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「仏教語源散策(中村元編)」Ⅰ日常生活①人間・無常・縁起
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「仏教語源散策(中村元編)」Ⅰ日常生活①人間・無常・縁起

2021-04-11 19:00
    ・ブログの移行についてはおいおいやるとして、データ移行もなんとかできそうなので当面はこのブロマガに記事を書いていくことにする。残りひと月くらいになったらあちらにメインを移すかも。内容の見比べや使い方の習熟なども並行してやっていくつもり。

     手持ちの積読本を処分すべく消化。



    ・中村氏のはしがきによれば日本人が普段意識せずに使っている言葉の中から仏教由来のものを選んで、来歴などを肩がこらないような読み物にしたものとのこと。
     執筆は松濤誠達、松本照敬、上村勝彦の三氏によるとのこと。
     以下は私が自分なりに解釈したものなので原書通りとは限らない。原書にないことを補ったり、自分の考えを足したりしているのでそのまま引用すると恥をかくかも。

    Ⅰ 日常生活に生きている仏教の概念
     冒頭に中村元氏による解説がある。日本人の祖先は仏教の教義をけっこううまく咀嚼していて、難解なはずの用語が日常語に多く溶け込んでいる。だが意味が本来のものとは違ってしまったものもあるらしい。それだけ深く浸透したのだ、と肯定的にとらえている。

    ・人間(松本氏)
     仏典で「人間」と訳されている言葉にはサンスクリット語の
     manusy-loka(sの下に・がある)マヌシャ・ローカという「人の世界」、
     nr(rの下に。がある)ヌリという「人々」などがある。
     マヌシャは「人」「考えるもの」のような意味を持つ。
     倶舎論という仏典には「人間五十年、下天一昼夜」という文がある。信長で有名なあれの元ネタだが、人間の寿命が50年だという意味ではなく須弥山の麓にある東西南北四州のうち南にある南贍部洲(なんせんぶしゅう)、別名閻浮提(えんぶだい)という地域が仏典では人間の住処とされていて、須弥山の中腹にある下天(いわゆる四天王がいるところ)とは時間の流れが違うようで、下天の一昼夜は人間の住む閻浮提の50年に相当するみたいな意味らしい。
     インド思想では人間は西洋のように自然と対立する概念ではなく自然と調和した存在で、自分の業によって神にも動物にも虫けらにもなるとされる。
     つまり神も超越した存在ではなく人間のちょっといいやつみたいな。

    ・無常(松本氏)
     サンスクリット語でanityaアニティヤであり、分解するとア(否定)+ニティヤ(常の、永久の)みたいなで「常でない」「永遠でない」「一時的な」などの意味になる。
     平家物語冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の諸行無常は全てのものは変化していくみたいなことになる。
     「形あるものはいつか壊れる」みたいな言葉もあって当たり前のことを言っているだけ。
     これが「命あるものはいつか死ぬ」みたいにも解されて、「生あるものは必ず滅し、形あるものは必ず壊れる」とセット販売されて限りあるからこそ命を大切にして少しでも良くなる方に努力しよう、みたいな意味が仏教的には無常という言葉に含まれているみたいな。
     つまり仏教は坂本龍馬みたいにドブの中でも前のめりに死ねみたいなことか(これが坂本龍馬のセリフなのかは諸説あるらしいが踏み込まない)。
     仏教の三大スローガンみたいな三方印(さんぼういん ぽうじゃなくて ぼうらしい)というのがあって、諸行無常はその一つとのこと(あと二つは 諸法無我と涅槃寂静)。

    ・縁起(上村氏)
     サンスクリット語のpratitya-samutpada(iの上の点が‐になっていて、aの上にも‐がある)
    プラティーヤ・サムトパーダが中国訳されて縁起となった。いかなるものも他に依存して生きている、他に依存して生起する、という意味になる。
     夫が無ければ妻はなく、妻がなければ夫もないみたいに相互関連で存在する概念も多い。
     十二縁起もしくは十二因縁というのがあって、人間は何故老いて死ぬのかをピタゴラスイッチを遡るように結果から原因を考えていくと最終的には無明というものに行きつくというのがブッダの悟りだったみたいな。無明というのは根源的無知と書かれている。
     縁起がいいというのはこのピタゴラスイッチがうまく働いていて、いい結果が出た、出そうだみたいなことでいいのかな。
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