地上波挌闘技復活を願った者 vol.48
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地上波挌闘技復活を願った者 vol.48

2017-11-30 05:51
    日馬富士が貴ノ岩に暴行したことで自ら相撲協会に届け出をして引退をしてしまいました。

    最悪の結末を迎えてしまいました。

    自分としては、警察に委ねてから判断を待つべきだと思いました。

    しかし、日馬富士は周辺からの重圧に耐え切れなくなってしまったのでしょう。

    誰も待ったをかけることは出来なかったようですね。

    相撲協会にガバナンスが無いことはこの時点だけでなく前々から分かりきっていたことなので今更感ですが、協会に身を置く人々がその座にいる資格はないでしょう。

    けれども、結局は保身です。

    ガバナンスやマネジメント能力がない、責任感がないといういい大人が周章狼狽し醜態を晒しているのだから力士に横綱の品格を問うと言う事自体が間違いです。

    抑々、横綱の品格をとは何でしょうか?

    横綱の品格というまるで長男の嫁の自覚みたいな漠然とした感覚を抱いているのではないのでしょうか?

    いろいろと書いているんでしょう。

    ただ、この品格が世間の気分を担保としているようにも感じられます。

    どうも、戦後に作られた英雄像が強いような気がします。

    質実剛健、聖人君子、英雄は全てに於いて優れ勝れる究極超人であらねばならないという雰囲気が付き纏ってしまっているようにも思えます。

    パーフェクトヒューマンなのでしょうか。

    野球ならば成績の良い投手や打者がそのまま野球監督になれるといったイメージを抱くようなものでしょう。

    今更ながら優れた打者や投手がそのまま良き監督になれるわけではないということは既に分かりきっていることです。
    多くの老人監督が永らく野球監督をしていたのもその戦後の英雄像を抱く人々が支えていた事によるのでしょう。

    人それぞれ役割分担があるということくらい分かっている訳です。

    ゆとり教育はそのことを気づかせるための方針でしたが、みんな船頭になりたいものだから結果的に失敗に終わってしまいました。

    船頭が偉いと言う意識を変えることができませんでした。

    それどころか、役割分担は更に細分化されローテーションを組まされ船頭のみが偉いという意識は更に強化が進んでしまいました。

    相撲の話とは関係ないように思えますが、役割分担とは公私の区別を意味します。

    しかし、力士はそれが許されません。

    公私においてこそ一緒くたにされています。

    尊敬されるようなイメージを持たされます。

    まるで歌のお兄さんお姉さんみたいですね。

    そういうことです。

    常日頃髷を結い、和服を着ることを義務付けられます。

    日本人にプライバシーの観念が育たない、公私の区別をつけないのもそういった事があるからなのでしょうかと思ってしまいます。

    ただでサービスを求めたりするのも公私が存在しなく地平までその人という観念があるからなのでしょうか。

    風俗でも矢鱈とコンパニオンにプライベートを聞きたがるのも公私の区別がついてない証拠なのでしょう。

    パブリックの仮面を剥ぎ取り、プライベートと向き合った時にその幻想が剥がれることなんてよくあります。

    当然ですね。

    パブリックであることを守るのは横綱の品格なのでしょう。

    この公私の概念に対して近代法治国家の概念を如何にして共通認識にしていくかというのが、今後の人々の暮らしを豊かにするものであることが注視されます。

    貴乃花親方が相撲協会に相談をすることなく警察に被害届を出したことは一種の実験というか挑戦ではなかったのかと思います。

    相撲協会が固執しようとしたのは恐らく公私を超えると目される世間の目のような極めて前近代的な『掟』だったのでしょう。

    貴乃花がそうではなく先ず公の人(組織)であると言う意識を持たすために法の裁きを期待していたのかもしれません。

    警察の前に相撲協会に相談をしてしまったらまた同じ繰り返しをすると察知したのでしょう。

    そうなると、横綱は神様でも何でもなくなってしまいますね。

    究極の相対化が行われてしまいます。
    横綱の権威そのものが根底から崩れ去ってしまうのではないかと虞を抱くのでしょう。

    順番を間違えてしまいましたね。

    結局相撲協会は横綱の品格に拘り過ぎて重圧に耐え切れなくなった日馬富士の引退届を受理してしまいました。

    受け取っても預かりという形にはならなかったのでしょうか。
    警察の判断を待ってから全てを決めれば良かったのです。

    書類送検でも示談でも、結果の後で沙汰をすればいいのですから。

    その前に引退届を受理してしまったことで近代法治主義を受け容れることを拒んだ形になってしまいました。

    八角理事長は「暴力はいけません」と相変わらず小学生を相手に諭すような言葉を言ってのけてしまいました。
    大関の豪栄道も「若い衆に暴力はいけない」と肝に銘じるようなことを言っていました。

    残念ながら相撲協会も各部屋の親方もそして力士達も「法治主義」が何たるかを全く理解していませんでした。

    「暴力はいけない」ではなく「法治主義に則る(警察に協力する、法の裁きを受ける、その場凌ぎではなく法律に即した運営をする、贔屓なく公民である)」と宣言する必要があったのですが、それが水を差す形になってしまいました。

    そもそも、相撲しか知らないような人達にこの国は法治で支配されている(と言うルール)を説いても通じるのかどうかです。

    単純に力の強い者がその報酬にありつけるのだから当然力の強い者が褒めそやされます。

    それだからこそ横綱の品格、力士の名に恥じないような態度が求められるのかもしれません。

    力士である以前に日本国民です。

    モンゴル人は例外という訳ではありません。

    髷を結う力士です。

    近代社会を経た現代人は法治主義を重んじるべきなのです。

    髷を結うから近代以前と捉えられてしまうかもしれませんが、彼らだけ時代から取り残された訳でもないでしょう。

    日本のしばき主義の方針はイギリス由来とも言われます。

    近代のイギリスの教育方針は鞭を振るって子供をしばきます。

    今でもイギリスの部活では悍ましい程のしばき主義が蔓延っているとも言われているようです。

    幕末明治期に欧州を見て廻った日本人達は教育方針をイギリスから学んだのでしょう。
    同時にしばき主義も導入されてそれが学校教育や軍隊にも採り入れられてしまったようです。
    しかし軍隊は虐待を禁じていましたが、鉄拳制裁は横行していたようです。

    それが戦後の学校教育にも入り込み、体罰や弱い者虐めが黙認されてしまい今に至っているようです。

    企業でも同じように導入されているようです。

    幾ら問題視されていても、それは仕方ないといまだに事の重要性が理解出来ない人がまだまだいるようです。

    最近では体罰はいけないものだと共有されて来たようですが。

    これもネットのお蔭ですね。

    逆に体罰やしばきを施す者が教えに導くことを放棄してしまっているように捉えられています。

    ある意味、ここからが本当の闘いでしょう。

    150年続く理不尽なしばき主義から訣別する時です。
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