「司馬遼太郎の「かたち」(関川夏央著)」第一章
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「司馬遼太郎の「かたち」(関川夏央著)」第一章

2020-12-02 19:00



     司馬遼太郎氏の遺作みたいになった随筆「この国のかたち」について関川夏央氏が分析した本。

    ・第一章 日本は必ずしもアジアでなくてもよい
     
    第1回 日本は思想化された歴史を持たないが思想書を読むのは好き。
    第2回 朱子学(正義を一点設けてそれを論理付け、ひとびとに実行を強いる体系)が
        日本にしみとおらなかったのは幸いであった。

        司馬氏は「正義」という言葉が嫌い。「リアリズム」という言葉が好き。

        大衆・民衆・人民など漢字語を用いず ひとびと としるす。

        「名こそ惜しけれ」という鎌倉武士の心意気を示す言葉を愛した。

    第3回 群衆と東京朝日新聞が日露講和反対を叫んで暴徒化した。

        司馬氏は「大衆」「庶民」「人民」「国民」を信頼しない。「群衆」はさらに。

    ・統帥権へのこだわり
     
     司馬氏は「統帥権」が日本を日本で無くしたという気持ちを持ち研究する。
     憲法学者にも会い、質問を重ねる。

     新憲法を好ましく思うが、その憲法のもとで発生した安保騒動、減反政策、土地投機、
     拝金主義やバブル経済には困惑と嘆きと怒りを覚える。

    ・田中美知太郎の急逝
     「この国のかたち」は文芸春秋の巻頭随筆として世に出たが、これは前任者の田中美知太郎氏の急逝により後任をどうしてもこの人にお願いしたいという当時の堤堯編集長の情熱あってのものだった。
     文芸春秋の巻頭随筆は芥川龍之介に始まって幸田露伴、武者小路実篤、小泉信三など多くの人が書いている。

    ・池島信平の写真
     堤編集長は司馬氏にまず手紙を書き、面会の約束を取り付けると池島信平氏の写真を持って正月の夜に熊本の旅先の司馬氏を訪ねる。
     池島信平氏は文芸春秋中興の祖みたいな編集者で既に故人だったが、司馬氏とはヨーロッパ講演旅行で意気投合し、敬愛もする人物だった。

    ・「Stayeやない、Landを書いてみたいんや」
     司馬氏は「この土(くに)のかたち」で行きたいと言い、堤氏は「国」で行こうと思い、
     必死で司馬氏を説得した。

    ・「司馬さん」からの手紙
     司馬氏は自分ではほとんど電話に出ない、文字の人、手紙の人であって、生涯に書いた手紙の分量は作品の総量を凌駕すると言われたとのこと。作品連載中にも原稿とともに執筆の意図や今後の構想などを記した手紙が毎回のように編集長に届いたという。
     当時もてはやされていたデベイト(ディベート)というものを欧米文明の強みではなく最弱点とお思い。ディベートに強い人間はサギ、インチキ、いかがわしいやつ、ヘラズ口などと日本では呼ばれるんだと主張したとのこと。
     司馬さんはディベートと評される空論の空転のようなものを嫌ったという。
     
    ・ナルシシズムへの禁忌
     司馬さんの原稿は特異で、文章と言葉があちこちに飛び違い、それを色鉛筆でつないであるみたいなものだったらしい。文芸春秋社専務だった半藤一利氏はおそらく冒頭から順番に書かないで、最初にキーワードだけ書いていってそれをつなげていくのだろうと言ったらしい。

     それを編集者がワープロでゲラに直す。その際、司馬さんが塗りつぶして消した部分もこんな理由であった方がいいと思います、一応起こしておきましたと再度司馬さんに捨てるか生かすかの判断を問うたこともあるとのこと。原稿は信頼し合う著者と編集者のキャッチボールで作られていったという。

    ・「無題」ということにします
     堤氏から白石勝氏に編集長が交代しても司馬氏と編集長の手紙の交換は続く。 
     時代が昭和から平成に代わり、この件について編集者の義務として何か書いてくれるよう依頼したが、答えは「論ずべきではないものです」だったという。
     今の事件について直接は語らなかったがこのについて天皇機関説を、リクルート事件の時に井上馨や山形有朋の疑惑を、金丸信の北朝鮮訪問に際しては日米和親条約と「巴里の廃約」についてなど間接的に書いたという。国民の世論が何度も国を誤らせているとも。

    ・アラブに「脱亜」を勧める「蛮勇」
     湾岸戦争について自分は書く側ではなく読む側だと、意見を公にしないが福沢諭吉の脱亜論について書く。先進国と後進国、スタンダードとナショナリズムの永遠の問題として。
     この時イギリスの元駐日大使でサー・ヒュー・コータッツィという人が土井たか子氏の湾岸戦争直前の行動について手ひどく批判していたことを、ヒュー氏との対談で聞いたと私信で述べているという。国連総長の和平の根回しを結果的に妨害したらしい。

    ・虚勢と虚像を見破る目
     古い編集者に言わせると司馬さんは作家らしくない作家だったらしい。戦前の無頼で破滅型なイメージがある人たちと異なり温厚な常識人だった。小説家でありながら文明の指導者のような位置にあったのも特殊だったという。
     作家になる前から司馬氏を知り、ジャーナリストから大阪府に招かれた末次攝子(すえつぐせつこ)という人は、本当は人間の好き嫌いが激しい人で単純や愚鈍は許しても甘えや厚顔無恥、卑俗は激しく嫌う人だったと感じたとのこと。某画家と酒場で喧嘩になりかかったことがあって知人の間では大事件として情報が飛び交ったらしい。

    ・コリアのエトス
     司馬氏はこの時までに5回韓国に行っていて、五度目では当時の盧泰愚大統領と対談している。盧泰愚氏は司馬氏の愛読者だったらしい。
     朝鮮の研究を行う日本人が韓国の友人に司馬遼太郎の作品をすすめられることもあったとのこと。彼らは「坂の上の雲」や「世に棲む日々」などをすすめ、どこがいいかと聞いたら登場人物がみんな国のことを考えているからだ、と答えたという。
     その韓国の友人によれば韓国にはこうした愛国心は無く、身内びいきだけがあって、正義は身内でないものを攻撃するための理屈にすぎないみたいな認識だったらしく、これを変えようとしたのが朴大統領だったみたいに書いてある。
     司馬氏は極力権力者には会わないように自分を律していたらしいがこの盧泰愚大統領との対談は例外の様子。

    ・司馬遼太郎の喜び
     生涯で二度、司馬遼太郎が作家冥利につきると手放しに喜んだことがあり 一つは乃木希典を書いた時に自分なら旅順をどう攻めるかを考え抜いて小説内に地図を交えて書いたところ、ある軍人がこれを読んで作者は職業軍人か、と問うたと人づてに聞いた時、もう一つは張学良が自分に会いたいと言っていると聞いた時だという。結局実現はしなかったそうだが、当時は台湾で軟禁状態にあり、権力の座から遠く離れた張学良氏が対談相手に指名したということは、自分が書いてきたものが認められた、報われたと思ったらいい。
     盧泰愚大統領との対談は雑誌の企画から始まり、反日論を排して韓国の反対論を無差別に排斥し、自分の党の主張に反するものはどんなに客観的に名分の立つ議論であっても受け入れない韓国の体質を盧泰愚氏が語るのに対し、日本はお互いに異なった考え方を許すのが本来で、それが一時的に許されなくなった不幸な時代があったように主張して、それをまた普通に戻したいというような考え方においては盧泰愚氏と意見が合ったらしい。ただし司馬氏の言うことは小説家の発想過ぎて。通訳がこれ以上訳せないと音を上げたという。

    ・「さびしさきわまりなし」
     開高健が死ぬ。親交のあった山村雄一氏(医学者)がこの世を去る。長くコンビを組んだ須田剋太郎画伯が亡くなる。さびしさきわまりなし、とこの頃の手紙に記す。

     湾岸戦争が終わる。イスラムの教えでは金を借りても利息を払う必要は無く、キリスト教では金を借りたら利息を払うようになっているらしい。北朝鮮の主体思想では借金は返す必要がないらしい。湾岸戦争はそうした金利の違う文化の争いでもあったような。

    ・「一種の言い残しのようなものです」
     文芸春秋編集長が白石勝氏から白川浩司氏に交代。時事的事象と直接わたりあわず、歴史の奥深いところから知恵を拾い集めて、この世の信頼するに足る普通の人々、すなわち読者に考えたことをつたえたいという意志は司馬遼太郎のもっとも重要な仕事になっている。
     自分では「こけの一念」で書いていると手紙に残している。

     一章はここまで。

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