「思い出すことなど(夏目漱石著)」表題作
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「思い出すことなど(夏目漱石著)」表題作

2020-04-07 19:00




    ・夏目漱石は明治43(1910)年の6月に胃潰瘍で東京内幸町の病院に入り、7月末に退院すると医師のすすめで転地療養のため修善寺の旅館に行く。
     だがここに到着して間もなく病状が悪化し、東京から医師や奥さんがやってきて世話をするようになるが血を何度も吐くようになって次第に重篤になり、8月24日には大量に吐血して意識不明となる。この時本人は身体の向きを変えただけで意識は連続していたつもりだったがその間30分間は意識も無く死の寸前だったという。医師の必死の手当てでようやく持ち直したのだったが本人の自覚は全く無かったらしい。
     このことがその後の漱石の認識に大きく影響を与えたらしい。

     この「思い出すことなど」という文章は、これが落ち着いて10月に東京の病院に戻った後に病中案じたり見舞ってくれたがろくに礼もできないままでいる友人知己や読者に対して状況報告と礼を兼ねて書かれたみたいなことが記されている。
     また、一度死んだ身であることからこれまでの人生と、すっかり弱ってしまった身体で今後をいかに過ごすべきかに考えを巡らせるようになって思うところをあれこれ記しているようでもある。発表されたのは10月末から翌年4月まで、朝日新聞紙上でのことだったらしい。

     その間に漱石が入院していた病院の院長が亡くなったり、敬愛していた哲学者が亡くなったり、同じ病院に入っていた患者が亡くなったり、連載中の11月には大塚 楠緒子という漱石が大切に思っていた女性が若くして亡くなったりと縁のある人の死を続けざまに知ったことも書かれている。

     漱石作の俳句や漢文などもたびたび披露されており、

     「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」

     という彼女の死を悼んで読んだ句は有名らしい。

     漱石は大正5年、49歳で亡くなったのでこの後6年ほど生きたことになるが、この時期は次々と病に襲われて苦しみながらも後期三部作と言われる作品他を残したという。
     
     この修善寺の大患と呼ばれる出来事は漱石の愛読者や研究者には有名で重要な出来事らしい。

     関川夏央さんが「修善寺の大患と漱石の死生観」という短い文章でこのあたりの経緯を簡素に書いてたのも読んだことある。


     夏目漱石って、小学校高学年くらいでためになる本みたいに読め読め言われたような記憶があって、いくつか読んだけど「坊ちゃん」は言われるほど痛快とも面白いとも思わなかったし、「二百十日」や「草枕」や「こころ」はよくわからなかったし夏目さん本人のせいではないんだけど何となく敬遠する意識があったんだけど、これとか「永日小品」とか「硝子戸の中」なんかは最近読んでみてちょっと興味深く感じている。そういえば当時唯一それなりに読めた「文鳥」はこうした身辺雑記みたいな系統の一作らしい。
    「吾輩は猫である」は小学生の時最初の方だけ読んで放り出してしまったのでそのうち読んでもいいかなと思っている。
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