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「仏教語源散策(中村元編)」Ⅰ日常生活②我慢・無我・業
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「仏教語源散策(中村元編)」Ⅰ日常生活②我慢・無我・業

2021-04-13 19:00


    ・我慢(上村氏)
     サンスクリット語のmana(最初のaの上に‐)マーナの訳が我慢とされているが本来は慢らしい。
     atma-mana(最初と三番目のaの上に-)アートマ・マーナの訳を我慢としている例もありこちらがより正確とのこと。
     アートマはアートマンで一般には自己のこと。暗黒神話で読んだ。
     asmi-manaアスミマーナという言葉の訳としても我慢があてられていて、アスミは「私は存在する」みたいな意味だとのこと。存在が慢心を生むみたいなことになるのか。
     我思う、ゆえに我ありで終わらずに慢心しちゃうみたいな。
     ahamkara(kのあとのaの上に-)アハンカーラという言葉も我慢の原語で、ahamアハムは「私」。kara(kのあとのaの上に-)は「作ること」。つまり合わせて自我意識。
     
     とにかく我慢の意味は仏教的には我ありと思ったとたんに慢心したな!みたいな。
     
     我慢は一般に辛抱するみたいな意味で使われて、我慢する子はいい子みたいな肯定的な雰囲気だけど仏教本来の意味ではあまりいい言葉ではないらしい。
     自己の中心に我があると考え、その我をよりどころにして心が驕慢であることで煩悩の一つみたいなことになる様子。我慢より慢心と思った方が意味が近いみたい。
     七慢というのがあって、ちょっとわからないところがあるけど私なりにまとめると
    ①「慢」劣ったものより自分が勝り同等のものと同等であるという慢。
    ②「過慢」同等のものに自分が勝り優れたものと自分が同等であるいう慢。
    ③「慢過慢」優れたものより本当は自分が勝るという慢。
    ④「我慢」我に執着しすぎる慢。
    ⑤「増上慢」悟ってないのに悟ったと思う慢。
    ⑥「卑慢」はるかに勝るものをわずかな差と思う慢。
    ⑦「邪慢」悪をなして開き直る慢。
     みたいなことになるらしい。我慢と増上慢はよく聞くけどあとは知らない。

     でも現在は我慢=辛抱 で、辛抱するのは頑張りがきくという美点で悪いことではないというみたいな解釈が一般的になっている。

    ・無我(上村氏)
     サンスクリット語でanatman(二番目のaの上に-)アナ―トマンだが、ここでいうアートマン我には哲学的な概念が入ってくる。
     ウパニシャッド哲学ではブラフマン梵が宇宙の根本原理、アートマン我が個人の中心主体であり、両者は一体であって宇宙=我々みたいな梵我一如という思想になる(よくわからないで書いております)。バラモン教学ではこの我アートマンを恒常的なものととらえる。
     これに対し恒常的なものなど存在しない、全ては無常で変化するのだと主張する仏教は我アートマンも永遠ではない、無常なのだ、無我なのだとこれを否定したという背景があるとのこと。

    ・業(上村氏)
     サンスクリット語のカルマンが元で、単に「行為」という意味にすぎない。古代インドでは善行にはよい果報、悪行には悪い果報があると信じた。これが現世だけでなく来世にも影響すると考えて、現世における幸福や不幸も前世の善業や悪業の反映とも信じられる。
     すると一方では来世のために善行を、と人間を道徳的にする力になるが、一方で前世の行いによって運命は決まってしまったので努力しても無駄だという宿業説という思想も生んでしまう。六師外道という指導者のようなものも出た。
     業の存在は輪廻思想につながるものであり、インド文化のこの輪廻思想が仏教にも取り入れられた。
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