城巡り35~今治城
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城巡り35~今治城

2016-08-16 10:58
    四国~関西~東海城巡りシリーズの第2弾は愛媛県の今治城です。

    今治城



    慶長7年(1602年)にかの城作りの名人と謳われる藤堂高虎によって築かれた水城です。
    今でこそ埋立てにより本丸の内堀を残すのみの平城と化していますが、
    往時は外堀、中堀を貼り廻らした上に海水を堀に入れて
    海から堀へ直接船で入る事ができる高虎得意の「川/海」を防御に利用する
    という彼ならでは築城方法による特異な城でした。

    往年の今治城の全容


    彼は四国の他の城(宇和島城大洲城)でも

    ・城の構造自体は山城を基本とする

    ・堀も作るが堀の代わりに川や海を利用する

    という共通点があります。
    しかし、今治城は上述の様に海水を堀に使っているものの、山城ではありません。
    その為、この城では高虎は陸からの攻撃に加えて海からの攻撃からも
    対策を考えた防御を作っています。

    ①陸側

    上記の地図の通り、陸側に関しては外堀、中堀、内堀を三重に張り巡らせる一方で
    櫓は本丸の6つしかなく、非常に偏った作りをしています。
    これは本丸櫓から攻め寄せる敵を瞬時に把握出来るように考えられており、
    同時に外堀の入口は南西、北西、北東方面に3つあるものの、中堀の入口は
    全て海側に固められており、自然と敵を海側へと集中させる作りとなっています。
    その為、内堀内の南西~西側は櫓と多聞櫓だけで構成されたシンプルな造りで
    高い防御力のある造りとなっています。
    因みに多くの城が内堀内を「本丸」、中堀内を「二の丸」外堀内を「三の丸」と
    堀毎で区分する「輪郭式縄張」の城が多いのに対して、この城は

      内堀内に更に仕切りを設けて本丸、二の丸を設ける

    という日本の城でも珍しい形の縄張りを採用しています。

    古写真に残る本丸南東側の様子



    普通なら小さい内堀もかなり広く作られています。
    (しかもこれ道路工事で少し埋められてこれです)


    正面部分が二の丸、左の多聞櫓から奥の模擬天守がある部分が本丸です



    ②海側

    海側から来た敵、及び中堀から侵入してきた敵に対しては陸側とは正反対に
    狭く複雑に作れた堀と陸側の倍に当たる11の櫓で完全に固められており、
    オマケに本丸の御金櫓と鉄門の多聞櫓は「日本の城で唯一大砲が打てる櫓」
    として作られており、異常なまでの防御力と攻撃力を兼ね備えています。

    大砲が打てる御金櫓と鉄門の多聞櫓(四角の格子がそれです)




    こんな堅固極まわりない城を築いた高虎ですが、
    築城から僅か7年で伊賀に転封となり、城は高虎の養子である高吉が
    伊賀藩の「飛び地」という形で管理する形となりました。
    その高吉も1635年に名張に転封するとそれまで名張の城主だった
    久松松平家(家康の異母弟である松平定勝の家)の五男、松平定房が転封され、
    以後明治維新まで260年間治める事になりました。
    (因みに久松松平家の本家は松山城の城主であり一族で隣り合って治めていました)

    本家筋に当たる松山藩の松山城は地盤沈下防止の為に天守を小さくしたり
    落雷に見舞われるなど不運続きだったのに対して今治城は260年近く大きな
    火事や水害もなく城はそのままでしたが、明治維新後の明治2年には
    老朽化のせいだったのか廃城令に先駆けて殆どの櫓や屋敷を破却してしまいました…
    辛うじて二の丸北隅の武具櫓(現在の模擬天守の位置にあった櫓)は残されたものの、
    明治4年に中にあった火薬が引火して爆発四散してしまい、現在の今治城に現存する
    建造物はありません。

    貴重な破却前の今治城二の丸南西部分(右が西隅櫓、左が山里櫓)



    山里櫓と北隅櫓


    ところが、幸運にも破却前に本丸、二の丸部分の主要櫓を撮影した古写真も残されていた
    事から昭和から平成にかけて復元が行われました…

    そう、ツッコミ所満載の天守も含めて、、、

    現在史実と全く異なる模擬天守が元北隅櫓の石垣を改造してまでして建てられています

    模擬天守


    一応、市の見解としてはかつて高虎が築城時に拵えたという「天守」が、
    丹波亀山城の天守に移築されたという江戸時代の記述を元に古写真が残る
    丹波亀山城の天守を参考に作られたというのですが…

    参考までに丹波亀山城の天守の古写真


    よくご覧下さい、どう見ても層塔型天守(元和・寛永年間以降に主流となった
    逓減率の低く、最上重の屋根だけを入母屋にした天守)であり、
    且つ何処にも千鳥破風も大入母屋も高欄も付いていないのがお分かり頂けるかと思います。

    そもそも元和年間に主流となった層塔型天守を慶長年間に作られた事も疑問符が残りますし、
    その後石垣などの調査で「天守閣を建てた痕跡が見当たらない」など、最初から天守を
    立てたのかどうかすら疑問視されています。
    (最も古写真に残る丹波亀山城が創建時の姿そのものという保証はありませんし、
    増改築した可能性もありますので全否定はしません)

    それでも掛川城みたいな先例もありますから、移築した(という伝承)を元に天守を
    復元したいという考えはまだ理解できます…
    ですが勝手に「見栄えがいいから」という理由から大入母屋や高欄を
    付けてしまう時代考証の杜撰さに腹が立って仕方がありませんでした。
    (例えるなら東大寺の大仏殿に大仏がよく見えるよう穴を開けて展望台を設ける様な物です)
    それに高虎の考えた今治城のコンセプトが「櫓と多聞櫓で構成した高い防御性」なのに
    多聞櫓から飛び出た模擬天守の存在が著しく景観を損なっており、そこも残念でした。

    狙ってくれと言わんばかりに目立つ的状態の模擬天守


    つくづく痛感するのですが、何故昭和の復元って壊滅的にまでに酷いのでしょうかね?
    (一方で本家筋の松山城が昭和後期にも関わらず焼失した櫓等を木造で復元をしたのは
    返す返すも見習って欲しかったなと思います…)

    一方で平成に入ってから復元された鉄御門と多聞櫓はきちんと木造で復元されており、
    今後コンクリートの老朽化(昭和55年建造なので大分先ですが)に伴う建て替えの時は
    模擬天守は取り壊して櫓は木造で造り直して欲しいです。




    今回の城巡りにおいて四国の他の城の中で唯一初めての訪問だっただけに、
    事前知識を得ていたといえ、模擬天守を見た時のドン引き感は大きかったですが
    鉄御門や石垣、僅かに残る本丸内堀に関しては一見の価値があると思いましたので
    近くにお越しの時は訪れてみるのも良いかもしれません。

    次回は2度目の訪問になる松山城を紹介したいと思います。
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