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「奥州白河・会津のみち(司馬遼太郎著)」②関東と奥州と馬
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「奥州白河・会津のみち(司馬遼太郎著)」②関東と奥州と馬

2021-06-18 19:00
    ・司馬さんは白河の関を目指して取材旅行へ。同行者は須田剋太画伯。関西では農耕に牛ばかり使って馬は使わず、関東では逆に馬ばかりで牛は使わないという歴史があったという。馬は馬小屋でなく人間と同じ屋根の下にいたという。須田画伯は少年時代に親戚の家に行って、夜中に馬の小便の音の大きさに飛び起きたことがあるという。芭蕉にも
     
     蚤虱馬の尿する枕もと
     
     という一句があるという。源平の戦いで平氏が負けたのには馬を操る関東と、馬を持たない関西の違いも影響したみたいな。騎馬軍団というのは関東・東北のものだったらしい。
     奈良・平安の頃は畿内政権から国司が派遣される。だが関東八か国のうち常陸・上総・上野の三国は京にいる親王の国みたいな特別扱いで、ここの最高責任者である常盤守、上総守、上野守は親王なのでは京から離れない。現地責任者はナントカの守(かみ)ではなく次官で、介(すけ)と呼ばれた。常盤介、上総介、上野介は他国の守とほぼ同格となる。

     当時は律令体制で土地は公有が原則。個人のものではなかったが、この介の存在が体制を崩していく。平安初期に桓武天皇の曾孫で高望王(たかもちおう)と呼ばれた男が臣籍降下して平姓となり、上総介として赴任してくる。気位が高く京の親王のために働いて租税を送るなんてことをバカバカしく思い、勝手に開拓して私有地とし、下総から常陸まで広大な私有地をわがものとして支配する。これを自分の子に分け与える。彼らが土着して武士となる。
     この高望王の長男が国香、三男が良将。良将の子平将門が襲撃されて反撃し、伯父の国香を殺してしまったことから平将門の乱につながっていく。
     一方で源氏はやや遅れて鎮守府将軍となって奥州に赴任した源頼信が将門の叔父にあたる平良文の子孫である平忠常の乱を勅命で討伐し、さらに奥州で前九年の役と呼ばれる大乱が起きると頼信の子である頼義と孫の義家がこれを鎮めたことで関東武士団の棟梁としての地位を獲得する。この子孫の源頼朝が鎌倉幕府を開いて武家政治をはじめることになる。

     坂東・奥州には馬に乗る武士集団がおり、世界的に特異だったのは馬を去勢せずに乗り回したことだったという。モンゴルでもヨーロッパでも馬は去勢するものだったらしい。騎馬武者はいても騎兵集団ではなかったとも。これを騎兵集団としてはじめて運用したのが源義経で、ジンギスカンより早かったという。ヨーロッパではプロイセンの王フリードリッヒ二世が騎兵運用したが何百年も後になる。
     義経が宇治川の渡河戦、一の谷の行軍から鵯越の奇襲、平家水軍に対する陸路からの奇襲といった馬を使いこなした戦いをどこで学んだかといえば奥州藤原氏のもとで過ごした少年時代だろうと司馬さんは思うのだが、文献が全く残っておらず証明できないのだという。
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