至るまで散々苦しんでたよ……!」
阿文「たとえば?」
吽野「俺は物書きの真似事なんて始めちゃったから、毎度毎度、締め切り地獄で……」
阿文「それに関しては、自業自得としか言えないな」
吽野「そりゃないでしょ! 人間のフリのためには、生活費を捻出しなくちゃいけなかったんだから!今の生活は、尊い労働の賜物なんだよ……!」
阿文「締め切りを守れない方が悪い」
吽野「はい、すみません」
阿文「まったく、お前は昔から調子がよくて、いい加減で……」
吽野「う、うん!色々あったけど、ここまでようやく漕ぎ着けた。めでたしめでたしだな」
その時、ノワールが店の奥から現れて、
阿文の足に擦り寄った。
ノワール「にゃーん!」
吽野「あ、毛玉じゃん」
阿文「ノワール! 無事だったんだな〜! よしよし……」
吽野「一足早く不思議堂に帰っていたみたいだな」
阿文「そうか、そうか、ノワール、寂しかったか〜?」
ノワール「にゃ〜ん! ……ゴロゴロ」
ノワールは目を細め、阿文に返事をした。
それを横で見ていた吽野も、ノワールを撫でようと珍しく手を差し出す。
吽野「今回は大活躍していたからな。褒美に撫でてやろう。おーよしよし……」
ノワール「フシャー!!」
差し出された手が気に食わなかったとみえ、
ノワールは吽野を威嚇し、容赦無く指に噛み付いた。
吽野「痛っ! ちょ、飼い主様を噛むな!」
阿文はノワールごと手を振りたくる吽野を気の毒そうに見ていた。
飼い猫にとことん嫌われている様には同情を覚える。
阿文「普段と違う格好をしているし、吽行だとわかならかったんじゃないか?」
吽野「それを言ったら、お前だっていつもと格好が違うじゃない!」
阿文「それもそうか」
阿文は他人事のように言って、黒くてなめらかな背を撫で始めた。
一方の吽野は齧られた手をさすり、ノワールに向かって舌を出す。
吽野「たく、可愛くない奴だよ。大昔におしっこかけてきた恨み、俺は忘れてないからな!」
阿文「どうしてそんなに嫌われているのか」
吽野「ふん、さっぱり身に覚えがないね」
ふと、阿文は気づいた。
阿文「もしや、吽行は『狛犬』だからじゃないか?」
吽野「はあ? それは阿行も同じ――……」
阿文「僕は『獅子』だ」
吽野「え?」
阿文「なんだ、知らなかったのか」
阿文はため息をつき、説明を始めた。
阿文「神社の阿行像、吽行像は合わせて『狛犬』と呼ばれているが、吽行のモチーフは『狛犬』と呼ばれる霊獣、阿行のモチーフは『獅子』という霊獣だ。 だから、僕は獅子で猫科。吽行は狛犬で犬科だ」
吽野「ああ、そういうこと? だから、猫と犬は仲良くなれないってわけ?」
阿文「いや。僕とノワールが仲良しなのも道理だと言いたいだけだ。な〜ノワール!」
阿文がノワールにすりすりと頬擦りすると、
それに応えて、ノワールもザリザリの舌で頬を舐め返していた。
ノワール「にゃ〜ん! ゴロゴロ……」
その様子を見ていた吽野は面白くなさそうに口を尖らせる。
吽野「あーあ。俺たち、……ずーっと神社で隣同士、仲良く並んで過ごしてきたのに、別の生き物だったとはね……」
阿文「そんなにしょぼくれなくとも」
吽野「しょぼくれてない!」
吽野の機嫌をとろうと、阿文は思い出したように話題を変えた。
阿文「……そういえば、主人様はお住まいに帰られたそうだな。我々はこれからどうする?」
吽野「主人様は、また現世に帰ることもあるだろうし、その日まで人間の姿で待機、かな?」
阿文「いつも通りか」
吽野「だね」
吽野はやれやれと息を吐いた。
吽野「それじゃあ、そろそろ人間の姿に戻ろう」
阿文「どうやって?」
吽野「……あれ、どうするんだっけ」
阿文「わからないのか?」
吽野「変化(へんげ)するのが久方ぶりすぎて、忘れちゃったよ」
阿文「では、霊力もみなぎっているし、このままでいいか」
吽野「そうだね。ちょっと体の周りが光っているけど、問題ない……って! ……んなわけあるか!」
阿文「冗談だ」
吽野「……お前、そんなキャラだった?」
阿文「ふふふ。ようやく調子が戻ってきたらしい」
その不敵な笑み、食えない雰囲気、まさに阿行のものだった。
吽野はそれを懐かしく思っていた。
吽野「は〜。なにはともあれ、今日は疲れた。日が昇るまで一眠りしよう」
その時、吽野の懐から、カサリと紙が落ちた。
阿文「吽行、袂から何か落ちたぞ」
吽野「んー? なんだこの紙……」
吽野は床に落ちた紙を拾い上げる。
見覚えのある紙だ。
吽野「あ……この字、満月か? まさか、また霊符を入れたのか?」
阿文「霊符? ただのメモみたいだぞ」
吽野は紙を裏返す。
吽野「……って! またレシートかよ! しかもチューハイ8本も買ってやがる」
阿文「大酒飲みなんだな。満月さんとやらは」
吽野「なになに……。『明後日夕方に、商店街の居酒屋で待っている。三人で、ゆっくり飲もう』だって」
阿文「おお、いいじゃないか」
吽野「飲むのはいいけどさ。こんなの受け取った覚えもないし、いつ入れたんだか……
阿文「口で言わないあたり、奥ゆかしい」
吽野「奥ゆかしいって、恋文じゃないんですけど。まあ、いいや。阿行はどうする?」
阿文「もちろん行こう。ちょうどお礼もしたいと思っていた」
この時、吽野と阿文は知らなかった。
この飲みの誘いがきっかけで、大事件に巻き込まれることになろうとは――……
[第五話 了]
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