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「定年後の居場所を作る(加藤仁著)」メモ
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「定年後の居場所を作る(加藤仁著)」メモ

2016-12-15 19:00



    ・先日記事を書いた「定年後」より3年ほど前、2004年に単行本が出た加藤仁さんの著書。定年、あるいは早期退職を機に全くそれまでと違う人生に飛び込んだ61人の事例が紹介されている。本では個人名も書かれているが、そこは書かないで紹介してみる。


     全体は「職場」「自宅」「移住」「自営」「海外」「地域社会」の6章に分かれている。
    その小見出しを転記しつつ。

    ・第一章 職場 職を求めて
    ・熊野地方に求めた六十六歳からの適職
     昭和9年生まれ、取材時68歳の元ホテルマンの方。
     地元の高校を出て上京、最初はキャバレーで働いて支配人にもなるが30歳の時に某一流ホテルに転職。レストランのボーイを振り出しに40歳で同系列のホテルの支配人を勤めるようになり、最終的には取締役になるが定年後もホテルマンをやりたいと希望。
     ホテルマン専門の人材会社に登録して、いわゆる「公共の宿」に支配人として派遣されて
    赤字体質を改めて黒字化したり、従業員のシフトを見直して総労働時間を減らしたり、サービス向上をはかってリピーターを増やしたり、という成果を上げているという。派遣なので部下よりも給料は安いが、生涯現役でありたいという。
     この方が黒字化した、という宿の名前はわからないが、派遣されたという経営母体が運営
    する宿は今も数件存在するようで、公共の宿を襲った閉館の嵐からは逃れたみたい。
     ご本人の名前は書かないけど、検索するとその後別のホテルの支配人や業界団体の顧問になったような気配もあったので、その後も現役を続けられたのではと思う。
     もう80を超えている筈なので引退されたかもしれない。

    ・新聞記者から庭師へ、地下足袋で味わう青空弁当
     昭和11年生まれ、取材当時65歳の方。
     全国紙の記者を長年勤め、55歳からは系列テレビ局で番組制作、文字放送会社の社長を勤め、相談役を最後に引退。何もしないでいい立場になったが「何かしなくちゃ」と63歳の時に「東京都だより」に載っていた東京都高齢者事業振興財団の「植木の学校」(無料)に入学。
     ここを3ヶ月で修了して地元のシルバー人材センターに登録。元銀行支店長だったという70代の親方について、毎日「ボヤボヤすんな」「もう帰れ」などと叱られる毎日だが、自分の身体で稼いだ収入には重みがあり、庭師の仕事が楽しいという。

     おそらくこの方は働かなくても暮らせるだけの蓄えはあったんだろうと思うが、それでは感じられなかった生きがい、やりがいを見つけたとの事で何より。

     東京都高齢者事業振興財団というのは今は「東京しごと財団」という名前になっていて、「シルバー人材センター」を統括するような立場にもあり、「東京しごとセンター」として
    ハローワークとは別に就業支援や講習をやっているみたい。
     若い人や女性向けの就業支援や講習などもやっているようだがハローワークに比べて知名度がイマイチな気もするので天下り先確保のための二重行政で税金の無駄遣いなのか、そんなことなくてそれなりに役に立ってるのかわからない。東京以外の道府県に同じようなものが必ずあるというわけでもないみたいだがよくわからない。
    http://www.tokyoshigoto.jp/

     本とは直接関係無いけど、いろいろ検索していたらキャリアアップ講習みたいのも見つけた。これはハローワークみたいに退職後ではなくて、在職中に夜間や土日とかに講習を受けて、自分のスキルアップをしましょう、みたいなもの。料金はテキスト代はかかるが割安。
     主にに中小企業で働いている方(派遣・契約社員、パート等を含む)が対象らしい。
     そんなのあるの知らなかった。
     勤務先の許可がいるのかどうかよくわからないが、無くてもいいなら転職を考えている人なんかに役に立つかもしれない。タイヘンそうだけど。これも東京以外の道府県に同じようなものがあるのかよくわからない。
    http://www.hataraku.metro.tokyo.jp/school/carr_up/

    ・週末に働き、平日に遊ぶ。「土日はわしらの出勤日」
     昭和14年生まれ、取材時62歳の方。
     鉄道会社で列車ダイヤ作成業務、駅長、研修室長などをつとめ、60歳で定年退職。2年ほど気ままな生活を送るが、生活のはりが無いと感じ、「60歳以上に限る」というユニークな求人に出会ったのを機に再就職。
     この会社は製造業だが、価格競争に勝つためには土日に機械を遊ばせたくない、だが社員に土日残業を強いるとかえって労務上よくないしコスト高になる、ということで高齢者でそこを埋めようとしたらしい。正社員1.5人分の給料で15人の高齢者を雇った計算になるという。年金で暮らせるけど働かないと物足りない、給料は多額でなくてもよい、という労働者側と、設備を遊ばせるなら高齢者に働いてほしい、という双方のニーズがマッチした様子。
     この会社は今も変わらずそうした高齢者雇用を続けていて、現在は当時の倍以上の39人が働いているらしい。こうした試みを行う会社はもっと増えてもいいかもしれない。今の高齢者は年金で食えない人も多いみたいなので、こうした働き方では不足なのかもしれないが。
    http://www.katog.co.jp/silver/index.html

    ・”定年ゼロ作戦”は、企業のきめ細かな雇用の実践
     昭和3年生まれ、取材時73歳の方。
     この方は「定年の無い会社」に勤務して、60歳の定年後も働き続けている。取締役も
    つとめたことがあるが、今は若い上司のもとでいち派遣社員として働いているという。
     定年になると会社が設立した財団法人の所属となり、そこから元の職場も含むグループ会社に派遣されるシステムらしい。こうした会社を著者は他にも知っているが、人間関係がうまくいかなかったりして成功例はあまり無いらしい。ここの場合、若い社員達に高齢者をメンバーとして加えるのではなく、高齢者だけでチームを組んで、そこに若い社員を送り込むという方式で成功しているという。他に2名の方も一緒に紹介されている。
     この会社はかなりユニークな経営方針で有名なようだ。が、ホームページには現在この
    「定年ゼロ制度」については特に記載されていないみたい。それが売り物ではないという
    ことかな。
    http://r25.jp/society/00005237/

    ・出版人がホテルマンになって働き続ける理由
     昭和8年生まれ、取材時70歳の方。
     これまでは比較的大手の会社で長年勤務した人が多かったが、この方は出版社を振り出しにいわゆる零細企業を転々として定年直前に会社が倒産。年金額もたかがしれているということで60を過ぎても切実に仕事を求めていた。ハローワークでビジネスホテルの夜勤の仕事を見つけ、取材時は生きがいを感じている様子。暇な時はインターネットを自由に使っていいとのことだったので、パソコンを覚えてネットで同じような年代の人と交流するようになり、オフ会などで楽しんでいるという。自分のホームページも作ったとのこと。利害関係がない人と
    日々楽しく付き合うことが楽しい、というタイプであったらしく、うまくはまったらしい。
     現在もツイッターをされていて、毎日のように更新しているみたい。HPもあった。

    ・新たなる選択は、「老人福祉」を専攻する大学生
     昭和10年生まれ、取材時66歳の方。
     有名な家電メーカーで家電製品から半導体、電子部品にFAまで、最終的には営業統括部長みたいな立場までつとめて退職した方。営業を通じて断片的な知識は身につくが、何一つ体系的に学んだことがなく何の専門家でもない。というのが虚しくなり、退職後に奥さんの理解を得た上で社会学部に学士入学する。阪神大震災の直後でもあり、福祉系への関心が高まっていたことも影響したみたい。取材当時には卒業生の総代をつとめたあと大学院にすすんで、修了後はさらに聴講生として大学との縁を続け、OB会を通じて古巣との交流もあるという。
     老人施設のアドバイザーとしての職も得たりしている。フェイスブックは今もあるようだが、私は会員登録していないので内容はわからない。

    ・仕事か遊びか、モノか心か、揺れる六十代の心情
     昭和十四年生まれ、取材時63歳の方。
     高卒でタンクローリーのドライバーとして就職。尼崎、名古屋、神戸に三等分くらいずつ勤務して、所長や部長もつとめて定年退職。現役時代から多趣味の人で、750ccのバイクでツーリングをし、バイク仲間とアマチュア無線をし、シティマラソンに出場し、野菜を作り、太極拳をし、皿回しをし、手品をし、と忙しい。じっとしてられない性分の人でもあるみたい。二年ほど自由に遊びまわって何か物足りなくなり、自動車メーカーの修理工場に車を運ぶ「運び屋」として再就職。だが今度は仕事上のささいなことが気になるようになり退職。時間がもったいないような気もしたという。その間稼いだお金でパソコンの周辺機器を充実させたりして三味線もはじめる。余生は物より心にシフトしたいと思うようになったという。
    この方は今もHPもツイッターも更新していて、今年も北海道にツーリングに行ったり三味線の発表会に出たりしている様子。お元気だなあ。

     こんな感じで書いているといつになっても終わらないので、以降簡潔に。

    ・第二章 自宅 在宅者の構想力

    ・家庭内「フリーター」になった元営業部長
     昭和十年生 取材時64歳 定年退職 繊維業界
     社交ダンスと英会話を始める。奥さんがもともと「国際交流会」で活躍しており、
     自宅を外国人のホームステイ先として提供し、毎年多くの国の老若男女を受け入れている。
     2009年には交流会の会長になられた様子。現在も会長なのかはわからないが、交流会は
     現在も活発に活動している様子。

    ・天下らない役人の「七味唐がらし」の製造販売
     昭和十五年生 取材時61歳 定年退職 県庁職員
     在職中に脊柱を痛め、歩行やデスクワークに不具合を感じるようになっていたため再就職を
     断念。在職中から所有する土地に山椒の木があったため、これを使って七味を作り、知人に
     盆暮れに配っていたが、これを仕事にすることに。知人の伝手を活かし、ドライブインなど
     でも販売。材料費が出れば生きがいになる、という小規模のもの。
     現在は不明だが、基本的に直販に限る様子なので身の丈にあった生活と続けているのかも。

    ・仏語、独語、中国語の語学学習は一病息災のライフワーク
     昭和八年生 取材時68歳 定年退職 外資系企業大手 総務・財務・人事。
     定年直前に心臓病で倒れ、再就職を断念。卒業後大学の通信課程で仏語を学び4年で卒業。
     近所の大学にも聴講生として通い、仏語検定2級、ドイツ語検定3級、中国語検定4級。
     もともと英語は得意で1級所持。ボランティアで地域の日本語教師をつとめながら、韓国語
     も習いはじめている。
     個人で活動されている方なので、特に現在はわからない。

    ・在職中の資格取得と余暇発掘を在宅生活に活かす
     昭和十年生 取材時65歳 自動車販売 54歳で厚生年金担当 
     在職中に営業所新設に関わる土地収用などを担当し行政書士・宅地建物取引主任資格取得。
     厚生年金担当時は年金プランも勉強。退職後行政書士として働き、地域の生涯学習センター 
     の講師もつとめる。
     個人で活動されている方なので、特に現在はわからない。

    ・亡き妻に短歌を捧げ、八十歳からの独居生活
     大正八年生 取材時81歳 10歳で母親、15歳で父親を亡くし母の実家で育つ。
     戦争・従軍を挟んでメーカーや銀行で定年までつとめた後も卸問屋などで3年、5年・・・
     などと転々としながら職業安定所や人材銀行の力を借りて働き続ける。
     62歳の時に妻(当時50歳)がくも膜下出血で倒れ、一度は回復したものの63歳で
     脳梗塞・車椅子となり仕事を辞めて介護するが先立たれる。
     一年以上何もする気にならなかったがようやく立ち直り、残された日々を気もちよく過ごす
     ことだけを願っているという。

    ・毎日泳ぐ九十翁、一人旅はスキーバスを利用
     明治四十三年生 取材時89歳 戦前は仕立て職人、戦争で立ち行かなくなり戦後は
     スポーツ用具店経営。70歳を過ぎた頃、区画整理と大型店の進出で廃業。
     年金暮らしで、マスターズの水泳やスキーツアーを続ける。

    ・第三章 移住 夢と現実

    ・NTT元副社長は山林に居をかまえて自力で生きる
     昭和十一年生 取材時66歳 NTT副社長をつとめ60歳で退官。退職前から北海道に
     住むつもりで土地を買っており、移住。近所の畑を手伝ったりする毎日。

    ・経理担当の窮地を救った長野県への移住の夢
     昭和十年生 取材時67歳 素材メーカーで新規子会社の経理責任者として送り込まれるが
     経営不振の責任を問われ左遷。長野に土地を買い、定年一年前に退職、自宅を売却し移住。
     カメラ、スキー、温泉を楽しみつつスポットで地元企業の経理や旅館の購買、りんご農園の
     収穫などで働く。学生アルバイトと変らぬ時給800円だが、土地に溶け込める仕事で
     不満は無いと言う。

    ・早期退職をして産直農家を営む元テレビマン
     昭和十三年生 取材時66歳 テレビ局で演出家、ディレクターなどをつとめるが、
     いろいろあって子会社を転々とすることに。55歳で早期退職して茨城県に農地を買い、
     米・野菜・ハム・ソーセージなどを作る産直農家となる。数年赤字が続いたが、60歳を 
     超えて年金も支給されるようになるとひと息つけるようになったという。

    ・老いをたくましく生き抜く、元学長の覚悟
     大正三年生 取材時89歳 薬学・微生物学を学び研究所や母校の教授。退官後地方大学の
     学長。70で公職から退き専門書を執筆。さらにインターネットを86歳で始めHP作成。
    現在は亡くなられたようだが、90代半ばまで精力的に活躍された様子。研究者としての
     著書も多く、少なからぬ実績を残された人のようだ。

    ・さらば、住宅街!移住者たちの新たな”世間づくり”
     昭和五年生 取材時70歳 天文台勤務で太陽コロナ観測をしていたが、家業が忙しくなり
     手伝うために退職。義父の縁から市会議員も二期つとめることになり、市長選にも挑むが
     落選。俗世間から引退する気持ちになり長野に農地を買って移住。地元農家と別荘族の
     ちょうど中間くらいの位置で、両者の干渉役のような位置にたっている。
     この項では同じように農地を買って移り住んできた人たちが他にも紹介されている。

    ・鎌倉から日南海岸へ、さらに南端の串間市へ
     昭和五年生 取材時71歳 広告代理店の管理職。61歳で鎌倉の自宅を売却し、日南海岸
     の丘陵地に家を建て夫婦で移住。スポーツイベントや自治会の責任者もつとめ、よき地域人
     になろうと心がける。だが買い物は車がないとできないところで妻の脚が弱り、近くに病院
     が無いことや別荘地で定住者が少なく出身地による自治会の分裂などにも悩むようになる。
     スポーツでできた人脈から串間市の使用していない農家を紹介され、さらに転居する。
     ここは徒歩で買い物も役所の届けも生活が成り立つ場所で、日南の家を売って家賃3万円の
     農家暮らしとなる。音楽とスポーツの趣味で仲間を増やし、毎日歩くことで奥さんの脚も
     痛まなくなったという。検索したらフェイスブックがあって75歳と80歳の時に自作の
    曲でCDを出して地元新聞に掲載されたりもしているらしい。

    ・自力で家を建てた田舎暮らしの起承転結
     昭和四年生 取材時73歳 特殊合金製造会社管理職。 化学屋として勤務していたが、
    建築士の勉強を定年直前にはじめ、他に電気工事士や溶接技術者の資格もとって房総半島に
    自分で家を建てる。だが取材を受ける直前に小脳内出血で倒れたため、田舎暮らしの切り
    上げ時を探っているという。

    ・第四章 移住 わが城を創る

    ・磐梯山麓に土地を見つけ、夫婦で営む和風旅館
     昭和二十一年生 取材時56歳 空港売店の物品調達をする会社で所長。
    中学の同級生だった妻が、夫が出世するたびに夫らしくなくなった、と自宅を改造して
    イタリアレストランを開き、一人できりもりする。店は繁盛するが二年で閉店。
    これに影響されて、夫が自分もやりたいことをしようと49歳で退職。夫婦で話し合い、
    猪苗代に五部屋しかない宿を開く。
     退職金にマイホーム売却代金に預貯金すべてをつぎ込み、さらに銀行から5000万を
    借りて(ご主人が在職中に妻が旅館をやる、と言ったら審査が通ったらしい)開業にこぎ
    つけたという。
    ご主人がそば粉十割の蕎麦を打ち、客の目の前で岩魚や田楽、筍などを焼くという。
     現在もここは営業中の様子。個人のブログなどは見つけてもリンクは貼らないことにして
    いるが、ここは商売なので何かの足しになればと貼っておきます。
    http://www.yuyutei.net/

    ・趣味の集大成は喫茶店経営、生まれたサロンは七つ
     昭和十三年生 取材時64歳 高卒で松山の百貨店に入り店長に次ぐ地位である次長になる
    が、役職定年になり、誰からも指示されず、指示する部下もいない宙に浮いたような状態に
    なる。やがて定年になるが、何かやりたいが思いつかない、という時期に街をぶらぶらして
    いる時に大衆食堂の二階が空き店舗になっているのを見つけ、ここを喫茶店+ギャラリーを
    開店する。ここを中心に地元の趣味人があつまるサロンがいくつもでき、活発に活動して
    いるという。ただ、取材時点でまだお店は赤字で、年金で補填している状態だという。
    ここは喫茶店名が書かれていない事もあり、現状は不明。サロンらしきものは今もHPが
    ある様子。

    ・激戦地で健闘するラーメン屋経営の工夫の数々
     昭和九年生 取材時69歳 市役所勤務で主に車両係として市長、助役、収入役の運転手を
    つとめる。苦情処理や失業対策も担当し60歳で定年退職。60歳で奥さんを巻き込んで
    ラーメン屋開店。
     メニューを三品に絞って、客を待たせない、というコンセプトで開店し、今は客の要望で
    少し増えたという。自己流だそうだが素材にこだわる姿勢で客もつき、時々年金で赤字補填
    することもあるが、収支はほぼトントンだという。
    検索してみると、地元松本では今もけっこう有名店として健在の様子。20周年も迎えた
    らしい。特にHPなどはないようだ。年に一度養老院に出張してボランティアでラーメンを
    作ったりとかもしているみたい。

    ・夫婦のコンビネーションがつくりだす牛たんの味
     昭和十八年生 取材時60歳 衣料品メーカーの営業所長。
    役員だったが勤務先が業績低迷し、総合商社の管理下に置かれることになった責任を取り
    52歳で退職。もはや会社勤めをする気になれず、単品を扱う牛たん屋なら研究次第で
    なんとかなるのでは、と開業。開業資金は一千万を国民金融公庫より。
    身体の続く限りこの商売を続けていきます、と締めくくられている。特にお店の名前は
    載っていないが、場所は書かれているので検索してみると、今も営業しているらしい。
    ここはちょっと遠いけど行動範囲内なのでそのうち行ってみるかも。

    ・施設勤務者の人生を変えた竹炭との出会い
     昭和二十二年生 取材時55歳 知的障害者施設職員。 
    施設の障害者ができる作業として、竹炭作りを導入、軌道に乗せる。
    竹炭の魅力に取り付かれて退職して工房を設立。
     竹炭、竹酢液、燻し竹を商品としているとのこと。工房の名前も書かれていたが、
    検索しても見つけられなかった。

    ・五十五歳で退職、四千五百坪の乗馬クラブを経営
     昭和二十年生 取材時59歳 製紙会社で部長までつとめ、役員の芽もあったが業績悪化で
    55歳で早期退職。40代の頃から家族で乗馬クラブに通っており、子供3人は馬術大会で
    好成績を納めた実績があったこともあり、乗馬クラブ開設を決意。
    その経営の準備のため受講した商工会議所の創業講座で知り合った講師の支援もあって、
    ある施設内に計画されていた馬場に誘致される形で、破格の安さで乗馬クラブ開設に
    こぎつける。
     知的障害者や不登校児に対するホースセラピーも視野に入れ、平成13年に営業開始。
     現在も堅実に営業中の様子。障害者馬術にも力を入れている模様。
    http://www.hrf.co.jp/

    ・九十歳で現役、世界最高齢の旅行添乗員
     明治四十三年生 取材時90歳 国鉄マンで駅長もつとめ、団体旅行の企画にもかかわった
    ことから退職後は旅行代理店に再就職。6年つとめてここを退職後、62歳で子供と甥の
    三人で旅行会社を興す。取材時点では90歳だが息子と女性事務員二人を雇い、自らも
    現役の添乗員として働いていた。
    2005年に95歳のツアーコンダクターとしてテレビにも出演し、その翌年に亡くなって
    いるようだが、十分満足できる人生だったろう。

    ・第五章 海外 仕事があった!

    ・ベトナム再興を願って、ホーチミン市で工芸品店を開業
     昭和七年生 取材時71歳 事務機器メーカーの営業職。関連会社の社長もつとめ、さらに
    55歳で香港の海外法人社長。この時代にベトナムを訪れる。60歳で定年を迎え、
    ベトナムにもと勤め先の駐在員事務所と販売代理店を合わせたような会社を現地の人と設立
    し特別顧問となる。これを社員550人をかかえる規模まで成長させて後継者にバトン
    タッチし、当時戦争のために決して高く評価されておらず、アーティストの境遇も恵まれて
    いなかったベトナムの刺繍画や漆絵などの工芸品を展示販売し、アーティストの地位も向上
    させるような活動をしているという。
    この方は2008年に体調を崩して引退されたらしく、別の人がお店を引き継いだようだ
    が現在はリンクが切れていて様子がわからない。ベトナムの刺繍の素晴らしさなんかは
    NHKの番組なんかでも見たことあるので、地位向上には役立ったのだろうと思う。

    ・香港に渡って九年、ついに深圳で自前の工場を運営
    昭和十五年生 取材時63歳 大手メーカーで主に資材調達畑を歩き、48歳でタイの現地法人に派遣される。帰国後54歳で独立し、香港にオフィスを構えてメーカーからプリント基板の注文を受けて、これを中国深圳(しんせん)の地元工場に発注して製造させる、という商売をはじめ、6年目で黒字転換、9年目で自前工場を持つことになったという。
    この方の現在はわからない。その後の中国の様子を見ていると、こうした工場経営はかなり困難にぶつかったろうと想像されるが・・・

    ・毎月一度の訪韓、企業育成のボランティア生活
     昭和十三年 取材時65歳 重電メーカーで生産部長。53歳で狭心症を発症。55歳で手術を受ける事になり、その半年後に退職。地元の国際交流会に参加して、ネパールに学校をつくる計画に参加。さらに海外の中小企業を指導育成するボランティアとして、旧知の韓国企業社長に誘われ、月の半分を日本、半分を韓国で暮らすようになって10年だという。給料は無しで、旅費交通費、韓国滞在中の食費など実費は先方負担という条件。さらに日本帰国時は地元の中小企業に対しで同じように指導するなど、忙しい日々を送っている。
    この方は今もHPがあって、それによると昨2015年にこの韓国での指導を20年続けて退職。これからが人生の本番だ~みたいに思っている様子。お元気で何より。

    ・七十代にしてカレー屋を開業した夫婦の中国体験
     大正十五年 取材時75歳 繊維メーカーの取締役工場長。だが58歳で閑職の参与となり、仕事が無いのが苦痛で退職。61歳で以前から興味があった中国で外国人留学生として大学に通い、学生寮暮らしとなる。これで実用的な中国語を身につけ、得意の染色技術でアジア諸国の企業に技術指導もする。
     留学終了後、現地メーカーに誘われて技術顧問として就職。慕われて70歳まで働くが、高齢を理由に中国が長期滞在可能な就労ピザを出さなくなり、日本にいる時間が長くなる。
     閑を苦手とする人とのことで、奥さんと二人でカレー屋を開業し、喫茶店もない地元の人の貴重なたまり場になっているという。
    この方も現在はわからないが、この時点で三、四人分の人生を生きている気がする。

    ・タイの山村で雇用を創出した夫婦ふたりのNGO
     昭和十七年生 取材時60歳 航空会社で整備担当。国家要人が乗る特別機も担当し、総整備長もつとめた。整備はやるだけやったと51歳で退職。タイに渡り、いくつかの経験と失敗を経て椎茸栽培に活路を見出す。取材時点では地元の人24人を雇い、彼らが家族と暮らす寮を建て、さらにメードを雇い、彼女が短大に通う学費も出している。出来る限り雇用を創出して儲けて、その儲けをタイに還元したいという。
    この方も今の様子はわからないが、タイに住むのであれば年金だけで暮らせるようなので現地に骨を埋めたのかもしれない。

    第六章 地域社会 背広を脱いだ仲間たち

    ・男性ヘルパーを志した男たちの旅路
     昭和二年生 取材時73歳 電機メーカー管理職。主にコンピューター生産部門やソフトウェア会社で人事担当。62歳で退職。直後に義母がアルツハイマー病と診断され介護を応援。義母を見送り、福祉団体に登録して在宅介護の支援を行うようになり、似たような経緯でヘルパーをするようになった男性達と連絡を取り合うようになっていき、彼らの火付け役になって、ヘルパー同士が交流できる場として合唱団を結成する。
    この項では、この火付け役になった人のほかにも、主なメンバーを紹介しているが、自分の親を十分に見とれなかった(海外勤務だったり、遠く離れすぎていたが責任が重い仕事で行けなかった)経験から、当時はまだ珍しく養成機関も無かった定年後の男性ボランティアに、自分から門を叩く形で飛び込んでいっている人が多いようだ。
     合唱団の動画はユーチューブにも上がっており、昨年くらいの活動もネットでは確認できた。地域のボランティアは必ずしもネット活動をしなくても人が集まるから、おそらく今も活発に活動しているのだろうと思う。

    ・失われた自然環境を取り戻す息の長い地域活動
     昭和九年生 取材時70歳 小中学校の事務員。創意工夫を何ごとにも凝らし、手先が器用。校章のデザインや理科の教材、花壇や焼却炉などもつくった。定年後すぐに町内会長から声がかかり、地域の福祉委員となる。地元の子供をまきこんで、土地の歴史を伝えるようなイベントをいくつも考案し、実施している。62歳の時から、昔は生息していたホタルが戻って来るよう、養殖と川の整備を行っている。
    2009年に小学生が一年間面倒をみる、ホタルの里みたいになったようだがその後はわからない。ネットに無いから活動していないとは限らないので、今も継承されているのでは。

    ・企業OBが自主運営する”宅老所”の目玉商品
     昭和十年生 取材時67歳 自動車部品メーカーで工場や営業部門。60歳で定年。父親の水田と畑を引き継ぎ農業を始めるが、作ったものは一切金を取らず友人知人に無料配布。金儲けはこりごりとのこと。やがて町内会長になり、市役所から宅老所の運営を託される。
     今でいうデイサービスのための施設だが、障害の有無にかかわらず高齢者なら誰でも使用できるたまり場のような施設だという。人脈がある人だったのか、30人のボランティアを集め、うち11人が食品衛生責任者の資格を自腹で取って、週2回100円でランチを出すことで高齢者を引きつけるようにした。畑の野菜が大いに役立っているという。
    この施設は現在もあるようで、今は地元の社会福祉協議会が運営しているようだが100円ランチは今も続けている様子。

    ・全員製作、全員営業、シニアが発信するラジオ番組
     昭和十二年生 取材時65歳 広告代理店でコピーライター、CMディレクター、番組プロデューサーなどを歴任し局長で定年。シルバー人材センターの「シニアしごと創造塾」に参加。当初は有志でコミュニティFM局をつくろうとするが、資金、許可、経営などに難があり、自分たちで番組をつくり、スポンサーも見つけて既存放送局に電波を借りることにする。
     15名のメンバーの平均年齢は65歳。厚生年金を給料だと思って番組づくりをしている。
    2010年に放送500回を迎えたらしいが、その時点でメンバーはの平均年齢は70歳で9名になっており、代表の人も交代したようで、現在はHPも無くなっている様子。
     高齢化にしたがい存続が厳しくなったのかもしれないが、参加者は得るものがあったのだと思う。

    ・元助役が仕掛けた町づくりの拠点は二十四時間オープン
    昭和十五年生 取材時63歳 県庁職員。定年まであと一年というところで旧知の市長からNPO活動の基盤作りをしてほしい、と助役に迎えられ、このための条例を作って2年半で退任。自分が在任中に開設した支援センターに籍を置くNPO団体に移り、有償ボランティアとしてこの運営に携わる。腰の重い行政ではできないこと(例えば勤め帰りのサラリーマンも利用できるよう、原則として24時間使用できる施設にするなど)を、このNPO活動で実現されている。
     この団体HPは今もあり、来年3月までの予定がびっしり書き込まれている。地域行政の核になる施設として根を下ろしているようだ。この方も今年(2016年)の1月時点では理事長のようだ。

    ・在職中のエネルギーをタウンモビリティに注ぐ
     昭和十一年生 取材時64歳 大手メーカーの販売部長。定年後再就職がうまくいかない中、まちづくり市民活動に参加。「タウンモビリティ」という、足の不自由な高齢者や障害者に電動三輪スクーターを無料で貸し出す活動を始め、これを基点に町全体のバリアフリー化をすすめる。
    2016年現在も、5台の三輪スクーターを所有して活動中の様子。タウンモビリティの成功例は少ないらしいが、ここは健闘している様子。足の悪い人のために、と三輪スクーターだけ用意しても、立ち回り先にスロープや身障者用トイレが無ければ結局出かけられず、スクーターも利用者ゼロとなってしまったりするらしいが、この団体は団体員が自ら車椅子や手足に錘をつけての高齢者擬似体験をしながら町中を移動し、バリアフリー化のポイントを民間から行政に上げており、スクーターや車椅子利用者には希望があれば付き添うボランティアもいる。そのあたりが成功のポイントなのかもしれない。

    ・老いても安心のわが町を!企業OBたちの地域おこし
     昭和五年生 取材時72歳 證券会社取締役。30代の頃にマイホームを入手。その住宅地に高速道路が開通することになり、持ち回りで町内会役員だったことから反対運動の取り纏め役に。妥協案を探ってwinwinで収束。その時の運動仲間と、また何かしてみようと「週末会社」を企業。地域お年寄りへのトイレットペーパー宅配や公園の除草などを手がける。
     これが地域助け合いのNPOに発展する。介護保険制度の発足前から同じようなサービスを手がけ、制度発足後も保健対象外のサービスは有償ボランティアとして続けている。さらにグループホームをNPO法人自ら運営するようになる。
    ここはNPO活動団体としては有名な老舗らしい。HPは2014年に開設。活発に活動している様子。 

    ・八十代の初心者が躍動するテニススクール
     大正二年生 取材時87歳 鉄工所勤務。定年後ぶらぶらしていたが、妻に何かしないとボケると言われて71歳でテニスラケットを生まれてはじめて握る。60歳以上歓迎のテニススクールと、入会資格が65歳以上で初心者歓迎、というテニスクラブが近所にあったという。
    毎週スクールとクラブに通い、8年後には妻を失うが、今もその後に覚えた料理を持ち込むなどしてクラブを楽しんでいるという。このクラブでは90代の人も、元気にテニスを楽しんでいるという。
    このテニスクラブも現在もHPがあり、活発に活動している様子。100歳を迎えた会員もいるらしいが、それがこの方のようだ。

     この単行本は週刊読売(後にYomiuri Weekly)に平成12年から16年にかけて連載されたものを再構成・加筆したものだという。本の出版は2004年(平成16年)になっている。
     あとがきには何人かの方のその後を紹介したりしている。
     調べればすぐわかるような方もいらっしゃるが、個人名は書かなかった。団体名なんかは、場合によってはリンクしたりした。一方で現在の情報が見つかられなかった人もいるが、本の出版から12年経っている事を考えるとそれも時の流れと思う。ネットに無くても、今も活動されている方もいるだろうし、亡くなったり活動を終えた方も、いい老後を過ごされたのだろうと思う。本当は著者である加籐仁氏がご健在であれば、続編を読みたかったところだけど。
    加藤氏の著書は貴重な記録だと思うのだけど、今は書店で見かけることがなくなってしまった。福祉行政などに携わる人には、いろいろヒントがある本だと思うけど。

     自分の今後の参考にもしたいので、ちょっと真面目に読んでみました。
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