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「仏教語源散策(中村元編)」Ⅰ日常生活④刹那・観念・百八
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「仏教語源散策(中村元編)」Ⅰ日常生活④刹那・観念・百八

2021-04-17 19:00
    ・刹那
     サンスクリット語でksana(sとnの下に・)クシャナ。ナウシカのクシャナってこれと関係あるのかな?きわめて短い時間の単位であり、仏典によれば
    120刹那=1恒刹那(たんせつな タットクシャナ)
    60恒刹那=1臘縛(ろうばく ラヴァ)
    30臘縛=1須臾(しゅゆ)
    30須臾=一昼夜
    30昼夜=一カ月
    12カ月=1年

     一昼夜=24時間として逆算すれば
    1刹那=1/75 秒となる。

     つまり極めて短い時間の単位に過ぎず、仏典には刹那よりも短い時間の単位は他にもパソコンで出ないけど日へんに旬と書くジュン(ニメーシャ)という単位があったりするのだが、短い時間の代表選手としては刹那ばかり出て来る。
    2人の成人男子が何本ものカーシー(古代インドの国名)産絹糸をつかんで引っ張り、もう1人の成人男子が中国産の剛刀でもって一気にこれを切断するとき、1本の切断につき64刹那が経過する
     とか
    力の強い男が1回指を弾く間に65の刹那がある
     とか様々な書に書かれているという。

     現代では本来の短い時間という意味ではなく、快楽を優先してあとのことは考えないみたいな意味で刹那的とか刹那主義などという言葉になってしまっている。
     快楽が1/75秒しか持続しないのではなんか空しそうにも思う。

     夢枕獏さんの短編に「せつなくん」というのがあった。この中で上記のような例えが紹介されていたように思う。

    ・観念
     サンスクリット語ではsmrti(rの下に・)スムリティ。念と訳されることが多いが「記憶する」「想い浮かべる」の意味があり、その後者であることを明確にするために「観」という字を付加したのではないか説がある。
     仏教においてブッダの姿や功徳を思い浮かべて自らをブッダに近づけようという修業があり、この思い浮かべを「念仏」という。流派によって思い浮かべる対象がブッダではなく阿弥陀仏だったり極楽浄土の様子だったりするらしい。
     つまり仏教用語としては観念は仏やそれに代わるものを思い浮かべるみたいな意味になり、「深く心に思いをこらす」ということになる。深く思いを凝らせば何かがわかる。わかればあきらめもつく。
     ということで「観念」には
    ①心の中に浮かぶ考えや思い。西洋哲学のアイデアとかに仏教語の観念をあてた。
    ②あきらめる、覚悟する。

     の二つの意味をもって日常語として使われている。

    ・百八
     仏典には百八という数がやたらと出て来る。念珠の珠の数も正式には百八で、金剛界曼荼羅に描かれる仏は百八尊。密教の修業の礼拝業の回数も百八。真言も百八回唱えることが多い。
     バラモン教にも百八はよく出て来る。
     仏教では百八は煩悩の数であるとも言われ、数え方は諸説あるが一説には
    眼・耳・鼻・舌・身・意という人間の六つの感覚器官が好・悪・平の三通りの把握をするので人間が感じ取る感覚は6×3=18あり、それぞれに染と浄があり、さらにその結果に過去・現在・未来があるので18×2×3=108になると書いてある。
     この説明だと煩悩というのも何だかよくわからないけど、日本人なら誰でも除夜の鐘と一緒に煩悩の数が百八だと知っている。
     

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