「秀吉と利休(野上弥栄子著)」
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「秀吉と利休(野上弥栄子著)」

2020-11-24 19:00


    ・千利休と言えば日本人なら誰でも名前を知っている人で、織田信長にも豊臣秀吉にも重用されたけど最後は秀吉に切腹を命じられたことになっている。
     この切腹を命じられた理由がよくわからないらしい。いろいろな人がそれなりの根拠を持ってこのことを論じているけどおそらくは真相は永遠にわからない。

     この小説はそのへんがいろいろ著者の虚構だとわかっているんだけど、本当にそうだったかもしれないと思わせる説得力がある、みたいに解説に書いてある。
     利休が死に至る最後の三年間に焦点を当てて、利休はこういう人だったのかもしれない、秀吉はこういう人だったのかもしれない、二人の関係は本当にこうで、利休が切腹を命じられたのはこういうことだったのかもしれないと思わせる。

     利休は大いなる矛盾を持った存在で、一方ではいわゆる黄金の茶室のような贅を尽くしたようなものを作ったかと思えば、現存する妙喜庵(この小説ではみょうぎあんとカナが振ってあるけどネットではみょうきあんと出て来る)という寺院の茶室である待庵(たいあん)のような簡素を極めたような、いわゆる侘び寂びの極致みたいなものも生み出す。
     この小説では利休は
    「ただ湯を沸かして飲むまで」
     といいきっているとある。この言葉は実際に利休の教えとして伝わっているらしい。
     著者は利休の中に極限的に豊かなものと極限的に乏しいもの、双方にひかれる部分があるとしている。

     秀吉も利休の事を好ましく思う一面と、うとましく思う一面との両面を持っていて、この作品で描かれる三年間で島津を征伐し小田原の北条を滅ぼし、もはや国内に敵無く手紙にも
     てんか と署名するようになると、秀吉の上位にあたるものは利休のみになる。
     利休は茶の湯の世界では永遠に秀吉の師であるからだ。秀吉は本来自分より上位のものは認めないのだが、利休は茶の上では秀吉にへつらわず、褒めもしない。秀吉はこれを受け入れている。利休は微妙なバランスの上で秀吉の上にいる。

     秀吉は何かと派手好きで、建設好きでもある。大坂城を作り、聚楽第を作り、淀城を作り、小田原を討つために拠点となる城を近場に作る。こうした際に利休が相談を持ちかけられるのだが、普請奉行である増田長盛を飛び越してのことなので秩序を重んじる長盛や光成には面白くない。秀吉に呼ばれ命じられれば拒否できない利休だが、彼らは秀吉ではなく利休を嫌う。

     一方でそんな利休の特別な位置を知っていて、秀吉に直接願い事を言えない者はとりなしに利休を頼る。利休との茶事に出席することは名誉であり、彼らの喜びでもある。それだけの位置にある利休を秀吉は腹立たしく思い、ある種の劣等感も感じているのだが、それほどの男を顎先で使い命ずることには快感を覚えてもいる。
     そのため秀吉は常に利休を驚かせようとするし不意を突こうとする。だが利休は突然訪ねてもいかにもお待ちしていました、今日お見えになることはわかっていました、みたいな迎え方をする。秀吉はこれに満足し悔しくも思う。一方で利休にはこういういつも油断できない関係は負担であり、心労もたまっていく。

     秀吉の弟である大納言秀長はそんな利休を庇護しており、利休にとって最大の後ろ盾だった。秀吉は天下をわがものとし、年を重ねるにつれて次第に扱いにくい性格になっていく。
     秀吉が素直に言うことを聞くのは母親である大政所と、この秀長のみになっている。秀吉は感情の起伏が激しくなっていて、利休に花器を作らせて褒めたかと思えばこれを足蹴にしたり、利休の弟子でもある山上宗二(やまのうえそうじ)という茶人をちょっとしたことから殺害してしまう。それも耳や鼻を削ぎ首を斬るという残酷なやり方(これは事実らしい)。
     宗二は嘘がつけない性格で、ことに茶道に関することでは秀吉にも意を唱えることがありそこを愛されもし、時に怒りを買う面があったのだが、秀吉は包容力も持つ人物で最終的には許してきた。それが加齢のせいか天下に近付いたせいか次第に包容力を失いつつあって、宗二が北条方に身をよせて、そこで世話になった北条幻庵(北条早雲の子供で、当時の北条家当主の氏政の大叔父に当たる)に義理立てしようとしたことでにわかに秀吉が怒りを生じてのことらしい。
     秀吉の元に宗二を帰参させようと、間に立った利休が苦労の末に秀吉と宗二の再会の労を取った結果がこういうことになってしまう。

     秀吉と利休の間も、次第に秀吉の側の変化によって昔のようにはいかなくなっていく。そこをかろうじてつなぎとめていたのが秀長だった。秀長が秀吉の狂気を緩和する役割をつとめ、利休への当たりを和らげてくれている。
     だが秀長は胸を病み、次第に衰えていく。秀長が没したことで庇護者を失った利休が秀吉の気まぐれにこれまで以上に直接接することとなり、そこに光成など豊臣政権の官僚たちがいわば特別扱いをされている利休の存在をことさらに貶めようと策謀をこらし、二つの理由で利休を弾劾しようとする。

     一つは利休の親友とも言える、古渓(こけい)和尚がいる大徳寺の三門を改修する際に利休が費用を寄進したことから(秀吉が金を出すはずだったが大政所の古稀を祝う金鳳山天瑞寺の建立が優先されたためあとまわしになってしまう)、寺側が利休への感謝の印として利休の木像を作り、これを門の上にかかげたことが不敬とされる。
     古渓和尚は利休の口利きで信長の葬儀を取り仕切り、これを見事に成功させたことから秀吉に一目置かれることになるが、秀吉が利休と自分の頭越しに話すことを光成が快く思わないのと同様に、寺社奉行の前田玄以から秀吉と古渓が近すぎて自分の職権を犯す、みたいにうとまれている。古渓は戦国大名である朝倉氏の血筋でもあって、世が世なら大名になっていてもおかしくなかった剛直な人物でもあったのでこれも玄以には気に入らない。
     利休と古渓を貶める目的でこの木像が使われる。これは有名な話だけどそれだけで切腹させられるような罪でもないだろうという気もする。秀吉と利休との間に積もり積もったものがあったのだろう。

     この小説ではもう一つ「唐御陣が、明智討ちのようにいけばでしょうが」という利休の発言が、晩年の秀吉がこだわっていた海外遠征を否定するものとして光成たちが大げさに触れ回ったことがあげられている。小説内で利休がこのことを口にする相手は架空の人物のようで、そういう明確な史実があるわけではないらしいのだけどいかにももっともらしい書き方になっている。

     それでも秀吉は聚楽第から利休を堺に追放するだけですませてしまう。これでは軽すぎる、秀吉はまた利休を許してしまう、とさらに暗躍しようとする光成たちだが、秀吉はそうしたことも全て知っていて、利休も光成も驚くような処置をしようとにわかに思いついて利休に切腹を命じる、みたいな流れになっている。そして利休を失ったことを後悔する。

     起きたことは一つでも、その解釈はいくらでも出てきてしまうのが歴史だなと思う。

     この小説では利休の庇護者だった秀長は、大河ドラマの真田丸ではむしろ利休を秀吉が偏重しすぎると忠告して、武器の横流しで巨利を得ていた利休を追い落とすみたいな感じだったし
     「お吟さま」という映画では利休の娘(血はつながっていない、松永弾正だかの娘を引き取ったものということになっていたと思う)を秀吉の妾にせよという命令を拒んだのが切腹の原因みたいに扱っていた。
     そう言われればどれもそうなのかな、と思ってしまう。

     真相は永遠にわからないのだけど。本人たちだってどうしてああなってしまったのかわからないのかも。
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