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「仏教語源散策(中村元編)」Ⅵ寺院と儀礼⑤加持・護摩・降伏 
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「仏教語源散策(中村元編)」Ⅵ寺院と儀礼⑤加持・護摩・降伏 

2021-06-10 19:00


    ・加持 
     「加持祈祷」という言葉は聞くが、「加持」と取り出すと はて何のことか、と思う。仏教で加持と言えば仏が特殊の力を持って衆生を守ることだという。
     どんなに意志が強く自分の力で生きている人でも、生まれる前にこう生きようと計画を立てて来た人はいないし、年をとることも死ぬことも自分の意志ではどうにもならない。人間は世の中にある太陽や地球や水や空気に生かされているにすぎず、そうしたものがこの世に存在するのは何らかの法則によるものだと考えるしかない。仏教ではこの宇宙の法則みたいなものを「法」と呼ぶ。
     大乗仏教ではこの法、真理みたいなものを有するものを法身(ほっしん)と呼び、この法身が万物を包んで支え守っていると考える。
     宇宙はブッダの法身であり、法身たる仏が万物をはぐくみ守る力が「加持」なのだという。

     密教ではこの法身に大日如来という名がついていて、春に花が咲くのも秋に紅葉するのも川のせせらぎもうちよせる波も、自然活動全てが大日如来が語りかけて来る言語活動、説法と解するのだという。
     宇宙の運行はこの絶対者である大日如来の身体、言語、精神の現れであるがわれわれ人間には仏の働きは知りえない。仏の身体、仏の原語、仏の精神は人間には秘密。
     三つの密で三密と呼ばれた。まさか三密という言葉がコロナ対策として使われることになるとはお釈迦様でもご存じなかったろうか。

     人間が自分の身体、言語、精神を仏すなわち宇宙のそれと重ねられれば人間も仏と同質のものになれる。そこで密教では「三密加持」という修法が行われる。この修行のための作法が加持であり、古典にある「加持の僧」「法をもて御加持あり」「呪を持ちて加持す」などの加持はこの意味だという。
     「祈祷」は「神仏に祈ること」とほぼ同義で、心の中で祈っても祈祷になるが「加持」には特定の動作を行ったり真言を唱えたりという具体的な行為が伴うのだという。
     身体、言語、精神を同時に使う行為なのだ。
     この加持が民間の病人の回復を祈る病人加持や安産を祈る帯加持など民間に広がるうちに本来の加持から離れて単なるまじないみたいになり、祈祷との差異もはっきりしなくなったという。

    ・護摩
     古来さまざまな文明や宗教で火が神聖視されてきた。古代インドではアグニという火の神が信仰された。拝火教というものもあるし、オリンピックの聖火につながるギリシャ神話のプロメテウスの話もある。日本でもどんど焼きや大文字焼きなど火にまつわる行事は多い。
     人は何故火をあがめたのか。熱を与えて住環境を快適にし、調理という手段を与えてくれたことが一つ。光を与えてくれて闇をはらってくれる、安全のシンボルでもあったことがひとつ。
     そして宗教的に最も重要なのは、火で焼くことによって不浄なものを浄化できるということだったという。

     リグ・ヴェーダは多神教の世界観をもっており、多くの神は天上にいる。神に捧げものをしたくても人間は天上には行けない。
     そこで火の神アグニに供物を焼いてもらい、煙の形で天に届けてもらう。火の神は人間の身近にいてくれて、天に使者として供物を届けてくれる特別な神となる。
     ヴェーダの儀礼にhomaホーマという火の祭りがあり、パーリ語ではゴーマと呼ばれる。この漢訳が護摩だという。仏教の護摩はこれが元だという。
     仏教寺院においては、護摩で焼かれているのは三つの煩悩(むさぼり、いかり、おろか)だという。
     時代劇に出て来る「ごまのはい」はドロボウみたいな意味になっているが、本来は普通の灰を弘法大師の護摩の灰だと偽って押し売りする輩のことだったという。

    ・降伏(ごうぶく)
     一般に降伏と言えばコウフクと呼んで敵に降参するという意味になるが、濁点をつけてゴウブクと読むと「悪心などをくだし伏してうちまかす」みたいな仏教用語になる。
     密教に降伏法というものがある。悪人や悪心をおさえるための修法ということになっている。そのために護摩を焚くわけだが外護摩(ゲゴマ)と内護摩(ナイゴマ)という区別がある。
     外護摩は壇や器具をセットして実際に火を燃やす修法のこと。内護摩は心の中だけで行う修法だという。内護摩で燃やすのは他人ではなく自分の心の中の悪意であるという。
     うらみはいくらうらんでも無くならない。うらみを捨ててこそやむのである。降伏も外へではなく心の内に向けるべきものだというのが仏教的な考え方になるらしい。

     ということでこの本終わり。もう生粋の日本語としか認識していない言葉がもともとは中国やインド、イランなどからやってきて、意味を若干違えながらも日本人の心の中に定着していることがなんとなくわかったような。
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