「昭和天皇と鰻茶漬(谷部金次郎著)」メモ
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「昭和天皇と鰻茶漬(谷部金次郎著)」メモ

2016-12-26 19:00


     サブタイトルに「陛下一代の料理番」とある。こういう著作では、テレビドラマにもなった
    「天皇の料理番」という作品が有名だが、この本はそのモデルになった秋山徳蔵さんに「ぼうや、いくつだ」と面接で聞かれて17歳で宮内庁大膳課(だいぜんか)に勤務することとなり、昭和39年から皇室の食事をつくり続け、平成の世になるのを区切りに退官した人のエッセイみたいなもの。退官後は料理教室を主宰したり、3分クッキングみたいなテレビ番組に出演したり、大学講師をつとめたりと多方面に活躍し、昭和天皇のご生誕100年ということで出版の運びになったと書いてある。

     宮内庁の組織的なことが書かれており、宮内庁大膳課は一係から五係まであり、一が和食、二が洋食、三が和菓子、四がパンと洋菓子、五が東宮さまの担当であることや、著者の最初の肩書きは「管理部厨司補行政職(二)」で(一は事務官、二は技官を示すという)、「大膳官付厨房第一係」、つまり和食担当であったという。

    大膳(だいぜん)という言葉を知らなかったので調べると、もともとは大膳職(おおかしわでのつかさ)という、いつ頃からかよくわからなかったけど大化の改新とか飛鳥時代くらいからあったかもしれない役所の名前で、天皇の食事を準備するのが内膳、天皇に限らず饗宴の準備をととのえるのが大膳だったみたいなことが書いてあって、明治になって大膳職(だいぜんしょく)という役所名になったらしい。そのあと大膳寮に名前が変わって、現在は大膳課らしい。いつ課になったのかもよくわからなかったけど戦後ということかな。
     呼び方はものものしいけど、著者は技術系の国家公務員だったということになる。

     もともと父親を亡くしたため中学を出てすぐ身内の縁で日銀クラブで料理人見習いとして働いていたのが、宮内庁が多数の料理人を必要とする新年祝賀の儀に手伝いとして駆り出され、その縁があってか二年ほど過ぎた頃に宮内庁の採用試験を受けて大膳課に転じたという。
     感触も良かったので日銀クラブは辞めてしまったものの、その後3ヶ月近く採用とも不採用とも連絡がなく、頼んで昔の職場で臨時に働かせてもらったりもしたらしいが、これは身辺調査に時間を要したためで晴れて採用。
     当時は先に書いた5つの係りを全て統括する主厨長が秋山さんで、一係には著者を含めて6名がいたらしい。配膳なんかは別に主膳係というのがあって、食器を洗ったりはこちらの人たちがやるという。他に経理や食器担当の人なんかもいて総勢5、60人だったらしい。
     朝は普通洋食で、昼が洋食なら夜は和食、昼が和食なら夜は洋食という感じで、毎日一度は食事を作り、一度に両陛下の分と侍医さんの栄養チェック用、おかわり用などで5、6食を作ったという。
     自分たちの食事は宮内庁の職員食堂で食べることが多かったが、勉強会のように昼みんなで作ったりもしたらしい。もちろん自前で。

     儀式の時は別として、普段の両陛下の食事は拍子抜けするくらいふつうのものばかりで、
    食器も質素な市販品、箸はいわゆる柳箸で、一回限りで捨てるのではなく数回使ったという。
     献立をいくつか示してあるが、ほうれん草のおひたしとか秋刀魚の塩焼とか鰈の竜田揚げとか奈良漬とか。時々中華も出て、これらも和食係で担当していたという。庶民と同じといっていい感じの献立だな。ご飯は麦入りが基本で、味噌汁ではなく吸い物が基本な様子。

     天皇皇后両陛下のお食事は朝八時半、昼十二時、夕食午後六時と決まっていて、朝はオートミールやパンの洋食、例外的に皇后様が行事のために朝から髪を結われる時などは小さいおにぎりを用意したとも。
     ご飯はやはり電気炊飯器で炊くらしい。

    平安時代か、というような言葉が宮中では現在も残っているらしく、
    「おすべり」両陛下がお使いになられたあと、著者のような職員たちに回り下されるもので、食品から雑貨まで、具体的には箸とかお茶とかの例が述べられている。
     他に「おすもじ」お寿司、「おささ」お酒、「米」およね、「豆腐」かべ、「油揚げ」あげかべ、「餅」おべたべた、「おひつ」おじきろ「焼き豆腐」焼きかべ、「夜食」およふかし など。言語学をやる人は興味を持つ対象かもしれない。

     著者のような仕事の場合、直接陛下とお目にかかったり、まして会話をすることはまず無いのだが、ある行事で屋台の天ぷら屋みたいのを担当することになったら、突然陛下が現われて「あなごとしそを」と注文された途端に手が硬直してしまい、うまく揚げられなかった、などというエピソードも書かれている。

    陛下は芋、かぼちゃ、さんま、いわし、あじ、たたみいわし、鰻の蒲焼きなどがお好きだが、猫舌のこともあり熱いものが苦手で焼きたてのものというわけにはいかなかったという。

     毎月30日は晦日そばの習慣があり、著者が蕎麦を打ったとも。陛下はそばは必ずといっていいほどお代わりをされたという。地方を訪れた時に口にした、福岡の郷土料理である「おきゅうと」や鹿児島の郷土料理である「あくまき」などもお気に召したようだがあまり出す機会はなかったとも。大膳ではふぐを調理したことはなかったそうで、陛下はふぐを召し上がったことがあったのかは書かれていない。

    いわゆる「宮内庁御用達」というシステムは特になかったそうで、基本的に一般人が普通に買える店で普通に買っていたそうだが、お米だけは買う店が決まっていたという。なぜその店から買うようになったかは著者も知らないとのこと。また、野菜や肉類、乳製品などは御料牧場から届いたという。調理に使う水も普通の水道水だったという。
     他に献上品というものがあり、松茸や鰻なんかは予算では買えないのでこの献上品頼みだったとも。特に京都から届く茶漬け用の鰻は陛下がことのほかお喜びで、書名にもなっている。
     めったに自分から何が食べたい、などと言われなかった陛下が、「あれ、まだある?」などとお尋ねになったそうだ。また箱根芋というものもお好きだったとか。

    大膳の仕事と普通の料亭などの仕事の一番の違いは、と問われると、毎日同じものを同じ味で造る料亭などの人に対し、毎日違うものを飽きないように作りつづけるところだ、と著者は答えている。お客は毎日、両陛下たったお二人で、一年中作りつづけるのだから言われてみればごもっとも。家庭の主婦もそうかもしれない。

     生物学者でもあられた陛下は、珍しい魚を刺身で出したときなど、どんな魚だったか絵を描いてみてほしい、などと要望されて、著者がこんなことなら捌く前にもっとよく見ておけばよかった、などと思い出しながら描いたこともあったらしい。

     両陛下が行幸啓に出られたときは、大膳は大掃除や消毒の時間になる。陛下がお出かけになるのを行幸、皇后さまがお出かけになるのを行啓、お二人でお出かけになるのを行幸啓というのは最近まで知らなかった(行啓には皇太后・皇太子・皇太子妃さまも含むらしい)。

     朝見の儀や供膳の儀など、皇室独特の儀式に伴う料理なども書いてある。神様に供える料理なので、調理よりも盛り付けがたいへんらしい。
     もともとは成田空港となったあたりにあって、現在は栃木県に移転した御料牧場では皇室の食事に使用する牛、豚はもちろん、羊や馬車をひく馬、雉酒用の雉まで飼育されているという。また小筆牛蒡や細大根など、皇室の儀式以外ではまずお目にかからない野菜なども栽培されているという。もちろんトマトやきゅうり、キャベツ、レタスやイモ類、白菜、いちご、たけのこなど普通の農作物もここで作られており、ビニールハウスなどは無い様子で有機農法だという。皇室の食事は、「はしり」と「なごり」が一番今も残っているものなのかもしれない。
     一年に一回だけ、以前は鴨のすき焼きを陛下は召し上がったそうだが、ある時これが野鳥保護上好ましくない、とニュースになり、それ以降は一切取りやめにされたという。

     陛下は晩年、好きだった鰻も残すなど急激に食欲が落ち、著者は正確な病名などは知らないまでも、食事を作る立場から見て案じることが多くなり、最後の普通の食事を作ったのも著者だったが、何を作ったのかは全く記憶からとんでいるという。その後、何度かくず湯を作ったことはあるという。
     手術のあと、一時的に小康を取り戻した時に、何か食べたいものは、と聞かれた陛下が答えたのは、さんまといわし、お月見の時期だったので月見団子だったという。

     昭和天皇のお人柄については多くの事が書かれているが、この本からもそれは伝わってくる。現在も大膳では当代の料理人さんが、今上天皇、皇后両陛下に同じように食事を作っているのだろう。
     皇室については何かと騒がしい昨今だが、この本にかいま見えるような穏やかなものが続き、天皇陛下のご負担が少なくなるような変化もあってほしいと願う。
     


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