「冬の標(しるべ)乙川優三郎著」
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「冬の標(しるべ)乙川優三郎著」

2019-05-14 19:00




    ・幕末の頃。思ひ川の流れる、名前ははっきり書かれていない八万石の小藩に生まれて閨秀画家を目指す女性の話。閨秀という言葉は知らないので調べてみると『学問・芸術にすぐれた女性』みたいな意味らしい。つまり才能のある女性の絵描きということか。

     彼女が生まれたのは大番頭をつとめる三百三十石の上士の家で、由緒ある家柄。女の人生は産まれたときから親に決められているようなもの。弟に家督を継がせるので年頃になったら釣り合いのとれる名家に嫁入りしないといけない。
     それでも画塾に通うことを許されて、ここで二人の友を得る。一人は町人で蒔絵師の息子。もう一人は二十二石の祐筆の次男だった。彼女に比べれば二人とも貧乏で、身分も低い。絵に関する情熱は三人とも同じで、絵の話をすれば身分や境遇の差も時も忘れる。そんな楽しい時は長く続かず、彼女は三百石の御側用人の息子に嫁ぐよう命じられる。一人息子なのでいずれは家を継ぐことになる。考えようによってはいい縁談であり嫁入りはかまわないが絵を止めたくはない。だが両親はとりあってくれない。
     絵の先生が書画会を開くことになり、弟子の絵も一緒に出品されることになる。ここで才を認められれば道が開けるかもしれない。だが直前に水害が襲い、それどころではなくなってしまう。彼女は師に清秋(せいしゅう)という号をもらい、不完全燃焼の状態で画塾もやめさせられて嫁ぐことになる。
     夫は優しい人物だったが絵に興味はなく、絵を描くことは止めなかったが舅も姑も同居する大身の武家の嫁の立場ではそんな時間はとてもとれなかった。舅は倹約第一の金に細かい人物で、妻も息子も彼に遠慮して家の中では自分を押し殺して暮らしている。やがて息子が産まれるが、入れ替わるように夫は死んでしまう。実家は彼女を呼び戻そうとしたが、子がある事が災いしてうまくゆかず、彼女は子供を育てるための女中のような立場で婚家に残される。やがて舅が死ぬと、成人男子のいない家は一気に三十石に零落してしまう。これが28歳の時である。

     それから8年、絵と全く無縁に子育てと当主の仕事に追われ暮らしていた彼女は、零落を嫁のせいにする姑といさかいを起こしたのをきっかけに久々に師のもとを訪ね、ふたたび絵の世界へかかわりを持つようになる。
     息子が14歳になり、今は死んだ父を継ぐ弟に元服の烏帽子親を頼もうと実家にも久々に立ち寄って、これで息子も一人前です、と彼女は姑に今日から毎日1刻を絵のために使います、と宣言する。姑は聞き入れないが、もう彼女の抗議は聞かないことにしている。息子は賛成してくれる。
     姑はそれからも執拗に嫁を責め続けるが、次第に夫の悪口になり、自分がこの家に嫁に来ていかに苦労させられたか、という話になっていく。聞き流すが愉快ではない。
     師は「憂鬱なときは、憂鬱を描けばよい」という言葉を聞く。

     そしてかつての友とも再会する。貧乏侍だった男は百五十石の家の婿となり、蔵奉行を勤める破格の出世だが、男子に恵まれず娘が二人。そのために婿としては肩身が狭い、と笑う。
     町人の子は父を継いで腕のある蒔絵師になっている。今度は三人で会おう、という話になる。

     姑はますます毒舌となり、息子は自分の祖母を 死んだ人間の悪口を言って何が楽しいのか、と嫌うようになるが、痛風をわずらってからはすこしおとなしくなる。

     かつての友三人と語り合う機会が訪れる。彼らはそれぞれが描いた画を持ち寄って、画に対する情熱を持ち続けていることを互いに知る。先生と相談をして、以前流れてしまった書画会を開きたい、という話になる。

     蔵奉行になった男とは時々会うようになる。彼から、先生が窮乏していることを聞く。時代は幕末に向かい、長州征伐が話題になるご時勢。先生の兄は舟奉行をつとめており、立場もあって実家としても弟の画塾を援助していられる状況ではなくなったらしい。
     蔵奉行が書画会をやろうというのは、先生の画も一緒に出せばこれが売れて生活が助かるはず、という思いもある。二人は会えば画の話しかしないのだが、主人公には貧しさに追われる生活の中で大切な時間になっていく。

     息子が元服し、烏帽子親を実家を継いだ弟に頼んだこともあって夫が選んだ家が零落したことからなんとなく縁遠くなっていた実家の母とも交流が復活する。だが母親は主人公の絵に対する思いは理解しない。

     幕府は長州征伐を決め、主人公の藩は長州攻めには参加しないものの、家中から神奈川に大勢の人を送る必要ができる。その中に主人公の弟も、友人の蔵奉行もいる。このため彼が中心になって準備をすすめていた書画会はまたしても延期となる。
     蔵奉行が何故神奈川へ行かねばならぬのか、誰も説明してくれなかったが、藩内の実力者の勢力争いがその陰にあるらしい。
     この藩では長らく実力者の家老が藩論をまとめてきたが、この人物は勤皇派に近い考え方で、幕府の弱体化を見極めて距離の取り方を考えている。だが最近保守派の家老が実権を奪った。この保守派は幕府第一、あくまでも幕府を支えるという考え方。
     主人公の息子は母親に自分も蔵奉行も勤皇派であること、勤皇派の要人は神奈川に送られてその隙に保守派が実権を握ったこと、主人公の弟は神奈川に行ったものの監視役としてのことで反対の陣営に属することを語る。

     主人公は政治のことはわからぬが、息子と蔵奉行の無事を願う。やがて将軍家茂が大坂で死去し、長州征伐が失敗に終わると保守派はぐらついて勤皇派が優勢になってくる。

     主人公は一枚の絵を仕上げる。これまでにない自信作になる。その頃蔵奉行も神奈川から戻って来る。彼は藩内の勤皇派の中心人物になっており日夜奔走しているが、書画会も彼の尽力で開くことになる。最初に計画して流れてから、20年過ぎての開催となる。主人公の弟は派閥の異なる蔵奉行と姉が交流するのを案じて忠告して来るが、主人公は聞き入れない。
     ようやく開催された書画会には絵の先生もやってきて、彼女の絵に好意的な評価をして帰って行く。蒔絵師の絵が一番よく売れるが彼女の作品も数点売れる。はじめて絵が金になる。自信作も母親が気に入って買い上げてくれる。彼女が絵を習うことに反対だった母親である。

     だが藩内は荒れていく。保守派と勤皇派が斬り合うようになり、主人公の息子も傷を負う。
    この頃既に主人公と蔵奉行は強く惹かれあうようになっている。子供の頃から惹かれあっていたのに身分の差からそうなれなかったのだ。主人公の夫は既に無く、蔵奉行と妻との間は冷え切っている。蔵奉行は藩が落ち着いたらいずれは、と決意を口にする。
     
     そんな中、蔵奉行は神奈川に出向き、そこで刺客に斬られる。主人公は狂ったように彼の顔を描き続ける。

     ずっと気の合わなかった姑が逝く。だが死の直前、貴方には絵があっていいわねえ、私は家に縛られただけのつまらない人生でした、でもこの家の不幸は私が全部背負ってあの世に行きますから、あなたはお好きなように生きなさい、みたいな言葉を残す。

     彼女は蔵奉行の絵を仕上げ、それを彼の菩提寺に奉納する。

     蔵奉行の死が打撃となって藩論は保守に傾くが、主人公の息子は地道に活動を続け、ついに勤皇派が決起して政権を取り戻す。この時息子は大砲を撃って貢献する。大政奉還の10日後のことだった。

     藩内が落ち着きはじめたところで主人公は息子にある決意を話す。江戸に出て画家を目指すと。この時38歳である。家や子供との決別でもある。婚家からも離れ、父の弟の養子になる形で実家の籍に戻ることになる。

     このことを先生に報告すると、江戸の画塾を紹介してくれる。この時紹介された晴湖という女流絵師は実在の人物。岡倉天心の師にあたるらしい。

     実母とも別れを済ませて、実家の女中に見送られて主人公は江戸に旅立ってゆく。

     ちょっと目に付いたセリフとか
     
     泣こうが笑おうが、自分の一生の不出来を人のせいにはすまいと思わずにはいられなかった。立ち向かわずに、人のせいにして救われるものでもないだろう。P175

     人間はどんなときでも衣食のみでは生きていけないものでしょう。P203

     いましかできないことがあって、これだけは譲れない。P208

     何かに夢中になれるのは若いときだけかと思い込んでいましたが、あなたを見ていると長い間の間違いに気付かされます。P244

     世間が何と言おうと、もう失うものもないでしょう。P248

     人に壊されたと思うのはまちがいで、自分に生きてゆく力が足りなかったのではないか。P298

     したいことをして最後を迎えるまで何かを追い続けられたら、人間は幸せですよ。P307

     著者の人生観なのだろうと思う。


     現代なら実家を離れて都会に出て漫画家になる、みたいな人は珍しくないけど江戸時代はまず考えられないことだった。でもそんな時代でも先駆者として名を残した人はいて、その陰で名を残すことなく消えていった人もいるのだろう。でも消えた人が不幸だったとは限らないかも。

     現代は逆に家を残すために生きる人の方がまれで、やろうとしてもいろいろ圧力を受けて難しくなった。外に出たい人を家に縛り付けるのもあれだろうけど、家にいたい人が無理やり外に追い出されるのもあれだろう。
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