「人の印象(永井龍男著)」
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「人の印象(永井龍男著)」

2018-02-19 19:00


     先に書いた「身辺即事」が前半、この「人の印象」が後半みたいになっている。
    編集者でもあり、小説家でもあった人らしく、多くの親交のあった文学者が登場する。

    ・菊池寛
     菊池寛は(歴史上人物なので呼び捨てします。以下同じだけど気まぐれに敬称をつけたりつけなかったりします)著者にとっては上司でもあり恩師でもある人。戦犯として公職追放されて終戦後まもなく失意のうちに亡くなった。
     その失意の時代、新潮文庫に菊地寛の作品を収録したいと編集者が訪れ、巻末の解説を誰に頼むか、という話になると、菊地は自分で書くと主張。新潮文庫の解説は他人が書く慣例であると説明すると、じゃあ吉川英治に話しておく。僕が書いて吉川英治の名前で出す。ということになったらしい。今も読めるらしい(私は確認していない)この解説に、戦犯と決め付けられた事に対する無念、悔しさのようなものが見えるらしい。

    ・三月七日
     菊地寛死去の電話を受けた日の記録。病臥中だが命にかかわることはないと聞いて、見舞いも遠慮している時期だったらしい。自分より事情を知っている人に嫉妬するなど、悔いとも怒りとも説明できない感情に襲われたりする、揺れ動く心情が記録されている。

    ・直木三十五
     芥川龍之介に比べて、作品や人柄があまり話題にならない気がする直木賞の由来である直木三十五氏は実際に接した著者から見ると侠気に富んだ文士らしからぬ文士で、正妻の他に何人も妾を抱え(向こうから押しかけてくるらしい)、愛妻には過酷とも無愛想とも見える態度をとるが周辺には常に数名の美女が傅き、その失費を補うために文芸春秋社が社員の倶楽部でもあり、直木三十五の執筆所兼妾宅でもある別館を本社近くに建てていたとか。四季を通じ和服着流し、ふくさ包みに原稿用紙とGペンのペン先をたくさん入れて持ち歩いていたという。芥川龍之介は中学校の教科書に載っていたりするけど、直木三十五はどんな人か載っていないのもわかる気がする。
     今だったらワイドショーとかで悪役に仕立てられていたかも。

    ・芥川龍之介
     芥川龍之介との著者の縁は一度寄稿を依頼しただけだそうだが、その親友であった堀辰雄や芥川の中学時代の英語教師であった広瀬雄という人とはもう少し縁があったらしい。

    ・横光氏の忌日
     横光利一氏と「夜の靴」について。短すぎた生涯であると書き、引き潮に導かれるように沖の彼方へ去ってしまったようだ、とも書いている。著者は命日が来るたびに焼香に通ったらしい。

    ・誠実の人
     49歳で世を去った横光氏は、誠実で不器用な人であったという。血気にはやる若い編集者などを、さりげなく自省の機会を与えてくれるような発言をする人でもあったという。

    ・宇野浩二
     著者は文芸春秋社の編集者として長く裏方を勤め、選考委員だった宇野氏に原稿が届かないと抗議を受け、呼び出されることがしばしばだったらしい。つまりこの人が最も熱心でしつこい委員だったということらしい。でも選考委員会の席では口数は少なく、選評を熱心に書いたという。酒を飲まないのに忘年会には出席して、プスンとした顔で酔った連中が騒ぐのを見物するのが恒例であり、何が面白くて参加しているんだろう、と著者は思っていたという。

    ・佐佐木茂宗さんのこと
     著者の10歳年長の上司だった方の思い出。奔放に社長として好き放題やらかす菊池寛の影で、専務として会社が当然やらねばならない実務を引き受けた人。作品も書く人だったがどういう事情か筆を折ったらしい。その入社後に発覚した不正事件の処理に手腕を発揮したという。戦後菊池寛が文芸春秋社を解散し、残った編集者たちが新文芸春秋社を設立する際にはその中心にかつがれ、文筆の世界には戻らなかったという。

    ・書きかけの手紙
     久米さんとしか書いてないけど、義兄でもあった久米正雄氏の死後残された書きかけの手紙に関する話。晩年長く病床に在り、なじみの旅館に最近調子がよくなってきたので春になったらまたそちらで静養させていただきたい、というような手紙を書いて、家人にまだ早いでしょうと言われて中断したという。これが絶筆になったとのこと。

    ・止まっている時計ー久保田万太郎追想
     うちの久保田
     久保田万太郎は戦災にあって鎌倉に居を移し、そこで花柳界育ちの人と再婚する。親切で世話好きな人て、久保田家には彼を慕う人が集まり、奥さんは三味線を弾いてもてなしたという。その人の口癖が「うちの久保田」だったという。

     鎌倉での日々
     久保田万太郎は60を過ぎる頃から公的な肩書きが増える。大学評議委員や講師、芸術院会員、文化勲章選考員、NHKの理事から紙芝居協会会長まで。二十歳年下で飾らない性格の夫人は、これまでと異なる夫人仲間との交際の中で無知で教養が無いみたいな陰口を言われるようになっていく。お金に関する感覚の違いなど、いろいろなことが重なって、二人の間はこじれていく。

     湯島天神町
     鎌倉で十年暮らした久保田万太郎は、67歳で湯島に転居する。奥さんとの仲はこじれにこじれて、著者や友人の林房雄という人のところに来ては愚痴をこぼす。聞かされる二人は、もう別れるしかないだろう、と言うのが常だが、本人は優柔不断に同じことを繰り返す、という日々だったらしい。そんな時、心機一転のためか湯島に移ったのだという。

      添え木を得て
     再婚した奥さんとの仲が険悪になった久保田万太郎は湯島に移転し、鎌倉在住の著者とは少し遠くなる。そのため詳しくは知らないが、この頃最後の愛人と呼ばれた人ができ、この人が万太郎の心を救ったようでもあったらしい。かといって正妻と別れることはできず、蛇の生殺しのような状態であったとも。この人は万太郎より一年早く亡くなり、その人のいない最後の正月はさびしそうだったという。

     久保田さんの酒
     久保田氏は食べものの良し悪しも言わなかったが、酒についても同様で、酒の味を楽しむのではなく酔うことが目的だったと著者は言う。
     小説についてもさらに同様で、自分の文に自分で酔って、作中人物と問答するかのごとくとなり、その世界が共有できない読者は拒否するというところがあったという。

     高田保さんのこと
     「ブラリひょうたん」という随筆が有名な高田保という人は、戦前は神出鬼没で銀座のあちこちを、今ここにいたと思えばもうあちらにいた、という感じで出版社や編集部や劇場や珈琲店を移動していたという。戦後は少し腰を落ち着けて「ブラリひょうたん」を新聞連載して評判となるが、著者は氏の最初の随筆「風話」というのを自分の関係していた新聞に連載してたことに誇りを持っているという。「風話」は後に「いろは歌留多」と改題されたという。


     吊りしのぶー「濹東綺譚」余話-
     著者が子供の頃の東京の夏は、無駄と知りながら風流心で買い求めてしまう、涼を感じさせrあれこれがあったと書く。風鈴、吊りしのぶ、箱庭、などと続いて、そのような失われ行く風物を詠んだ歌集「東京おもひ草」というものを紹介し、その収録作から銘酒屋というものを語る。酒を飲ませるという建前で、私娼を置いている、という店で、樋口一葉の「にごりえ」に登場するが、永井荷風の時代には私娼窟になっている。これらの作品には、夏と秋の間の、夏が一瞬秋に裏返って舞台裏を見せるような季節の寂しさが書かれているみたいなことを著者は書いているのだと思う。

    ・大佛さんのこと
     著者の近所に大佛次郞さんも住んでいて、よくその家の前を通ったという。鎌倉の道が次第に車が増えてうかつに歩けなくなっていく中、大佛邸の前を抜ける道は車も入って来ない風情のある道だったという。長く癌と闘い続けた大佛さんはうなぎ屋で倒れ、そこから救急車で病院に運ばれた。それが最後の入院になったという。著者ははじめて新聞小説を書くことになったときに教えを請いいくと、自分の創作ノートを貸してくれた思い出を語っている。
    著者は大佛氏の著作では「天皇の世紀」と「鞍馬天狗」を評価している様子。

    ・チェホフ叔父さん
     著者がまだ10代の頃、ロシアのチェホフは日本の志賀直哉とか、芥川龍之介とかよりもずっと身近に感じられ、自分でも作品を書こうとするときのお手本であったという。
     「地味に、素直に、あたたかく、かつたぶることなく」というのが著者がチェホフに感じていた印象であるらしい。かつたぶるというのは辞書を引いても出て来ない。だが、当時著者が読んだのは英語からの重訳で、決して名訳と言えないものも多く、後日神西清氏の名訳に触れると、チェホフはこんなに名文ではなかったはずだが、などと思ったという。

    ・「晩菊」の作者
     著者と林芙美子は同じ明治37年生まれで、密かにライバル心も持っていたらしい。林芙美子没後10年になると聞いて、発表時に世間の評価は高かったが、当時の自分は反発を覚えた「晩菊」という作品を読み返して見る。そしてあらためてこれは林氏でなければ書けない名作であったと思う。
     林氏はウソをつくとか約束を守らないとか何かと評判が悪い人であったが、著者の印象に残るのは、文運も財宝もほしいままにしながら心に晴れ晴れとしたものがなく、執筆に追われて疲れきった姿で 悪評や反感などどうでもよかったのではないか、と著者は思う。

    ・中山義秀を偲ぶ
     著者と交流があり、一緒に旅行に行ったこともある中山氏は、癌にかかり、手術で一度は小康を得るが数年後に食道癌で死去する。著者はその小康を得た時期に対談をしており、その時に生き生きとしていた印象が強く、死の知らせに驚いたという。

    ・ある同窓会
     銀座にあった小料理屋、「はせ川」のおかみさんが鎌倉の著者を訪ねてきて、転業を告げる。小料理屋を閉めて画廊になるという。著者は理由など聞かずに、では昔なじみの客を集めて同窓会をやろうか、と提案する。久保田万太郎をはじめ、多くの文芸仲間が集った店で、早世した主人もおかみさんも俳人としての顔を持っている。その席上で、河上徹太郎や井伏鱒二という人たちが最年長であったので、代表してお祝いの言葉や締めの言葉をお願いしたら、俺はイヤダみたいな感じだったのでさすがにムッとした、みたいな事が書いてある。
     その時、この唐変木め、と心の内に思ったらしく、今度はその語源が気になってくる。
     書ききれないくらいに、若き日の著者がいくつかのものかきのたまり場のような店で、にぎやかに馬鹿騒ぎして過ごした日々と、その日々を共に過ごした仲間が次第に欠けて行く寂しさが書かれている。
     この画廊は今も健在な様子。
    https://art-gallery-hasegawa.jimdo.com/%E7%94%BB%E5%BB%8A%E3%81%AE%E3%81%94%E6%A1%88%E5%86%85/

    ・円熟
     文学仲間の思い出から、年老いて円熟した書き手と読み手は何を求めるべきだろうか、みたいなことが書いてある。

    ・久生十蘭
     鎌倉に多かった文学仲間もだんだん世を去ってゆく。そんな一人、久生十蘭の思い出。

    ・「天草日記」なぞ
     著者は若い頃に数年間文学評論をしていた時期があり、力んでいた頃でもあって、けなすのが評論だ、などという意気込みで多くの作品を大上段に上から目線で断じたらしい。その中で
    上林暁という人の「天草日記」という作品を小説ではない、ただの紀行文にすぎない、みたいに書いた。
     それから三十年以上が過ぎ去り、上林氏の全集が出たのを機会に「天草日記」を読み直した著者は、若いときではないと書けない、みずみずしい小説だ、と思う。

    ・ボールがしたいー堀辰雄と「山繭」の頃ー
     堀辰雄は人を煩わすのも人に煩わされるのも嫌いという人で、著者との交流期間も早くなくなった事もあって短かったが、いくつかの葉書が残っている。それによると堀を怒らせるようなことを著者は言ったか書いたかしたらしいが、自分が何をしたのかもう覚えていない。 

    ・中原中也
     18歳の中原中也を、著者は22歳の時に小林秀雄に紹介される。中原は所かまわず唾を吐くなど非常に行儀が悪く、また相手をこの程度、と見切るととたんに態度が悪くなるようなところがあって、多くの仲間や家族に嫌われていたという。
     著者は中原宅に小林と一緒に行き、中原と中原が同棲中の女の4人で一泊したことがあるらしい。

    ・吉田君と子息
     吉田健一と著者は、最初文学仲間が集まる酒場で知り合い、著者が新聞を出すことになって、当時君臨していたGHQと交渉が必要となった際に、英語の才を頼んで渉外部長として招聘するはこびとなった。彼の父親は当時の総理大臣だった。ほどなくして著者は公職追放となって鎌倉に転居して筆一本の生活に入り、縁は切れる。
     が、一年か二年後、著者は鎌倉で近所に越してきた吉田氏と会う。著者も吉田氏も売文で細々と貧乏暮らしをしていたはずだが、おそらく父親に助けは求めずにいたのだろうとのこと。著者はその吉田健一氏の長男も記憶していて、学校の往復に虫を採集してポケットに入れて歩いていたと書いている。生前の吉田氏が出版社に借金ばかりしていると聞いていて、どうせ飲み代だろうと思っていたら、この子がアメリカ留学をしたときいて、そのためだったのか、と思ったとも。
     この長男は物理学者となった吉田健介氏のことみたい。

    ・へっぽこ先生
     「実は私はへっぽこ先生 私の履歴も変てこだ 給仕人だの居候 鮭缶詰製造人 看板の図案描き 羅紗問屋の番頭 それから学校の先生だ」と履歴に記したという川上澄生という版画家がいる。「私は私を喜ばせ また楽します絵を作っている」という言葉も残しているという。この人の「明治少年懐古」という絵本は著者の座右の書であったらしい。

     先生時代の教え子であった人が作った美術館があるらしい。
    http://kawakamisumio-bijutsukan.jp/index.php

    ・銀座の少年劉生
     銀座和光そばの薬屋の子供であった岸田劉生は、当時銀座に多かった百貨店の前身である勧工場というところで油絵を知る。有料の美術館兼画廊のようなものだったらしい。あまりに毎日熱心に通ったので、木戸番の老人がある日、「坊ちゃん、もう銭はいらないよ」と言ってくれたという。今こんなことをやったら、この老人はクビで、少年も画家にはならないだろう。

    ・クリスマス・イヴ
     ある年のクリスマス・イヴに著者は聖路加病院を訪ねる。ここには癌のためコバルト照射を受けている石川桂郎という人が入院している。だが病室は空っぽで、5時まで待ったが戻って来ないので書置きを残してとある懇意の店へ飲みに行く。その店に石川氏がやってくる。婦長さんの許可をもらって。何故ここがわかったかというと、書置きを見て鎌倉に電話して、著者が来そうな店のあたりをつけたらしい。不在だったのは看護婦さんとミサに出ていたからとのこと。聖路加には教会がある。
     コバルト照射の効き目がいいらしく、副作用もほとんど無いという。だが婦長さんと約束した時間は探し当てるまでにもう過ぎており、1杯だけ乾杯して著者は彼をエレベーターまで送る。クリスマスイヴにこれから病室に帰るのが、どれだけ侘びしいだろうかと思う。
     石川氏は翌年4月に鎌倉の著者を訪ねて桜の句会に参加するが、その年のクリスマス・イヴを迎えることなく世を去る。

    ・おもかげ
     山本周五郎さんが直木賞を辞退したとき、事務を担当していたのは著者だった。だが記憶には残っていないという。押し付けがましいが暖かく、ひとなつこい人だったと著者は書いている。

    ・「銭形平次」
     銭形平次の掲載誌の編集担当だったことがある著者。雑誌の方の売れ行きが悪く、リニューアルのためこれまでの連載は打ち切りにしようということになり、連載がはじまったばかりの銭形平次も対象となった。野村胡堂氏にその旨伝えるため、若い社員を使いにやった。だが胡堂氏からの無稿料でもいいから書かせてほしいとの返信を持って若手社員が帰って来たため、連載継続となったという。その後銭形平次は長期に書き続けられ、国民に愛される作品となった。

    ・村松梢風
     鎌倉に住んでいた小説家・村松梢風は大佛次郞に劣らぬ猫好きで、鎌倉には夕河岸という午後にとれた魚の便があるが、そこで鮮魚をたっぷり買って行くのが村松家で、おネコちゃんのためだったという。本人の死後、仏壇に焼香にやってきた人が骨壷をおがんだら、ネコの骨だったとか。

    ・小野佐世男
     小野佐世男という人は一時期竹久夢二の後は彼か、と言われたくらい色気のある女を描く漫画家で、その女がマリリン・モンローに似ているということで声がかかり、モンロー初来日の際に対談が組まれていたという。だが飛行機が遅れて、その時間つぶし日劇にストリップを見に行った彼は、そこで心臓発作のため急死。対談は実現しなかった。
     空談と呼ばれた、根拠のない話の名人で、そのため急死も空談だろう、と信じてもらえなかかったという。その空談は、活字になるとさほど面白くなく、その場で聞いてこそ大笑いできる種類のものだったとか。誰でもいいような絵を描かされていたこの人を見出して、好きな画を描いてくれ、と最初に依頼したのが著者だったらしい。

    ・古川緑波
     著者が通っていた当時の文芸春秋社は、もともと旗本屋敷だったのが有島武郎邸になり、その跡地が文芸春秋社になったとのことで敷地も広く食堂もあり、後に有名になる多くの文学者や演劇人が出入りしていたエネルギーに満ちた場所であったという。後の古川ロッパも社員として勤務していたそうで、底抜けに陽気な人気者だったが、上には受けがいいぶん下のものには見下した態度を取るところもあって、平社員の間では評判がよくなかったという。だが菊池寛の物真似は絶品で、そんな若手社員も笑わせたという。

    ・里見さんの家
     著者は鎌倉に移り住んでからも六度の転居をしたtのことだが、著者よりも古くから鎌倉に住んで、著者よりも多く転居した先輩に里見弴氏がおり、その家は常に家具や庭木1本に至るまで里見氏によって吟味され、里見さんの家になりきるのが常だったという。氏の書く小説も、ひとつひとつの言葉が吟味され、磨きぬかれたものだったという。

    ・近作「俳人仲間」ー瀧井孝作ー
     芥川賞創設から半世紀近く、審査の任にあった瀧井孝作氏は、久米正雄氏からは微苦笑しながら石工のようだと例えられたという。堅い石に彫りつけるような文章であったらしく、本人の風貌もそうだったらしい。80を過ぎても瑞々しい作品を書いていたという。

    ・別冊付録のことー井伏鱒二ー
     著者は井伏氏と将棋を指すようになって50年、この文の執筆時(昭和48年)でも月に一度は指すという。旅行で一緒になる時も、行き帰りの列車の中で、折り畳みの盤で指すという。その際は、将棋世界の別冊付録を対戦前に読んでくるそうで、著者はずるいと言っている。

    ・黒いソフトー小林秀雄ー
     批評家として著者の文学仲間であった小林氏は、酔って水道橋駅から何メートルも落下したり、酒の席で論争になって殴られ続けたり、偽者が現われて警察の取調べを受けて粗雑な扱いを受けたりと、結構ひどい目にあったりしているらしい。著者は常に考え続けているから周りのことなど目に入らないのだろう、みたいに書いている。
     人に礼の飲みものをおごると言って財布を忘れたり、電車で乗り合わせた人が慌てて降りようとして、ホームに下りたその人が帽子を2つ持っていたので(一つはかぶって、もう一つは手に持って)いたので慌てものだなあ、と笑っていたら自分の帽子だった、みたいなエピソードにことかかない人でもあったらしい。

     解説によれば文章で見ると静かに毎日を過ごす穏やかな人みたいな印象もあるが、かなり癇癪持ちの人でもあったらしいけど、書かれた文は静かだなと思う。
     


     


     

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