「ラブライバーを叩くアンチを見て思ったこと」について語る回
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「ラブライバーを叩くアンチを見て思ったこと」について語る回

2015-09-11 13:39
  • 13

今回の記事は、前回の続編みたいなものです。。。

前回と同じような始まりで恐縮ながら・・・最近、このような記事を目にした。

「もはやカルト集団!?」 高校生ラブライバー威力業務妨害逮捕の余波

「ラブライバー」ネタで釣られたものの、
このゴシップ記事にはプロパガンダ臭を察知して、大衆社会論のネタとして興味を抱いた。そういうわけで、こっちも次のようなツッコミ記事を書いて投稿してやったですwww

とある 「高校生ラブライバー威力業務妨害逮捕云々…」のニュース記事について考える回

記事を投稿したところ、賛否両論のコメントが寄せられた。当然アンチにも叩かれた。
有名人でもない、影響力を持っているわけでもないのにアンチに叩かれるとは。。。(自業自得w)
       「平気や、うちドMやから❤」(板東まりも CV:花澤香菜)

記事を投稿した翌日に、茂木健一郎さんがTwitterで、次のようなツイートをされていた。アンチの存在を肯定する立場で書かれていた。小憎たらしいアンチどもが何だか可愛らしく思えてきた。憎さ余って可愛さ1.00倍くらいな(変わってないがなw)

茂木健一郎氏 @kenichiromogi 第1601回【嫌いなひとがいる時は】連続ツイート

ものを書く立場としては、たしかに無関心に扱われるほど悲しいものはない。肯定的な意見でも否定的な意見でも、とりあえずは読んで感想を聞かせてほしい。これは多くの物書きに共通する想いであろう。

なので、アンチから叩かれては、いわば「板東まりも状態」のようになるのも、倒錯した恍惚を覚えそうで、これはこれでなかなか乙なものなのかも知れない。また、アンチに対しては、彼らも人の子だし、茂木さんのツイートを参考にすれば、アンチの行動に及んでしまう心理には大変に人間臭いところも感じ取れるので、批判はするが否定するつもりはない。

とはいえ、もし彼らが「私は神の子だ」と言ったなら、水をぶどう酒に変えるなどの奇跡を見せてくれないことには、それを認めるわけにはいかないし、「私は神だ」と言うようなものなら、「神は死んだ」とニヒリズムの到来を宣言するであろう(意味不明)

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前回の続きになるが、ラブライバーとアンチに関する話題に移ろう。

前回は、あのゴシップ記事の批判を通じて、ラブライバーのことを中心に語ったように思う。今回はアンチの方を中心に語ろうと思う。

先述のとおり、前回の記事ではアンチなコメントもいろいろと頂戴した。
それらを一つ一つ拝見させてもらった。

そこで一つ疑問に思ったことがある。

アンチは、あくまでも普通のラブライバーと害悪ライバーを一括りにしてレッテルを貼って叩きたがる。両者の区別を、潔癖症的な繊細さを以って頑なに拒否し、コンテンツ内の自浄作用にこだわり続ける。


しかもそのことについて、「それが世間の見方だから」「当たり前のことだから」と、何やら主体性の感じられない意見が返ってくる。それも、まるで申し合わせたかのように異口同音に同じような理由が返ってくる。なぜか?

何とも覚束ない、心許ない、そのような「世間」の価値観を無批判的に鵜呑みにしてしまうことは、それはつまり、ニーチェ的な表現を用いれば、彼らは「奴隷道徳に飼い慣らされた畜群」であることを暗黙のうちに自認しているわけであり、「世間」によって支配され抑圧された「奴隷の精神」から生じるルサンチマンが、彼らをアンチへと駆り立ててしまうのだろうか?

アンチはよく攻撃対象を「豚」に見立てるが、しかし彼らも所詮は「畜群」に過ぎず、また、彼らの物言いから察するに、彼らの多くはナルシストの傾向があり、しかも神経症的な方のそれである。「豚な自分」に耐えかねて、その結果、人と豚との見分けがつかなくなった、そういうことなのであろうか?

さらに言えば、どうしてこのような、現代的な「個人主義的・合理的な態度」とは相容れない、前近代的な「集団主義的・反合理的な態度」をわざわざ取ろうとするのか? 彼らはヒネリの足りないバカなのか? 

社会学や大衆社会論の観点からすれば、これはなかなか興味深い事象である。

『啓蒙の弁証法』(M.ホルクハイマー、T.W.アドルノ共著 徳永 恂訳)という本があって、その冒頭にある一節を思い出した(それ以外の内容は全て忘れてしまったが)。

じつのところ、われわれが胸に抱いていたのは、ほかでもない。何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか、という認識であった。

しかし、よくよく考えてみたところ、
彼らの前近代的な「集団主義的・反合理的な態度」は、それは単なる彼らの愚かさだけに由来するものではなかったのだった。

アンチが害悪ライバーだけを攻撃の対象にしてしまうと、結果的には普通のラブライバーに協力してしまうことになる。「アンチ」が積極的に「コンテンツ警備員のボランティア」を請け負うことになってしまうのだ。それでは結果的にアンチの立場がない。

ンチたちの、あの言説における反合理性は、つまりは、アンチの立場を担保するための合理性だったわけである。要は、彼らの保身のためだったのである。

アンチにはそのことが分かっているのだろう。それが分かっているがゆえに、アンチの行為は「悪意のある行為」となってしまう。そのことを知っていながら行為に及ぶのは確信犯である。
それが分からなくても過失犯である。

私が「アンチが正論を説き始めると、彼らはたちまち偽善者になってしまう」と指摘したのは、(自分もこの記事を書いていて気が付いたのだが)つまり、そういうことなのだろう。

アンチが、いわば脊髄反射的に野次を飛ばす、disる、それだけならまだ可愛い方かも知れない。が、彼らがいざ正論を説き始めると、たちまちにして、それは得てしてインチキ臭いものになってしまうのである。あまりにも滑稽すぎるために、すでに面白さを通り越して、かえってウンザリしてしまうのである。。。

もし彼らが潔癖症的な態度を以って「最終的解決」などと口にすれば、それはもはや「自由と平和に対する脅威」である。20世紀のヨーロッパ史を少しでも学んだ方ならば、このことは容易に察しが付くだろう。

なかなか思い通りにいかない人生から生じるルサンチマンのはけ口に、気に入らないものをこき下ろしては自己満足に浸ることしか能のない、そのようなアンチには、このような彼らの無能には、彼らの素顔には・・・なるほど、つましい生活を敢えて甘受し、われながら不満な努力、不安な努力を重ねる日々において、自らの才能の無さについて日々悩んではクヨクヨとしまうような立場としては、同情を禁じ得ないところがある。

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話は変わるが、アンチがレッテル貼りに躍起になるのは、実は中身はレッテルを貼る対象とそんなに変わりがないので、その差異を示すための「オレはこいつらとは違うぜ」アピールなのかも知れない。

もしかしたら、アンチの正体は実は、害悪ライバー自身だということも有り得る。可能性としては否定はできない。そこまで来ると、放屁した本人自身が周囲に対して「今、屁こいた奴狩り」を実施するような感じになって、そうなると、害悪ライバーだけではなくラブライバー一般を叩きたくなる理由も納得できる。害悪ライバー最低だなwww

レッテル貼りの件に関連して、もう一つ、アンチとの議論が成立しない理由に「用語の定義の食い違い」というのがある。これは、一般の議論においても、よくあることだろう。用語の定義が十分に共有されていなかったために、意見の食い違いが生じて議論が紛糾してしまうという話である。

アンチには「ラブライバー=害悪ライバー」と定義している者が多く存在する。
理由は、この記事で先に分析した通りなのであろうが、しかしこれにも問題がある。

というのも、ニューヨークやロンドンで犯罪が起きれば、ニューヨーカーやロンドナーすなわちニューヨーク市民やロンドン市民は、一般市民も犯罪者と一括りにされて犯罪者認定されてしまう。そのようなロジックが成立してしまう定義の仕方なのである。

前回の記事でも指摘したことなのだが、大切なことなので繰り返し言っておこう。
このような定義はの仕方は、差別や偏見の温床になり得る。これは、国際政治における深刻な話にまで適用可能な、無差別空爆や無差別テロを正当化してしまう、
不幸な人々を大量に発生させてしまう、悪魔のロジックである。

それゆえに、「ラブライバー」と「害悪ライバー」とは区別するべきだと、何度も主張しているわけである。

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そろそろ結論に入ろう。

今回はアンチを叩いた。アンチは、相手を叩く分、どう転んでも叩かれ役でもある。
そのことが理解できないアンチは害悪ライバーと五十歩百歩だ。

前回の記事では、「自由には責任が伴うことを自覚すべし」の言葉で締めくくったが、今回は
相手を叩く分、どう転んでも叩かれ役でもある」ということにしておこう。

このことは
冒頭に挙げたゴシップ記事が甘受すべき立場と同じで、アンチはアンチで、くれぐれも「アンチの分を弁える」ことを忘れないでほしいと思う。

            「自由」の修行は厳しい

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      「日常系」と「世間」を相対化したような歌!? 

         真実に出会い、真理に目覚めよ!


             きんたまかゆい❤


      


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>>3
アニメ「てーきゅう」は、輝くセンスを感じさせるものがあって好きなんですよ(笑)

僕は、「世間」は「心許ない」もの、「世間」の価値観に縛られなければ幸せな人はもっと増えるはず、という見方をする人間で、そういう立場からすると、中道さんの言われる「確かに誤ってはいるけど世間一般的には多い思考・認識様式を持つ人々」は、火薬やガソリンのような危なっかしさがあるかなと思います。

『憎しみ・愉快犯的な行動原理』に基づく人たち・・・こういう人たちが信管となって「火薬」や「ガソリン」を爆発させる。歴史における暗黒な時代では、常にこういったことが繰り返されてきた。そう思うんです。

ラブライバーを叩く行為自体には、特に感じるものはありません。アンチは貴重な宣伝材料にもなります。
ただ、叩く側の正義にかこつけた態度が「コイツらヤバい」みたいな感じです。

65ヶ月前
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生来より筆不精にして、遅参の段、御免なれ(呼んでない!?)
随分とご無沙汰しておりました(◇)。
(いささか時期を逃しましたが)大変な事件が起きましたね…まず記事を読んで、所々に哲学・アニメの名台詞を織り込むスタイルに、何処か安堵致しました。
”世間の価値観”ないしは”奴隷道徳”、それらに盲従する者たち。事が起きて世人が声を上げる中、サンデル教授ではありませんが、”正しさ”というものが問い直されるべきですね(「これからの正義の話をしようッッッ」)。

(言葉少なにまとめ切れる自信がないのでレスポンスを願っちゃいます。)やや剣呑であり、申すことは個人的な、経験からくる推測なのですが、多くの人は「多数派=正しい」と考え無しに、場合によっては反射的にそう思っているのではないでしょうか、或いはこれも常識なのか。 日常のシーンに於いてはそれでも良いでしょうが、それは厳密には正しくなくとも、日々の営みにおいては妥協やむなしといった具合です(※哲学者は、日常の些細な粗や齟齬について、徹底的に糺して回るような存在ではありません)。 
なぜ、”多数がそう思う事”と”正しさ”が結びつくのでしょうか。 それとも「この偉大なる私はこう考えた、周りの者もほぼ同様である(少なくとも多くは同様である)、やはり私は正しいッ」とでもなるのでしょうか? 無謬にして全能たるや群衆(全能感は未熟な精神の証左であったはずです)。断りですが、私は誰も攻撃していません、誓って。(そのようなことを何故望むのか) 

また(これも言及頂きたく敢えて出すのですが)「真善美」というものもあります。人間が理想とする普遍妥当な価値、ですが 真>善>美の順に右にゆくほど共感の得づらいもの、というのがミソかと。(定理・歴史的事実>賞賛や栄誉、道徳的善、為すべき所>個々人の審美眼、美しさの根源)。 対にすると(+)真善美⇔偽悪醜(ー)。
ここでラブライブというコンテンツに対して+とする者を”ラブライバー”、ーとするものを”アンチ”と仮定する分析、などはどうでしょう?ラブライバー個々人が、彼はそれを真としたのか・善と感じたか・美を認めたか(或いは複数か)。またアンチはそれを偽としたのか・悪と断じたか・醜いと退けたのか。これの検証はおよそ不可能ですが、個人の営みでの諸相の分析としては、有意義かと思うのです。
65ヶ月前
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>>5
どうも、お久しぶりです^^

「正しさ」の問題は、目下、安保関連法案とかでタイムリーな問題かも知れませんね。
たぶん、アメリカの圧力で可決してしまう勢いなんでしょうが、個人の信条である「ラブ&ピース道」からして、僕自身は反対です。持論としては、日本の自衛隊は、国際貢献は「サンダーバード」に徹するべきだと思います。

この記事は、プロパガンダとかスパイとか情報戦とか、僕は元来そういうネタが好きで、前回や今回の記事も、そのへんの興味から書いただけものなのですが、油断はイカンナッさんからコメントをもらって、そう言えば政治臭キツいな、と気付きました(^^;

「愛と自由と平和」を標榜する立場としては、「虎の威を借る狐」みたいな奴とは、「権威主義的パーソナリティ」とは、闘うように運命づけられているみたいです。この記事も、ほとんど自動的に言葉が出てきて書いてしまった、みたいな感じです。たぶん僕の前世は、個人的な趣味の世界などを鑑みれば、ナチスに抵抗したフランスのレジスタンスだったんでしょう(笑)

「なぜ、”多数がそう思う事”と”正しさ”が結びつくのでしょうか。」・・・これはたぶん、上に述べた「虎の威を借る狐」の「権威主義的パーソナリティ」で説明できるのではないかと思います。一方、「正しい多数派」を端的に示した単語は「サイレントマジョリティ」なのだと思います。

「真善美」の問題については、「好き・嫌い」が「正しい・間違い」にすり替えられていることが問題なのではないかと思います。美醜は「好き嫌い」の問題で、善悪は「正しい・間違い」の問題で、油断はイカンナッさんが言われるように「美醜」「好き嫌い」の問題は共感がより得にくい、「善悪」「正しい・間違い」の問題の方がより共感を得やすいと思います。しかし考えてみれば、前者は趣味の世界なので、自由を遊ばせる余地がある。後者は画一的になりやすい、ステレオタイプに支配されやすい、このようにも思います。

僕が「野次を飛ばす、disるだけのアンチ」はあまり問題にしないで、「正論を説くアンチ」を「偽善者」と断罪するのは、「好き・嫌い」の問題を、より共感を得ようとするために「正しい・間違い」の問題にすり替えるからです。

前回、今回の記事については、おそらく「ラブライバー」は方便だったのかも知れません。第二次世界大戦中に、戦争のためにやむなく芸術の仕事を断念せざるを得なくなったフランスのレジスタンスが降臨してきて、僕に書かせたんでしょう(謎弁解)

65ヶ月前
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>>5
繰り返しの返信ですみません(^^;
「真善美と共感の関係」の問題は、大変参考になりました。
ありがとうございます^^
65ヶ月前
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はじめまして。

2週間前の記事に今更何をという感じな上、
私はラブライバーでもなければ哲学もかじった程度であり、
頓珍漢なことを書いてしまうかもしれませんが、読んでいただければ幸いです。


ブログ主さまは記事の中で、「「ラブライバー」と「害悪ライバー」とは区別するべき」と主張されていますが、私は逆なのではないかと考えます。

というのも記事にも少し書かれていますが、アンチもまたブログ主と同じ思考をたどり「区別」を行った結果が今の状態である可能性が高いからです。

ブログ主の主張: 害悪ライバー(悪・自分たち意外) / 普通のラブライバー(善・自分たち)
アンチの主張:  全ラブライバー(悪・自分たち意外) / 「普通の日本人」(善・自分たち)

(「普通の日本人」と括弧でくくったのは、それが彼らの想定する「ぼくのかんがえたさいきょうの普通の日本人」を意味するからです。そういう意味では、各項目全てを括弧でくくったほうが良かったかもしれません。)

見ての通り主張の相違点は線の位置だけであり、ブログ主様の主張にのっとって区別を行なったとしても、新たな枠組みの間で争いが起こるだけだという気がしています。



まぁ、ブログ主様はラブライバーとのことなので、ラブライバーの名誉を回復するためにはどうすればいいのかというのが本記事を書かれた主な動機の一つなのかもしれませんが、私はそれに対する回答を持ち合わせておりません(ヒデェ)

私がこの手の争いを見て思うことは一つ。
誰だよ!最初に二元論的思考法とか普遍的真理とか絶対的正義とか言い始めた奴は!?
モーセ!?それともプラトン!?
数千年たっても争いがなくならない原因の何割かはお前らにあるぞ、どうしてくれる!?
つーか、意外と万能じゃないぞこの考え方!

西洋文明がこれだけ発展した原因でもありますし、良い所もいっぱいあるのを私も知ってもいるのですが、どうにも好きになれないんですよね・・・

とりとめも無く長々と書いてしまい、すみませんでした。
64ヶ月前
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>>8
「絶対的正義」に対する懐疑については、僕もコッポラさんの意見に賛同します。僕としましては、こっちはこっちで頓珍漢な発言かも知れませんが、「生きること」自体が(死に対する)闘争や抵抗の要素を先天的に含んでますし、それが生きとし生きるものにとって避けられぬ運命ならば、せめて「憎しみの闘争」はノー・サンキューですが、「愛の闘争」はウェルカム・カモーンみたいな感じです。
64ヶ月前
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>>9
返信までいただけるとは嬉しい限りです。

愛の闘争・・・なかなか難しいですね。
今回の件で言えば、何を目的として誰と戦うのが「愛の闘争」となるのでしょうか・・・?

ちなみに生きること=闘争となるのは、因果の基点や損得の基準を、無意識のうちに、個体(個人)に限定してしまっているからかもしれません。これも聞きかじりの話ですが、昔の仏教の偉い人は「自分と他人、あるいは自分と世界の間の区別なんてあっても無くても同じことだ」といった内容のことを言っていたようです。いろんなことを考える人がいるものですね。この境地には、相当人間が出来ていないと達せなさそうです。

まぁ私も別に、闘争が絶対にダメと思っているわけではありません。極論すれば、愉しむことと相手へのリスペクトさえ忘れなければ、どんなインタラクションでもほぼOKって感じですかね!
64ヶ月前
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>>10
ご丁寧に、ありがとうございます^^

この記事は、アンチのことを批判はしていますが、彼らを否定するつもりは別にありません。
「君たちのやってることは、こういうことなのよ。わかる?」
みたいな感じで、彼らの行為を鏡に写してやったくらいのつもりです。
まあ、僕なりの彼らに対する「愛」のつもりです(笑)
また一方では、アンチの悪意のある行為にムカついてる人たちのためにこの記事を書いた、そういう見方も可能でしょう。

もっとも、この記事は「アンチとラブライバー」のネタではありますが、「アンチはファシズムの支持母体となりうるようなパーソナリティーなのかなー?」と、「これは自由に対する脅威だー!」と、純粋な興味は、社会心理学や大衆社会論に基づくものです。僕が勝手に闘っている相手は、たいていは「自由に対する脅威となりそうなもの」のつもりです。
記事を書いたのは、それに対するデモンストレーションです。

仏教は、浄土真宗とかは「生きた生身の人間が悟りなんか開けるか!南無阿弥陀仏。」ということで、煩悩には寛容みたいです。
浄土真宗の聖典の一つである『歎異抄』には「悪人正機説」というのがあって、人間の弱さや愚かさについて深い理解があると思います。アンチになるような人たちも、仏の導きで救済されるべき人たちなのでしょう。南無阿弥陀仏。

この記事は、アンチのことをこき下ろしては何やら偉そうなことをぐだぐだと抜かしてはいますが、煩悩のことで言えば、いわば「煩悩に対して煩悩で返してやった」くらいなもんでしょう。書いた本人である僕もそう思います。

昔の仏教の偉い人が言われていた話のことで思ったのは、「いのち」のレベルでは、個々の存在は「大きないのちの中の小さないのち」で「全ては一つ」に成り得るのでしょうが、「自我」のレベルでは、「他者や外界との根源的な断絶」がある。そこに人間のどうにもならない悲しみがある。それを慈悲の心で見つめるのが仏教かなー、と僕の拙い考えではそんな感じです。

僕も仏教談義は誰かとしたいと思っていたので、良い機会となりました。ありがとうございます^^
64ヶ月前
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>>11
本当にあなたの考えには納得します。
自分がラブライブのストラップつけてるだけで周りにキモいと思われてしまいます。
ものすごい数つけてたら引かれるかもしれませんが自分は二個だけです。
本当にアンチのナルシスト的な考えには呆れかえります。
自分と同じようなことを思っている人がいて本当に嬉しいです。自分もアンチ死ねとは思いませんが彼らがやっていることがどんなことなのか彼ら自身に知ってもらいたいです。
54ヶ月前
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>>12
ここでもコメントをいただきまして、ありがとうございます。
賛同のコメントをしてくれる方がいると、こちらとしても心強いです(*´ω`*)

おそらくアンチのナルシシズムは、彼らのコンプレックスの裏返しなのだろうと思います。
社会心理学における差別や偏見の研究では、だいたいそんな見解で一致しているはずです。

話は変わりますが、アニメ「ラブライブ!」の物語には「自分が自分自身になる」といった主題を見て取ったわけですが、
それを成就した結果が「今が最高!」という一言に凝縮されて、それがイデアとなって飛び火して今度は「輝きたい!」というメッセージに継承されたりして、そんへんは個人的に「ラブライブ!」に惹かれた大きな理由の一つとして説明できそうです。しかし思うに、アンチの態度というのは、それとは真逆の方向に行ってますよね(^^;

なりたい自分になるためには、まずは自分の意識を変革することが大事だと思うわけですが、「ラブライブ!」ではそれが健全な形で模索されているので好感が持てるわけですが、アンチな人たちがやっている周囲の価値を貶めては「オレが最高!」みたいなのは、やってる本人も虚しい結果に終わるのがオチなので、彼らのような人間が救済されるためには、是非ともラブライバーになってほしいものです(^o^)
54ヶ月前
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