小説は夕方五時に町に流れる「家路」から始まる。「帰ろう」と、少女の頃のリリカの歌声が聞こえてくる。だが、「この歌をうたっているのが誰なのか、知っている者はいない。知ろうとする者さえいない」とさりげなく書かれた言葉は、すでにリリカの物語を暗示している。
私は、次日本からノーベル文学賞が出るのなら、小川洋子氏がいいのでないかと思っているが、現時点で最も新しい長編は『サイレントシンガー』(2025年)
A::AMAZON本紹介:内気な人々が集まって暮らすその土地は、“アカシアの野辺”と名付けられていた。野辺の人々は沈黙を愛し、十本の指を駆使した指言葉でつつましく会話した。リリカもまた、言葉を話す前に指言葉を覚えた。たった一つの舌よりも、二つの目と十本の指の方がずっと多くのことを語れるのだ。
やがてリリカは歌うことを覚える。彼女の歌は、どこまでも素直で、これみよがしでなく、いつ始まったかもわからないくらいにもかかわらず、なぜか、鼓膜に深く染み込む生気をたたえていた。この不思議な歌声が、リリカの人生を動かし始める。歌声の力が、さまざまな人と引き合わせ、野辺の外へ連れ出し、そして恋にも巡り合わせる。果たして、リリカの歌はどこへと向かっていくのか?
名手の卓越した筆は、沈黙と歌声を互いに抱き留め合わせる。叙情あふるる静かな傑作。
B: 評
:B-1 読売新聞評・宮内悠介(作家)
内気な人が寄り集まったコミュニティ“アカシアの野辺”――そこに住まう人々は沈黙を愛し、指を用いた独自の言葉で会話しながら静かに暮らしている。主人公は野辺とともに育ち、やがて野辺で働くようになるリリカ。彼女は歌を愛するが、それは歌われるそばから忘れ去られていくような、野辺の人々でさえも気にもとめないものらしい。
リリカはときどき歌の仕事をする。彼女の歌は夕方に役場から流れる曲に使われたり、歌う人形の玩具に用いられたり、水族館のアシカの口パクにあわせられたりする。歌い手が誰か気にする者はいない。自己主張のない歌を歌うリリカは、何かの 依より代しろ のようでもある。まるでリリカが世界のなかを通りすぎるのでなく、世界がリリカのなかを通りすぎていくような。野辺で飼われる羊たちも、その後の喪失のすべても。
彼女に歌を教えたのは森に吹く風だとリリカは言う。歌の仕事で、自分の名がクレジットされないことも気にしない。いわく、「森の風は誰かに 称たた えてもらうために吹くわけではない」から。この本はつまり、そういう小説だ。
B-2■ 朝日新聞:(評・野矢茂樹)
■沈黙に歌が溶けてゆく詩的空間
小説は夕方五時に町に流れる「家路」から始まる。「帰ろう」と、少女の頃のリリカの歌声が聞こえてくる。だが、「この歌をうたっているのが誰なのか、知っている者はいない。知ろうとする者さえいない」とさりげなく書かれた言葉は、すでにリリカの物語を暗示している。
B-3静寂な時間に浸る喜び 『サイレントシンガー』小川洋子著
<書評>評・石井千湖(書評家)
小川洋子が6年ぶりに上梓した長編『サイレントシンガー』は、人の世の騒がしさから離れて、静寂な時間に浸ることができる小説だ。
主人公のリリカは、内気な人が集まって作った「アカシアの野辺」という共同体で育った。「アカシアの野辺」の会員は、金網と鉄の扉によって閉ざされた森の中で、自給自足の生活を営んでいる。そして、ほとんど声を出してしゃべらず、独自に編み出した指言葉で話す。生後まもなく母を亡くしたリリカの唯一の家族であるおばあさんは、「アカシアの野辺」と外界をつなぐ雑用係として働いていた。やがて歌手になるリリカの生涯と、移りゆく「アカシアの野辺」の風景を描く。
作中でとりわけ印象深く重要なモチーフが、毎日夕方5時になると町役場から流れる「家路」だ。「家路」はドボルザークの交響曲「新世界より」の一部をもとにした歌で、学校の下校時間を知らせる曲として耳にしたことがある人も多いだろう。リリカが9歳のとき、行方不明になったまま帰らなかった男の子のために、おばあさんが人形を作る。リリカはその人形に向かって、迷子の男の子に帰り道を教えてやってほしいという願いをこめて「家路」を歌う。それは「もし森という名の楽器があるなら、こういう音を奏でるに違いない」と思わせる歌声だったという。
高校卒業後、おばあさんから「アカシアの野辺」の雑用係を引き継いだリリカは、ときどき歌の仕事も請け負う。歌手といっても名前は出ない。玩具の人形や水族館のアシカの代わりに歌う。他者の声の容れ物になるのだ。歌手としてのリリカのあり方は、作家としての小川洋子のあり方と重なる。読んでいるあいだ、作者が背後にいることを感じさせない。読んでいる自分が何者であるかも、意識しなくていい。美しい沈黙の世界で、リリカといっしょにさまざまなものと出合う。悲しい出来事も起こるけれど、物語のなかでしか体験できない喜びと自由がそこにある。
B-4: 日経新聞:小川洋子「沈黙や不完全を愛せたら」 SNS社会に示唆、6年ぶり長編
小川洋子が6年ぶりの長編「サイレントシンガー」(文芸春秋)を刊行した。沈黙に親しむ人々を描いた小説は、黙ることを忘れたSNS社会への示唆にも富んでいる。
小川は自分の小説を「声を発せないまま化石になっている人たち」について記したものだという。「まず耳をそばだてる、あるいは目をこらす。口を閉じ、耳や目の感覚を研ぎ澄ませていくと、何かが聞こえてきたり、思いもよらない人物が潜んでいたりして、
C:小説丸:著者へのインタビュー
言葉を封印すると見えてくるもの
小川洋子さんの6年ぶりの長編『サイレントシンガー』は、沈黙を愛する人々の傍らで、不思議な歌声を獲得した一人の女性の物語。ひとつひとつのエピソード、登場する品々、さりげない言葉どれもに心をくすぐられる、静かで深い物語世界が広がっている。この小川さんならではの世界観は、どのように作られていったのか。
取材・文=瀧井朝世
言葉から距離を置きたい人々を書いてきた
これまでも小川洋子さんは、決して表舞台に立つことなくひっそりと生きる人々の姿を掬い上げてきた。
「私はずっと、人間が作りだした言葉というものから、ちょっと距離を置きたい人を書いていますね。『博士の愛した数式』なら数字ではいくらでも表現できるけれど言葉を使っての社会参加はできない人、『猫を抱いて象と泳ぐ』ならチェスを指している間は無言でいられる人、『ことり』は小鳥としか喋れない人……。言葉を受け止めきれずに不自由さを感じている人を書き続けてきた結果、無言という究極の状態にたどり着いたという感じです」
という新作『サイレントシンガー』は、沈黙を愛する人々に寄り添った、不思議な歌声を持つ一人の女性、リリカの物語である。
「出発点はシンガーです。前から売れっ子歌手というより、そういう人の陰に隠れている人に興味がありました。たとえば誰かのコンサートに行っても、私はバックコーラスの人が気になってしまって。ああいう人は、いつか自分がセンターに行きたいと思っているのか、あるいはコーラスとしての技術を極めたいと思っているのか。気になっているうちに、仮歌歌手という人がいるのを知ったんです」
小川洋子さん
仮歌とは、有名歌手等がレコーディングする際に、どんなふうに歌ったらいいかディレクターたちのイメージをより鮮明に伝えるための見本ともいえる歌のことである。
「仮歌専門の方に取材をしたのですが、その方はデビューしたい気持ちはまったくなくて、仮歌の世界が心地いいとおっしゃっていました。それで、表現者であっても自分の個性や主張は押し出さない、むしろ自分を出したくないという人は実はたくさんいるんじゃないか、と。それに、今は自分の表現を一瞬にして世界中に発信できる道具をみんなが持っている世の中ですが、私は主張したくないんだ、という人もいるはずだという確信があります。そこで、言葉を持っていない、進化する前の人間に戻りたいというような、究極の無言を貫きたい人の居場所として、〝アカシアの野辺〟というものが浮かびました」
沈黙を愛する人々が集まる野辺
本作の主な舞台となる〝アカシアの野辺〟のはじまりは、〝内気な人の会〟と称するほんの数人のグループが敷地を金網で囲い、小川のほとりを開墾して畑を耕し、動物を飼い、沈黙を愛し、指言葉を使って暮らしはじめたもの。仲間は少しずつ増えていき、やがて彼らが住む場所は〝アカシアの野辺〟と名付けられたのである。
「〝内気な人の会〟って実際にあるんですよ。ずいぶん前ですけれど、私の小説に何か親しみを感じたのか、その会の方からお手紙をもらったことがあるんです。だから想像力だけで書いたわけではないんです。それと、修道院などでは実際に指言葉が使われているんですよね。北海道のトラピスト修道院の写真集を見ると、無言が写っている。なので、アカシアの野辺は宗教的なものとは無関係ですけれど、こういうコミュニティはわりとどこかにあるんじゃないかと私は思っているんです」
SNSなどで世界中の人と繫がることができ、それゆえ疲弊することもある昨今だからこそ、沈黙して暮らすことにはある種、憧れを抱いてしまう。
「私は一人で本を読んでいるだけで充分満足なので、そこまで誰かと繫がる必要があるのかという気がするんですよね。あるいは、たった一人、信頼できて、分かってくれて、正論で反論しない友達が一人いてくれれば、それでいい、という気がします」
ああ、だから野辺の会員たちは、森に〝自分のための木〟を持っているのか、と腑に落ちる。どうしても無言で魂を慰められない心持ちになった時、彼らはこっそりとその木の下にたち、言葉で喋りかけるという。
「私の知っている人で、ストレスが溜まった時に街路樹に抱き着くっていう人がいるんです(笑)。これも、空想だけではなくて実際にいる人のことなんです」
心くすぐるエピソードの数々は、どこから着想を得るのか
アカシアの野辺の敷地に隣接する家で、彼らの雑用係として働く祖母にリリカは育てられた。野辺の人々の子守歌を聴いて育った彼女は、彼らが羊毛を刈る際の『羊のための毛刈り歌』や、毎日夕方5時に役場から流れる『家路』を自分でも歌うようになった。
「ものを喋らない集団の人たちも、赤ん坊の泣き声と歌だけは静寂を乱さないと認めている、ということですね。同じ単語でも、喋り言葉の時とメロディーやリズムにのせて歌う時とでは、伝わり方が違いますよね。歌のほうが感情に訴えてくるというか、肉体に沁み込んで理論を超越するところがある。会話などで言葉の意味を理解するのは脳の理論的な働きによるものですが、歌声を聴くのは肉体的な体験になるように思います」
小川洋子さん
ある時役場の青年が、いつも流している『家路』を、リリカの歌声に差し替えたいと、録音の依頼にやってくる。その後、リリカにはさまざな歌の仕事が舞い込んでくる。玩具メーカーの商品〝ポピーちゃん人形〟の歌、水族館のアシカショーで披露される、アシカのジョーの歌声(ジョーが歌にあわせて口をパクパクさせる)等々、そして仮歌。どれも、歌い主が表に出ることのない仕事である。リリカは町に出掛けてはそうした仕事をこなし、野辺に帰る日々を送るようになる。
自分が何者かを主張しない歌を歌う女の子が成長していく、ということは最初に決めていました。リリカは野辺に引きこもっている人々の居場所と町の現実的な世界との通り道となり、歌うことによって野辺の人たちに新鮮な空気を届け、同時に野辺にこもった陰鬱なものをかきだす役目を果たしているんでしょうね」
リリカは祖母の後を継いで、野辺の人々が作った野菜やお菓子や毛糸類の販売所の店番もしている。ある時から彼女は、店の常連である、有料道路の料金所で働く青年と親しくなっていく。彼の趣味は文学者たちの未発表作品発見の記事を作り、スクラップブックに貼り付けていくこと。
「ある意味、書き言葉の海に没入している青年です。極端なところまでいっているという意味では、野辺の人たちと似たもの同士なんです」
この偽の記事の内容がなんとも楽しい。カフカの未発表作品が意外なところから掘り返されたり、エミリ・ディキンスンの詩片が意外なところに隠されていたり……。
「あれは全部自分のオリジナルで、考えている時がいちばん楽しかったです(笑)」
そんな噓記事以外にも、小川さんらしい、心くすぐるエピソードや品々が作品を彩る。野辺の人々が首から下げている気象管ガラス、迷子になった男の子のために祖母が作った人形の友だち、そんな人形たちが並べられた人形公園、角が絡まった2頭の羊の顚末、ゼニガメの放ほう生じょう会え……。個人的には、アカシアの野辺での〝さようなら〟の指言葉に心つかまれた。閉じた両方の瞼を左手の親指と人差し指で押さえるのが〝さようなら〟の指言葉。目を閉じなければ、野辺の人とはさようならはできない、というものだ。
「この指言葉は実際にあって、でも本当は違う意味なんです。書きながら実際に自分で指言葉をやってみた時に、これがさようならの意味だとすると去っていく相手の姿が見えないなと思って」
小川洋子さん
たびたび繰り返される「完全」と「不完全」という表現も心に残る。祖母いわく「人間は、完全を求めちゃいけない生きものなのさ」「野辺の人たちは、完全なる不完全を目指している」。たとえば野辺の販売所で売っているお菓子には、ひとつだけ違う形、つまり小さな不完全がしのばされている。
「ピノっていうアイスクリームは、ひとつだけ違う形のものが入っていたりするらしいですね。一個だけのはぐれものは、人間の集団の中では〝あの人変わっている〟といっていじめられたり排除されたりするけれど、見方を変えれば、ラッキーなものになる。そのイメージでした。野辺の人たちは社会に出たら不完全な人々かもしれないけれど、人間があるべきひとつの理想的で完全な姿を体現しようとしている人たちじゃないかな、というイメージもありました」
まさかのピノきっかけ。ピノしかり〝内気な人の会〟しかり指言葉しかり、小川さんは実在するものから着想を得ることも多い。以前うかがったもので忘れがたいのは、『猫を抱いて象と泳ぐ』の主人公、リトル・アリョーヒンの唇に産毛が生えている、という設定のきっかけ。
「ああ、あれは政治家の方が皮膚を喉に移植したらそこに毛が生えた、という実際の記事がヒントになったんですよね。不思議なことって、もうすでに世の中にあるんですよ。でもそうした不思議に気づかずに通り過ぎる人は多い。不思議だなとか、全然役にも立たないけれど面白いなとか、知りたいなと思えることって、やっぱり無言でいないとキャッチできないんです。美術館なんかでみんな無言でいるのは、そうでないとキャッチできないものがあるからでしょうね。お芝居を観る時だってみんなその間はずっと黙っている。なにか本質的な感受性を揺さぶられようとしたら、自分の言葉を封印しないと何も入ってこない。今、劇場へ行くと、1000人2000人の人がスマホを切って、3時間も黙ってじっとひとつの舞台を観ていますよね。舞台が人気なのは、現代人にとって異質な体験だからかもしれませんね」
ミュージカルにはまったから生まれた作品
小川洋子さん
数学、チェス、ハダカデバネズミ(エッセイ『とにかく散歩いたしましょう』で詳しく書いている)ほかもろもろ、そして今回の帝国劇場……。小川さんは好きなものをとことん追求するタイプでもある。
きっと、どんな作家も、書く対象に愛を注がないと書けないですよ。作家には推し活できる素養がないと(笑)。ただ、推し活がきっかけでも、自分の中の回路を通って作品として出てきた時には、最初の推しが何だったか見当がつかないくらい遠く旅立っていないといけない、とは思います」
自作の、ひっそりと人生を送っている主人公たちについても、
「私はそういう人を推したくなるんでしょうね。この人は放っておいたらどこか世界の淵から暗闇に去っていきそうだから、私がちょっと待ちなさいと言って引き上げて、背中をさすってあげて、御迷惑じゃなければ残したいことを私が書記として文章に書いておきます、という感じですね。あるいは、何も喋らないまま去った人も化石になって残っているので、その化石の中に凝縮されている、その人の生きた世界を自分が発掘して読み解く、みたいな感じでもあります。そういう感触で書ける時のほうがうまくいきます」
では次作の「劇場という名の星座」のように、取材して書くという執筆作業の時はどのような感覚なのだろう。
「帝国劇場というのがまた魅力的な場所で、私の好みの人がたくさんいるんです。私がお金を払って観ているのは、完成された上澄みであって、その下に本当にサイレントな人々が黙々と働いている。『劇場という名の星座』というタイトルは、暗闇の中に輝いている星はいっぱいあって、それをひとつに結んだ形が劇場という星座だ、というイメージです。世界は広くて、自分が知らないところでもちゃんとそこで一心に働いている人がいる。そういう人によって世界が支えられていると思うと、とても安心します」
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