「建設はじめて物語(清水慶一著)」メモ2
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「建設はじめて物語(清水慶一著)」メモ2

2017-10-27 19:00

    http://ch.nicovideo.jp/metabou/blomaga/ar1218592
    の続き。

    ・近代道路
     著者がここで近代道路といっているのは西洋式の道路の事で、具体的にはアスファルトやコンクリートなどで舗装されたもの。それまでの道路は砂利か土でできていたという。
     ニュースフィルムで、オリンピック前の駒沢通りが穴ぼこだらけで、車は左右に揺れ、さらに雨でも降れば深めの水たまりの連続で、沿線の店のシャッターやショーウインドーなどは泥はねで真っ黒、みたいなのを見た事がある。
     ではその西洋式道路はいつごろから日本に導入されたのか。本家はイギリスで、馬車交通が盛んになってきた19世紀初頭、ジョン・マガタムという人が考案した工法が近代的な道路工法の完成と言われているらしい。
     その特徴は安い工費で丈夫な道路を建設できた画期的なものだったという。それまでは丈夫な道路を作ろうとすれば石張りだったが、これには金がかかる。マガダムは路面が荒れるのは地盤が乾燥しないからだ、と見抜いて道路の両側に排水溝を設け、真ん中に盛り土をし、細かく砕いた石を道路の表面に突き固めて敷くというもの。なんだ砂利道ジャン、ということになるのだがこれが画期的だったらしく、19世紀末のシャーロックホームズが活躍するころにはイギリスの主要道路の90%がマガダム方式になったという。
     日本でこの方式の道路が最初に作られたのは明治3年の横浜居留地で、トーマス・デービスという人が施工したという。この道路は常に保守・管理が必要で、ローラーをかけたり散水をしたりしなければならない。デービス氏は日本最初の道路管理サービス業をはじめた人でもあるという。もしかしたらイニシャルコストは安くてもランニングコストは決して安くなかったのかもしれない。
     さらに神戸居留地でも同じ頃にマガダム式道路が作られ、明治5年には銀座煉瓦街にも道路が通ったが、著者は明治6年に建設開始となった生野鉱山道路というものを紹介している。
     兵庫県の山中にある生野鉱山からまっすぐ南に下り、瀬戸内海の飾磨(しかま)港までを結ぶおよそ50キロメートルの道路で、フランス人技師によって設計され明治九年に開通。
     これによって輸送コストが約9分の1になったという。道路維持に金をかけても、こういう用途であれば採算はあったのかもしれない。当時この道を行き来したのは馬車で、蒸気自動車を走らせる計画もあったという。
     マガダム式道路は埃が立つという欠点と、台頭してきた自動車のタイヤには適さないということもあって、やがてアスファルト道路に置き換わっていく。
    ※アスファルト舗装が行き渡った都会では、雨水が地中にしみこまないことによる弊害が出て来て、透水性塗装なども開発されていると聞くがいろいろ問題もあり普及率はイマイチらしい。一方でゲリラ豪雨などがくると側溝の排水能力をオーバーしてすぐ冠水してしまったりもする。自然相手はムズかしい。アスファルト舗装は幹線道路に限り、そうでない道路はマガダム式にしろ、みたいになったりして。

    ・橋梁
    隅田川に架かっている橋の多くは関東大震災の復興期、つまり昭和初期に架けられており、水上交通が今よりも盛んだったこの頃は、橋のデザインは陸上からだけではなく、水上からどう見えるかも考慮されていたと著者は言う。そして橋の姿の違いは、構造方式の違いでもあるという。
     鉄の橋を架けるには製鉄技術が伴わねばならず、世界最初の鉄橋は1779年にイングランドで架けられ、セバーン川という所の峡谷に全長100フィート、高さ40フィートの橋が作られたという。建設したのはアブラハム・ダービー三世という人物で、世界で初めてコークスを使った製鉄法を発明した同じ名前の人物の孫だという。
     日本最初の鉄橋は約90年遅れて1868年、江戸の慶応4年に長崎にかけられたくろがね橋というのが定説らしい。設計はオランダ人のフォーゲルという人と伝えられているが詳細は不明らしい。記録もしっかりしているのはこの翌年、横浜で架けられた吉田橋で設計者はイギリス人ブラントン。錦絵にも描かれているという。錬鉄で作られたとあるが、その材料をどこでどのように作ってどのように運んだか、などはやはりよく分かっていないらしい。
    ※外国では鋳鉄で橋を作った時代があって、それから技術が進歩して錬鉄や鋼鉄が使われるようになったが、日本は最初から錬鉄がメインで使われたらしい。
     中国なんかが固定電話が普及する前に携帯がメインの電話として普及したり、今後は電気自動車しか使わないようにするらしいとか、技術の最先端を走っているつもりが、技術革新で以前の技術で作ったインフラがかえってお荷物になったりすることはあるみたい。
     今自動車や電車がない国があれば、最初から電気自動車なり燃料電池車両などを導入できて、ガソリンスタンドや架線やみたいな余分なインフラを建設する必要なく、トータルで安く導入できたりするかもしれない。
     ニ番じゃダメなんですか、というのは揶揄される言葉になってしまったが、水木しげる大先生が言うように、人のうしろを歩いた方が得をすることもあるかもしれない。

    ・運河
     江戸から明治にかけて、都会では川や掘割りが水上輸送路して使われていたが高度経済成長期にそのほとんどが埋め立てられてしまった。大々的に運河の建設が行われた時代をヨーロッパではカナル・マニアと呼ぶらしいが、日本でも明治のほんのわずかだけ、このカナルマニアの時期があったらしい。オランダの土木技師、ファン・ドールトンという人物が宮戸湾の北の野蒜という寒村に港を作り、ここから北上川まで運河を掘って貨物を輸送するという計画を立て、野蒜から南には東名(トウナ)運河を掘ることになっていた。
     北上運河は完成したが、肝心の野蒜港の開発に失敗。北上運河は活躍の機会がないまま放置され、幻の運河になってしまったという。
     一方成功例としては琵琶湖疏水があり、これは明治18年から23年にかけて建設され、現在も使われているらしい。日本発の営業用水力発電所もここに作られたという。明治23年には利根運河もオランダ人土木技師、ムンドルによって完成しているという。
     だがカナルマニアの時期は短く、鉄道の発達によって運河は交通の主役ではなくなり、近代運河はわずか20年ほどでブームを終えたという。
    ※今、東京都内にもっと運河や掘割りが残っていたら、ゲリラ豪雨の緩衝や、夏の気温上昇抑制に役立っていただろうか。パンク寸前の宅配便なども、船を利用することでうまくやれたかも。蚊が発生するとか、マイナス面ももちろんあるのだけど。

    ・近代港
     何を持って近代港と呼ぶかは定義がむずかしいらしい。ペリーの黒船も接岸したわけではなく、沖に停泊して小型のカッター船などで人や荷物を運んでおり、これがより効率的に整備されればよいのだが、先に述べた野蒜港は福井に計画された三国港と共に失敗する。
     その原因は、オランダ人の持っていた水深の浅い海の築港技術と、日本の急に水深が深くなり、潮流の流れも速い日本の海とが合わなかったことによるという。
     オランダ人が日本から去り、代わってイギリス人が築港を担当するお雇い外国人となり、横浜が大型船が直接入港できるように大桟橋を備えた港として完成する。担当したイギリス人、パーマーは急逝するが、彼の設計で港は整備されていく。桟橋ではなく、直接大型船が接岸できる垂直な壁を海底から作りという大工事にはケーソン工法などが採用され、日本人技師、丹羽鋤彦の設計によって横浜港第二期工事が完成したのは大正6年。これが日本の近代港のはじまり、と著者は書いている。

    ・下水道
    著者によれば日本の下水道はヨーロッパのそれとはかなり異なる発達をしているということで、その原因のひとつは日本人が米を食べていたからではないかという。
     ヨーロッパでは路地裏に処理しきれない糞尿があふれ、それらを処理するために下水道を発達させざるを得なかったが、日本では米を育てるために近郊の農家が回収しにきてくれたので、そうした問題も必要もなかったのではという。私はよく知らないが、小麦にはそうした人間由来の肥料はほとんど必要としないらしい。
     日本人が下水道の必要を感じるようになったのは、化学肥料が普及して人間由来の肥料がほとんど使われなくなった戦後にようやく、ということだったらしい。そういえば東京23区内でも私の子供の頃は水洗便所が十分普及せず、バキュームカーが走り回っている地域でもけっこう残っていた。台所用水や風呂排水などの下水菅はあっても、まだまだ脆弱だったのだろう。
     パリやロンドンのようなあちらの大都市は常に糞尿と戦っており、コレラの大流行などもあってああ無情に出て来るような巨大下水道が作られることになったらしいが日本はその点のどかだった。幕末にコレラは流行ったが。
     日本最初の近代下水道建設は明治四年、横浜居留地でのことだったらしく、上水道よりも先に作られたらしい。下水管は陶製だったらしい。裏付けが全くない説としては、居留地のご婦人方の強く要望するところだったのでは、とも。時をほぼ同じくして神戸にもできたという。
     横浜はブラントン、神戸はハートという外国人技師が担当したが、横浜は10年で容量が足りなくなり明治13年に日本人・三田善太郎が煉瓦製の本格的な下水道に変更すべく第二期工事をはじめる。この人は東京大学理学部土木工学科の第一期卒業生だという。このあたりの資料は横浜市の横浜開港資料館というところで今も保存されていると書いてある。
    http://www.kaikou.city.yokohama.jp/index.htm

    ・水道
    江戸時代から、玉川上水みたいな水道はあったわけだが、近代水道とは言えないということで、著者の定義によれば①水をきれいにする施設②きれいにした水に圧力をかけて
    送り出す装置③水を必要な場所に届ける配管システム が揃っていなければならない。
     これも最初に作られたのは横浜で、明治20年のことだという。設計と監督を担当したのはイギリス陸軍退役将校、H・S・パーマーという人で当時としては一流の土木技術者だったらしい。
     一人当たりの水の使用量の産出など、基本計画書が残っているらしく、当時の日本人は85.5リットルを(書いていないがおそらく1日に)使用すると見積もられたという。当時は水洗トイレが普及していないので厠ではほとんど使わず、風呂に多く使うみたいな考えだったらしいが、内風呂はさほど普及していなかったろうから共同浴場などを含めた集落単位の算出なのかよくわからない。
     現在は1日1人186リットル使うと書いてあるHPがあったから今の半分以下だったわけだ。
    http://www.toto.co.jp/greenchallenge/value/q02.htm

     横浜では外国人や風呂屋など大口を別として、戸別にではなく戸外に共用栓を設ける方式で水道が作られたという。水源は津久井湖畔で、ここから野毛山まで水道管を敷設し、野毛山に今でいう浄水場や貯水池を作ったという。
     水道設備の大部分は地下に作られ、完成すると見えなくなる。その反動なのか、地上に現われるポンプ場とか濾過室とか給水塔とかの地上施設は建築的に非常に凝ったものが多いという。地下施設にかかる莫大な費用に比べれば、地上施設で多少意匠に金をかけても微々たるものだったりもして、若い建築家に自由にやらせたり、最新の流行を取り入れたりもしたらしい。

    ・近代ダム
     デ・レーケというオランダ人土木技術者がいて、世間一般には無名の人なのだが、弘法大師か、と思うほど、日本全国にこの人の名前を記した案内板とかに残っているらしい。
     この人は日本の近代ダムの生みの親みたいな人で、ダムといってもごく小規模で石でできていて、水を貯めるのではなく山から流れ出す土砂を防ぐ砂防ダムだという。だが小さくてもきちんと現代も使われている高水制という治水技術の思想で作られており、今も関係者によって大切に保存されていると書いてある。
     妻籠宿の近くにある「大崖砂防公園」というところにもこのデ・レーケさんのダムが残っているらしい。
    https://ameblo.jp/kisomeisui/entry-10448097574.html

    ・鉱山施設
    幕末や明治初期に西洋の技術を取り入れて作られた施設としては製鉄所や造船所が
    代表的なものとされているが、鉱山施設もそのころから作られているという。
     坂本竜馬などとの関係でも有名なトーマス・ブレーク・グラバーは、佐賀藩と共同で
    長崎の沖合いにある高島というところで炭鉱を開発する。島の地中から石炭を掘り出すため、
    深さ44mの竪坑を作る。北渓井坑(ほっけいせいこう)と名付けられたこの竪坑を担当した
    技術者はモーリスというイギリス人。
     垂直の穴をただ掘ればいいというものではなく、石炭などを地上まで引き上げるための設備や
    湧き出す地下水を処理する施設も必要となる。つまり動力式巻き上げ機とポンプの技術も必要となる。
     これができたのが明治2年だとのこと。それ以前にも佐渡金山や生野銀山でもエラスムス・ガワーや
    コワエニという技師が鉱山開発を行っているとのことだが、著者はこの高島を日本最初の近代鉱山
    施設としている。
     だが鉱山施設は次々と新しいものに作りかえられてしまう宿命もあり、具体的にどのような施設が
    いつごろあったのかということははっきりわからない方が多いらしい。

    ・近代製鉄所
     製鉄所は、黒船来航前から日本の洋学者たちが書物を頼りに、外国人技師の手を借りることなく
    建設に成功していた数少ない技術だという。
     主に大砲を作る鉄を得るために、鹿児島、韮山、水戸などに反射炉が建設されていく。
     大砲は外国船を打ち払うためにどうしても必要な武器だった。洋学者が参考にした教科書は
    オランダの「ゲシュンキュントギーテレイ」(ロイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法)という
    書物だったらしい。耐火レンガもこのために必要となり、苦労して製造されたという。
     だが書物にあるような鋳鉄製の柱が立ち並び、鉄製の梁の上をクレーンが走って砲身を吊るす、
    みたいな工場を建てる事はかなわず、当時の工場は伝統的な和風建築だったという。
     釜石に洋学者大島高任が建設した高炉は図面が残っていて、お寺のような建物だという。


    ・工場
     工場のはじまりと言えば長崎の製鉄所や薩摩集成館の機械工場などが有名なのだが、著者は
    こうした外国人技術者の手を借りたものではなく、日本人だけの手で作り上げた最初の工場は
    どこだろう、ということを紹介している。それは井上省三というドイツで学んだ技術者が作り上げた
    千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)だという。製絨所って何?というと、これはラシャ布を
    作る工場のことらしい。これは西洋の軍服の素材だったという。日本はそれまで木綿で軍服を
    作っていたが、木綿は水を吸うので雨にあえば兵隊はすぐにびしょ濡れで戦闘どころではなくなってしまう。なので軍服を外国から買うことになるがそれは高い。おそらくサイズも合わなかったのではと
    思う。
     井上省三は桂小五郎などと知遇を得て、軍人になろうとベルリンに行き、これからの日本に
    必要なのは兵学より実業であると悟って工場でボイラー炊きからはじめて次々に技術を取得して
    いったという。工場で14時間働き、家で6時間勉強したと書いてある。書いてあるので仕方がない。
    おそらく住み込みで通勤時間は無きに等しかったのだろうが。
     染色技術だけは企業秘密でどうしても教えてもらえなかったが、日本に婚約者が待っているのに
    工場の娘と結婚してその父親から技術を教わった、とある。
     森鴎外と違って、ドイツ人の妻、ヘードビヒと一緒に帰国する。
     千住製絨所は建設を担当したのは外国人技師だったが、工場の青写真を考えたのは省三だったという。
     夫人とは仲むつまじかったと書かれているが、婚約者の帰国を待っていたカメという娘の事はその後どうなったか書かれていない。NHKの朝ドラにしてもよさそうな話である。

    ・発電所
    戦前の昭和の一般家庭には、電化製品といえるものは白熱電球、ラジオ、電気あんかといった程度だったらしい。
     日本の電灯のはじまりとされているのは明治11年3月25日、工部大学校(東京大学の前身らしい)の講堂で、エアトンという先生がアーク灯を電信中央局開業祝賀会という行事で公共の前で点した時だという。これは蓄電池によるものだったらしい。「電気の記念日」はこれに由来するとか。

     明治15年には電力会社設立の動きがはじまり、大成建設の前身にあたる大倉組商会の建物内に発電機を据え、銀座通りにアーク灯を点したりもしたらしい。これが街灯のはじまりで、一般大衆に電灯が公開されたはじまりともなる。

     ちなみにエジソンが白熱電球実用化に成功したのは明治12年。アーク灯という、どちらかというと蛍光灯みたいな放電灯の方が当時は電灯の代表選手だったらしい。でももはや前世紀の遺物のようで、電気の専門家でも実際に触ったことのある人はほとんどいないだろう。
     今や白熱灯がLEDにとって代わられて遺物になりそうだが。

     昭和16年には東京電灯という会社ができて、明治19年に発電所ができる。五箇所が同時に作られて、第二電灯局が最初に落成したらしい。直流発電で、能力は白熱電球1600個をまかなう程度。1個100ワットとしても160キロワットだったという。
     30A契約の家庭を3キロワットと見れば53戸ちょっと分。小規模マンション1棟分だ。
     この発電所のエネルギー源がなんだったのか本には書いてないけど下のHPなんか見ると
    火力だったのかなという気がする。
    http://www.tanken.com/tokyodento.html
     
     一方水力発電所のはじまりは明治23年に足尾銅山や下野麻紡績所というところで施設内向けのが作られ、営業用に作られたのは運河の章でも出てきた琵琶湖から淀川に達する運河(琵琶湖疏水)建設の一環として蹴上発電所というのが作られたのが最初らしい。設計者は田辺朔郎という人。明治25年完成とある。
     電灯だけでなく、動力源としても使用でき、京都の工場を動かす構想だったという。
     初代の建屋はもう無いが、二代目の建物は現在も残っているらしい。2016年にIEEEマイルストーン賞(電気、電子に関する歴史的偉業に対して贈られる賞)を受賞しましたとある。
    http://www.suiryoku.com/gallery/kyoto/keage/keage.html

    ・電気通信
    ようやく最終章。日本での電気の利用は電力用よりも電信用の方が早かったらしい。グラバー邸など、明治時代の建物が多く保存されている長崎に、「海底電線の陸揚げ所」なるものが残っているらしい。竣工は明治4年。ただし、現在残るのは別の所から移築されたものだという。
     デンマークのグレート・ノーザという会社が、明治4年に長崎~上海間、長崎~ウラジオストック間に海底電線を敷設し、その線を地上に引き揚げた所に建てられたのだという。明治時代でデンマークの名前が出て来るのはめずらしいが、この会社はシベリア横断電信線というのを明治維新前からずっと作っていて、日本に来たらしい。大西洋には既に海底ケーブルが敷設済みで、長崎からシベリア~ヨーロッパ~大西洋~アメリカ というルートで交信できたらしい。すごい壮大な気がする。
    グレート・ノーザを漢字で書くと大北で、デンマークとあるけど実はロシア資本の会社らしい。なので日露戦争の時には傍受されたりして苦労したらしい。
    http://www.tanken.com/kaitei.html

     大久保利通がニューヨークから電報を打って、5時間で長崎に着いたという話もあるらしい。ただし、それから江戸に届くまでには3日かかったとか。
     一方イギリスはインド回りで中国まで電信線を引いていたという。
     日本の実用電信線は明治2年に横浜で、横浜灯明台役所と横浜裁判所という建物間、約760メートルをつないだのが最初。次いで東京~横浜、大阪~神戸、と増えていって明治6年には東京~長崎間に電信線が開通。
     著者の意見として、こうした基幹施設、いわゆる社会インフラの建設は、大変な仕事の割りに日が当たらず、やって当たり前。労力や努力の割りに社会的な注目もされないし、遺構もほとんど残らない。おそらく探してみれば、他にも様々な産業や技術の始まりを物語る建物があるのでは、そうしたものが発見されれば建設事業という地味な分野にも歴史の光が当たっていくはずだ、と結んでいる。
     私も日の当たらない分野の技術屋だったことがあるので共感する。ブラタモリででも紹介されればさらにいいかもしれない。

     この本は面白かった。前も書いたかもしれないけど、建築学科などに通う学生さんは読んでほしい。今は絶版みたいだけど、文庫とかに入ってほしいな。





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