「春宵十話(岡潔著)」表題作以外(教育関係)
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「春宵十話(岡潔著)」表題作以外(教育関係)

2019-06-26 19:00





    ・私の受けた道義教育
     著者は1901年生まれ。この文章を書いた頃は60代。変動の時代を生きたといえる。
    著者はそれでも社会の秩序はかろうじて保たれてきたと見る。それを保ったのは道義心だと言う。決して法律なんかではないと。
     日常の安全は人が法的責任を持つからではなく道義的責任を持つことを信頼しているからだ、と著者は主張する。

     著者は祖父からは一つだけ、「ひとを先にして自分をあとにせよ」ということを5歳から祖父が亡くなるまで十何年言われ続けたという。この祖父は私財をなげうって地元に道やトンネルを作った人だったらしい。
     父親はいっさい著者に小遣いを与えず、そのかわりほしいものをその理由をつけて言えば買ってくれたらしい。おかげで学問に集中できたとのこと。

     著者のいう道義とは、人の悲しみがわかるということで、人が喜ぶからこうしなさい、ということを教えるより 人が悲しむからこうしてはいけない という事の方が子供にはわかりにくいらしい。さらに人が悲しめば自分も悲しくなるということがわかるのは二十歳くらいだろうという。もののあわれを知るというやつ。
     昔は高等学校を出る頃にはもののあわれがわかっていたみたいな。

    ・絵画教育について
     絵画教室みたいなところでした話らしい。
     絵を子供の教えることは大事なことで、しっかりやってください。空間というのは実在するという感じが強いので実在すると思われていますがアインシュタインによって物理学的空間が否定されました。いまや超越空間しかありません。数学的空間は実在するか調べている最中です。
     物質とは何か、となると以前はエーテルというわけのわからぬものがあって不滅であって、それが物質ということになっていました。ところがエーテルがなくなったために超越空間というのが出てきました。これは物理も数学も超越して頼りになるものが何もありません。
     頼りにならないといえば美もそうで、美人の定義は変わり続け標準などないことになります。本当は美などないのです。美というものが外にあって我々が受け止めるのではなく、我々の中に情緒があって外にある美を見つけ出すのです。
     車のうなり声をやかましいと思うかどうかはこちら側が決めるのです。
     絵画は情緒を育てるのに適していますのでどんどん絵画教育してください。学問と芸術のつながりがなければ数学的発見などできません。近ごろ科学振興などといいますが、情操を取り去ってしまったら何もできないのです。

    ・一番心配なこと
     「春宵十話」を新聞に連載してから読者の反響について。具体的にどうだったのかは書かれていないけどその手紙や直接訪ねてきた学生の様子を見て、そのような人々を作る今の教育が心配だ、と書く。
     人の基本である他人の感情がわかる、物の判断ができる、ということは個人個人が深く考えないと身につかないが今の教育では教育学ばかりがはばをきかせて講義、セミナー、集団行動とディスカッションばかり、自分ひとりでは何も考えられない人が増えているように思う。
     日教組も怒りにまかせた団体交渉ばかり。人は怒っている時に正常な判断を下せるものだろうか。その気持ちで授業ができるものなのだろうか。進駐軍が作った今の教育制度にはもともと無理があるのだが、これ以上悪くならないか心配でならない。

    ・顔と動物性
     授業で接する若い人、特に女性の顔が変わってきたように思うという話。どこか動物的になってきたように感じる。地方に行くと動物性はやわらぐが、代わりにしまりが無い。戦前女学校を出た人たちとは全然違う。礼というものが全く身についていない。というような話。

    ・三河島惨事と教育
     いわゆる三河島惨事について最初の信号の見間違いは誰にでもおこりうることだが、その後の処置が悪く連鎖事故を引き起こし、多くの人命が失われることになったがこれは教育の結果だろうと書いている。
     孔子が教えたように一つの実例を教えてそこから暗中模索させて全体の法則を悟らせるのではなく、最初から法則を教えてしまうのでは人間の智力は育たず自分で判断できるようにならない。
     テストは採点して答えが合えばそれで終わりではなく、自分がこの答えで合っているのだと判断できるようになることが大事で、智力があるというのは答案が書けることではなく他人が書いた答案が合っているか判断できることだと説く。
     進駐軍が持ち込んだグループ学習はボスができるばかりで言語道断、スポーツもアルバイトも道義心を持たないうちにやるのはよくないというのが著者の主張の様子。
     
    ・義務教育私話
     著者がどういう教育を受けて育ったか、どんなことに興味を持ったかの経験談と、今の教育がそうしたものから外れていっているのではないか、という苦言のようなもの。
     三歳くらいまでの幼児は無垢清浄な心を持っているので、母親は子に信を教えるべきだという。幼児の手をとって出かけ、幼児がもの珍しげに周囲を見回している時に知人が来たからといってその手を振り切って挨拶などしてはいけない。幼児は見知らぬ街でも母親の手を握っていることで安心しているのだから。そうなると幼児は誰か人がすれ違うたびに手を振り切られまいか、と怯えるようになる。母親が信頼を裏切ったからである。
     四歳くらいになると幼児も無垢ではなくなってくる。この時期は親は言行の一致によって信頼を得なければならない。
     六歳くらいになると子供の記憶力は頂点に達し、この時期に覚えたものは一生忘れない。また喜んで覚える。昔寺子屋で論語の素読をやらせたのもこの時期である。なるべく大切なもの、美しく口調のいい歴史や詩を覚えさせるとよい。
     また知的興味も出て来る。何でここに何々があるの みたいな質問をする。これを何馬鹿なこと聞いてるの、などと一喝したりしてはならない。
     著者はこの年頃にたまたま親戚の中学生と同じ部屋で寝たことがあって、この時相手が開立の九九(2の三乗=8 をににんがはち、3の三乗=27をさざんにじゅうしち とか言うやつ)を唱えていたのでそのまま丸暗記してしまったという。
     小学校に上がって学校で何をやったかはさっぱり覚えていないが、この頃に読んだ本は覚えていて「魔法の森」という作品のあらすじを書いている。「おとぎの花籠」という本に入っていたらしい。調べると木村小舟(きむらしょうしゅう)という人の作らしい。
     「ヒワの行方」という作品についても書いている。これは雑誌で読んだとあり、作者はわからない。雑誌でも教科書でも本を読むことが楽しみで仕方なかったらしい。
     蝶を追って日が暮れてしまい、たまたま会った友人の家で晩御飯と風呂をいただいて帰ったら母親が警察に保護願いを出していたなどということもあったらしい。菊の花が咲いていく様子を20日以上山に通って眺めた時期もあったという。
     著者はこんな体験をすることが長く尾をひいてその人の性質として残るのだろう、と書いている。そういう時期にいろいろ押し込んで教育をやりすぎるのはよくなかろうみたいなことも書いている。

     著者は私見として、小学校では自然に子供の内に育ってくる情緒を高めて文化に対する親和力を養うのがよく、批判する力の前に玩味つまり長所に目を注ぐ経験をこの時期に存分にさせるのがいい。この時期にそれをやらないと内から沸いてくるものがなくなって後でまねてばかりいるようになってしまうみたいなことが書いてあるんだと思う。それさえできれば義務教育は小学校で終わりでいいみたいなことも。

     数学教育についても心の中にある数学を開発することが数学教育の任務であるのにそうなっていないみたいなことを書いている。黒板やノートに向かってやるのでなく散歩しながらやるもんだみたいな。計算はケアレスミスを発見するには有用だけど、ケアレスミスが多いことはその論文がダメだということではなく、本質が合ってればかまわない。逆にケアレスミスが全くない論文にたまにミスがあると論文が成り立たなくんるくらい致命的だったりするという。
     著者は提出後の論文にケアレスミスがあとから発見される事はしょっちゅうで、そのたびに訂正していたらしい。
     計算能力しかない人は、起こったことの批判はできるけど未知のものは発見できないみたいな。だから数学教育の目的は計算力の向上ではないんだ、純粋な直観力みたいなものが心の中に育ってくるかが大事なんだみたいな。

     数学の本体は「信」とでもいうようなもので わからないけどこの形式に従ってやったら答えが出た、でも自分ではそれがあってるのかどうかわからない、ではダメで、形式はどうでもいいからこの答えは間違いない、と自分で信じることができる答えを出せるかが大事なんだみたいな。

     一方で著者は数学以外は暗記一本やりでやってきたそうで、暗記することはそれなりに好きだったという。暗記もやりようによっては財産になるみたいなことを書いている。
     名文の暗唱なども好きだった様子。

     高校生になると批判力、観察力、思考力などが育ってくるので自己を知るようになると書いている。

     教育は明治から悪くなる一方で、著者は大隈重信が中国に突きつけた21か条あたりが軍国主義がのさばって教育を悪くしはじめた境目だろうみたいに書いている。
     引用してくるとこんな要求だったらしい。

     こういうのに怒って抵抗した国が、今は他の国や地域にそれ以上にひどいことをしているのがなんとも。

     著者はこれは19世紀に西欧列強がやっていたやり方を、本家のそうした国々がやめるころになって真似したものだと書いている。
     戦後は軍国主義こそなくなったけど、もっとあぶない人たちばかりの教育界になったとも。戦後義務教育がいかに独創力のある天才を潰すか、みたいなことを書いている。

     国を伸ばすのは何万人に一人という天分をいかに育てるかだが、その視点が全く欠けているみたいなことを憂いている。公平・平等だけを重んじればそうなるだろうな。

     教育について書いた文章は他にもあるけどとりあえずここで一区切り。

     今の世の中でこんなこと言ったら糾弾されそうなことも書いているのだけど、義務教育は自分で良し悪しが判断できる力を養うのが第一で、その人が持つ天分を可能な限り伸ばすことなんだ、そのためにはグループ学習なんか邪魔だ、みたいな主張は説得力があるような気もする。
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