「夜の小紋(乙川優三郎著)」
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「夜の小紋(乙川優三郎著)」

2019-05-16 19:00




    ・芥火
     深川で16歳から水茶屋の女となり、5年勤めて旦那を得て堅気になったものの相手が年寄りだったので9年目にお役御免となった女。美貌だけを武器に生きてきたが、正直いつ来るかわからない旦那を待つだけの生活に飽いていた。
     新しく刺激を求めて、彼女は着物に夢中になる。着道楽でなく仕立て道楽とでもいうのか、針の稽古を重ねて毎日同じ着物の半襟を付け替える。
     蓄えはそこそこあり地味に暮らすだけなら困らないが、何もせずにはいられぬ性分。いっそ娼家を経営しようかと、自分が夜の女だったときの水茶屋の女主人に相談に行く。女主人は娼婦の出でさして器量も良くなかったのにいいパトロンをつかまえて、自分の娼家を持ったやり手であり、主人公はかあさん、と呼んでいる。彼女はかあさんの店の看板娘だったのだ。旦那を持つときも円満退職みたいなもので、今も交流がある。かあさんは淫靡な商売をしながらも、彼女に金も愛情も分けてくれる人だった。
     かあさんの口癖は「生きるのが商売だから」。40代の今も瑞々しく、あさましいような欲望も持っていない。人の恨みを買ったこともない。

     彼女はかあさんの助けを借りて、金を出してくれそうな昔の客を探し出す。だがなかなかうまく金を引き出せない。女郎付きの娼家の出物があるのだが、いまひとつ価格が折り合わない。彼女はかあさんに金を借りる。返せなかったらまたかあさんの店で働くという約束をして。そして別の男から金を引き出そうと次の可能性に向かう。生きるのが商売だから、したたかに生きてやると。

    ・夜の小紋
     魚油問屋の息子に生まれたが、店は兄が継ぐので自分は好きなことで身を立てようと紺屋で小紋の下絵を描いたり型紙を作ったりしていた男。
     兄の急死で実家の主人となることを強制される。実務は番頭と父親がいればよく、兄の8歳の息子が一人前になるまでの看板のようなものである。
     紺屋で知り合った女と所帯を持つつもりだったが、兄嫁を嫁に直して家を継げとも強要される。これは何とか断わったが、代わりに好きな女と一緒にもなれなくなる。そういう妥協だった。囲うことはできたのだが女はそれでは妾ではないですか、と去ってしまう。やがて店も辞め、行方知れずになる。
     彼は昼間は商売にせいを出し、夜は小紋を考えるという生活を送るが生活の充実が無い中では創作の充実もない事を知る。やがて商売にも危機が来て、これを乗り越えるころには商売の事で頭がいっぱいになり、小紋を考える余裕も無くす。紺屋で染師に見せてもこんな小紋じゃだめだ、としか言われなかったこともある。
     やがて父親も亡くなって堂々とした大旦那になるのだが、どこか気分が晴れない。そろそろ兄の息子に家を譲る刻限でもあるが、小紋の世界に今更戻れる気もしない。
     ある日着物好きで話が合う料理屋の女将から、面白い小紋を見つけましたの、と話を聞いて久々に小紋への興味が戻り、昔いた紺屋へ足を向ける。知っている職人はベテランの一人だけ。彼と話すうちに、あの女が店を去ったのは男と別れたからではなく、彼女が型付けや引き染めという、女がやらない仕事までを覚えたがり、親方がこれを女にはできない、と退けたので別の店に学びに移ったのだという。
     男は彼に女の行き先を聞くが今更訪ねてどうする、と思いあぐねている。

     料理屋の女将が手に入れた小紋を染めて着物に仕立て、男に見せてくれる。その着物を染めたのは彼女だ、と男にはわかる。
     彼女と競いたい、もういちど小紋を彫ろう、と男は決意している。

    ・虚舟
     隅田川河口の鉄砲洲あたりに一人暮らしの72歳の女性。深川に嫁に行った50歳の娘が訪ねてきてはきちんと暮らしているの?と様子を見に来ては、またお酒飲んで、などと叱って帰ってゆく。娘は心配で同居をすすめに来るのだが今のところはこの暮らしが気ままでよい。
     今も炭と漬物の行商で休みなく働いている。どうにか食べてゆけるし60歳を過ぎて覚えた酒も楽しい。とりたてて幸福ではなかったかもしれないが不幸ではない。気に入ったここを動くつもりはない。安らかな死を求めておびえるくらいなら、与えられた人生を楽しく生きたほうがいい。彼女はそんな人生観を持っている。
     彼女がここに至るまでには、零細ながら華やかな商家の長女として不自由なく育った日々から父が倒れて12歳で乾物屋に奉公に出て母親と弟の生活を背負うことになり、そのまま浪費を続ける母に人生を吸い取られるように働き続けて20歳で表具師に嫁ぎ、それでも金の無心に来る実家にたかられ続けながら娘を育てて嫁に出し、夫が死ねばよそに女と子供がいたことを知る、みたいな人生を過ごしてきた上での諦観のようなものがある。
     夫の女に金を渡して無一文となり、そこからここまで独りで生きてきた。寂しくはあるが自分一人のことさえ考えればよい気楽さは、人生ではじめて得たものである。
     一日働いて、帰ってきて飲む2合の酒を楽しみに穏やかな気持ちで過ごす。上を見てもきりがない。これでよしとしなきゃ。

    ・柴の家
     17歳で実家より格上の300石の旗本の家に移り住んだ男。いずれそこの14歳の娘の婿になって家を継ぐ。義父が病みついて余命いくばくもないことから実家に話が来て、本人には相談も断わる自由もないままにそうなった。
     そこにいるだけでそれなりの生活ができる気楽と言えば気楽な人生。だが家付きの妻の気位は高く、性格も容姿もあまり良くない。男子が産まれれば貴方の役目は終わり、といわんばかりに阻害されて屋敷内にいても心は空虚。彼の居場所はどこにもない。
     20年もそんな生活に絶えて、ある日男は決意する。かねてより顔見知りの陶工に弟子入りしたのだ。年老いていた陶工はやがて死ぬが、彼の孫娘が跡を継ぎ、男も通い続ける。
     焼き物に命をかけて身なりもかまわぬ天涯孤独となった娘だが、ふと互いに引き合って間違いを犯してしまう。だがこれに溺れては互いに作陶ができなくなる。互いに男女でも師と弟子でもない距離を保つようになる。そして数年が過ぎる。
     妻と姑がこれを知り、ふしだらな、と責め立てるが家名を守り、体裁を整えることしか考えない女二人にもう従う気のない男はさっさと息子に家督を譲り、女のもとへ行きたいと思う。
    女がほしいのではなく、彼女と一緒に陶芸を極めたいのだ。彼女はいつか窯をたたみ、修行のため九谷へ行きたいと言い出す。男が一緒でもいいのかわからない。
     男が家をついに捨てて彼女の元に行くと、5日後に窯を炊くから焼きたいものがあれば作って、と彼女は告げる。5日で何ができると問えば、猿のしがみついた茶碗ならできるでしょと答える。それは男がここに来たばかりの頃、まだ22歳だった彼女にいつか作ってやる、と言った茶碗だった。家を捨てた男がここにいていい、という彼女の答えだった。

    ・妖花
     仏師の夫が身体を壊し、嫁入り道具として持ってきた着物を泣く泣く手放した主人公。幸い夫は健康を回復して仕事に復帰。今は仕事で三月も家を空けるほどの売れっ子である。だが息子と家を守るだけの生活に退屈を感じている。夫が仕事場を郊外に移したこともあり周囲は寂しい。退屈というより孤独である。生まれ育った浅草の幼馴染を訪ねるくらいしか楽しみがない。そんな生活を続けるうちに気鬱を感じるようになる。
     そんな時に自分が売った小袖を着た美しい女性を見かける。なんとなく見ていると彼女は素早く櫛を万引きする。困窮しているわけでもなさそうなのに。思わず女の後を追ってしまうが気付かれたようで断念する。

     寺子屋に通う息子は彼女の話し相手にはならず、家庭の団欒というものがない毎日に、ある日変化が。夫の妹を名乗ってやってきた女は、明らかに夫の愛人である。別れることになっていたらしいが約束の手切れ金がまだなので、と催促に来たのだ。
     その日から、彼女は爪楊枝とか耳かきとか紐とか、細かなものを万引きするようになってしまう。昔売ったのと似たような小袖をわざわざ古着屋で求め、これを着たときは別人のような気になって、欲しくもない物を盗んでしまう。子供がやがて母さん、これどうしたの?といぶかりはじめる。愛人である柳橋の女は手切れ金がまだですよ、と圧力をかけてくる。
     彼女は幼馴染にどうすればいいだろう、と相談する。夫の女道楽に散々泣かされたが家庭を守りきり、今は未亡人の彼女はたいしたことないじゃない、と答える。修羅場を切り抜けてあっけなく夫を病で奪われた彼女には、その修羅場が夫を吹っ切れる支えにもなったという。
     幼馴染と話すうちに、彼女は夫には 嫌だ と言う言葉しか言ってこなかったことに気付く。夫の長い不在が嫌だ。転居が嫌だ。さびしい家が嫌だ。裏の竹林が嫌だ。蛇が出るのが嫌だ。

     やがて戻ってきた夫に彼女は思いのたけをぶつける。夫の女は自分の万引きかもと思う。やがて息子が帰って来て、久々の家族団欒となる。彼女は万引きの時に着た服で、別の自分になって家庭を修復しようと思う。

     帯には「もう引き返せもしないし とどまることもできない」とある。人生も半ばをすぎると多くの人が思うだろうことで、そこからいきなり人生が良くなることはめったにない。でもあきらめればもっとずるずる落ちてしまうからあがくしかない。

     どの話もそんな感じで今ここにいる、という女性たちの話みたいな。
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