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「仏教と神道(ひろさちや著)」第Ⅱ部 お経と祝詞は同じか
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「仏教と神道(ひろさちや著)」第Ⅱ部 お経と祝詞は同じか

2021-06-15 19:00


    Q8 神と仏はどう違いますか
     「神も仏もない」「神様仏様」などと日常用語では神と仏がワンセットになっている感覚がある。これは神仏習合のなごりだというが、本来両者は別のものであるとのこと。
     
     仏はサンスクリット語のブッダ(真理に目覚めた人)を漢訳した仏陀を略したもので、意訳すれば覚者みたいな。
     クレイモアに登場した覚醒者みたいに、普通の人間を超えた戦闘力・防御力を備えたものを呼んだり、呼ばなくても登場人物が「覚醒」して次のステージに進化するのは漫画によくあるけど、その元祖というか。だから仏陀は一人ではなく、信者の誰もが仏陀になれる、あなたも仏陀になりなさいという教えが仏教ということになる。仏は無数に存在することになる。

     仏のことを如来とか阿羅漢とか世尊とか呼んだりもする。仏の十号と言って仏のどの性格を重視するかによって十の別称があるのだという。

     日本語における神の語源は諸説あるがどれも説得力に欠ける部分があってよくわからない。定義はあって、本居宣長の「尋常でないもの」「すぐれたるもの」が神であるという解釈が妥当だと言われている。つまり平均値よりも遠ざかっている者が神であり、すぐれているという言葉にはマイナスの方向にすぐれていることも含まれる。
     また、「霊力のあるもの」を神と呼ぶのは世界の宗教で普通なのだが、「霊力そのもの」も神と同一視しているところがあって、「神霊」などとも呼ぶ。ここはちょっと宗教的にはめずらしいらしい。

    Q9 仏さまのおわします世界は極楽浄土。神道の神様のいらっしゃるところは?それぞれの来世観の違いを教えてください。
     釈迦はもともとは普通の人間だったのが真理に目覚めて仏陀と呼ばれる存在になったが、釈迦の死後に実は釈迦は普通の人間ではなかった、宇宙の真理とも言うべき宇宙仏がわざわざ人間の姿で生まれてきて人間に真理を教えに来たのだという考え方が出て来る。
     すると役目を終えた釈迦は宇宙仏の世界に帰ってしまい、我々の宇宙には仏がいないみたいなことになってしまう。それは寂しい。
     そこでもともと仏は釈迦以外にも大勢いるという前提もあるので様々な仏のいる様々な来世が考案される。お釈迦様の帰ってしまった来世よりは人間の世界に近いみたいな?
     阿弥陀仏がいる極楽世界、薬師仏がいる浄瑠璃世界、これらが一般には極楽浄土とか浄瑠璃浄土とか呼ばれ、一般には知られていないが密厳浄土とか霊山浄土とかもある。
     でも圧倒的に極楽浄土が有名で、一般人は阿弥陀仏も薬師仏も区別せず仏としか認識しないのが普通なので、仏さまは極楽浄土におわします、ということになる。

     神道は神ははるか高みの高天原におわすと考えるが神道の神もいろいろあって、高天原にあるのは「天つ神」だけ。「国つ神」は地上にあって、国つ神のいるところを葦原の中つ国と呼ぶ。上、中、とくれば下もあって根の国と呼ばれ、一般には黄泉の国と解される。ここは死後魂が行くところで素戔嗚尊が治めている。
     一方で根の国というのは垂直的な下方だけではなくて、水平方向の無限の果ても指すみたいな。こちらの根の国は常世(とこよ)と呼ばれる。
     つまり神道ではこの世とあの世と常世があって、人間の魂が行かない高天原が別にあるということかな。
     キリスト教だと死者は神の国(天国)に行くと考えていいらしいけど、仏教や神道は必ずしもそういうわけではないらしい。釈迦が帰っていった世界にしても高天原にしても、人間の魂とは無関係な場所のように感じられる。

    Q10 仏教には地獄や極楽があります。神道の死後の世界は?
     古代エジプトでは人間は死後冥界に行き、裁判官オシリスによって有罪とされるとアメミットという怪物に魂を食われて二度と転生できなくなる。これを古代エジプト人は恐ろしいと感じた。
     古代インドではヤマという死者の王に裁かれるが、永遠に転生し続けることをむしろ恐怖した。エジプトとインドでは解釈が正反対になっている。
     古代インドでは六つの現世があると考えた。
     ①天界②人間界③阿修羅界④畜生界⑤餓鬼界⑥地獄界
     この六つの世界を六道と言って人間が輪廻転生する世界と考える。地獄も現世の一種みたいになっている。考えようによっては人間に生まれても天界のように幸福な一生を送る人も地獄のような一生を送る人もいるのかも。
     輪廻では人間ではない畜生や虫などに生まれ変わることも含まれている様子だが、これを古代インド人は永遠に続けるロシアンルーレットみたいに恐怖した。そこでこの輪廻から永遠に脱出したいと考え、その脱出成功すなわち解脱を最終目的と考えた。解脱した状態が涅槃ということになるけど涅槃という世界があるのではなくて、魂が完全に消失して輪廻から外れた状態のことを涅槃と呼んだらしい。。古代エジプト人から見ればわざわざ外れを引くために苦労するみたいな。
     涅槃に到るためには執着が邪魔で、この執着を消すために修行する。最初のうちは自力で修行したもののみが解脱できるとされたが、後に他者の解脱を助ける存在が考えられる。
     それが阿弥陀仏で、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土までは連れて行ってくれるというか、極楽に生まれ変わらせてくれる。これを往生という。ここから先は個人の努力になるんだと思うけど途中までは連れて行ってくれる。
     つまり仏教においては地獄と極楽は天と地みたいな対等のものではなくて、地獄は現世というか六つの人間が輪廻する世界の一部、極楽は輪廻の外にある別格の世界になる。

     神道では現世に対して他界というものを考える。他界には三種類あって、
    ①山中他界②地中他界③海上他界
     となる。地中他界が黄泉の国で海上他界が常世の国。どちらも根の国である。
    山中他界は高天原ではなく、葦原の中つ国のどこかにあることになっている。高天原に人間の魂は行けないとのこと。水木しげるさんの漫画では行ってた気がするけど。

     この山中他界というのは世界の宗教でも珍しいらしく、我々のすぐ隣に次元が異なって目に見えないけど死者の霊がいる、ということになる。地獄や天国など遠く離れた別世界ではなくて、すぐ隣にいるわけだ。見えないけど。鬼太郎が言っていた見えないものもいるんだよってこれかな。

     神道の考え方では、死者の魂は段階的に変化していく。死んだ直後の魂は死霊と呼ばれ、生前にためた穢れを持っている。この穢れを死穢(しえ)という。
     子孫がこの死霊を祀ると死穢がとれて魂が浄化されていく。一定の年月が過ぎて浄化された魂は祖霊と呼ばれ、いる場所も死霊よりもちょっと高い、死霊が山のふもとにいるなら祖霊は山を登っていくみたいになる。生きている人間には見えないけれどそこにあるみたいな山なんだろう。山の頂上近くまで登れる魂は祖霊がさらに浄化されて祖先神、つまり氏神になる。
     この死霊が祖霊になるまで、ちょっとずつ山を登っていく期間が33年かかるということで、33回忌というのはここからきているらしい。50年説もある様子。
     つまり何回忌というのはもともとは神道の発想で、それを日本仏教が取り入れたらしい。インドや中国の仏教には何回忌というのはあるのかな?
     つまり神道は魂は死後浄化されて 死霊→祖霊→祖先神(氏神)と三段階に変化すると考えているらしい。
     お盆に先祖の霊がやってくるというのも仏教的には本来おかしいらしく、極楽浄土に行っちゃったら解脱のための修業で頭はがいっぱいだからこの世には来ないし来れないらしい。でも神道的なあの世だと見えないけれどすぐ隣にいるのだから来れるということになるのだろう。
     日本人は仏教のつもりで神道的に死後の世界を考えているのだろうと著者は書いている。

     すると子供がいなくて死後祀ってもらえない人はいつまでも死霊のままで、祖霊にも氏神にもなれないことになる。漫画的には悪霊化してしまいそうな。
     そういうことを子供の頃から教えるとそれは嫌だから子孫を作ろうみたいになって少子化が防げるかも。でも子孫がいても祀ってくれるとは限らないな。

    Q11 修験道は、仏教ですか、それとも神道ですか。
     いわゆる山伏は宗教的には何なのか。修験道の開祖とされる役行者は本名役小角(えんのおずぬ)、最近はラノベや漫画にもよく出てきて有名だけど役優婆塞(えんのうばそく)とも呼ばれていた。
     優婆塞とは仏教の在家信者のこと。つまり小角は仏教修行者だったらしいが、出家した正規の僧ではない。正規の出家には官の許可が必要だった。でも無許可で出家した人もいたらしく、私度僧もしくは聖(ひじり)と呼ばれた。著者は役行者はこの私度僧だったのだろうと書いている。
     もともと山は神のいる場所、もしくは山が神そのものと考えられて神道系の山岳修行者がいたところに、奈良時代になって私度僧もしくは聖などの仏教系の山岳修行者が加わってくる。
     修行の結果呪力を身につけたというふれこみで祈祷や呪術を行うようになる。
     
     平安時代になると最澄と空海が新しい仏教である密教を日本に持ち込んでくる。密教では山岳修行が重視され、山岳修行が密教僧の基本みたいになっていく。
     山岳修行で加持祈祷の能力を高めることを験(げん)を極める と呼び、この極めた人を
    修験者とか験者(げんざ)、山伏などと呼ぶようになる。この修験者が作った宗教が修験道ということになる。

     修験道は本山派(天台系)、当山派(真言系)に編成されていき、主要な山に山岳霊場が作られて独立宗派もできる。これが江戸時代に厳しく管理されるようになって山伏たちは本山か当山どちらかに必ず属さねばいけないようになって、定住も求められるようになる。
     明治政府によって修験道廃止令というのが出て、仏教の天台宗もしくは真言宗に所属するか神職となるかが求められ、帰農した者も出る。
     だが戦後の自由化で修験道の教団がまた独立し現在に至るという。
     
    Q12 「神仏混淆」という言葉をよく聞きます。「神仏習合」という言い方もしばしば耳にします。どういう考えですか。
     「神仏混淆」「神仏習合」は一般には同じ意味とされ辞書でもそうなっているが著者によれば本来は違うとのこと。
     仏教が伝来した際には神道・仏教の間に緊張関係があったが聖徳太子の時代を経て対立は解消し、平和的な共存時代になる。
     神社内に寺院が建設されるようにもなる(神宮寺とか別当寺とか呼ばれる)。神前で読経したりもしたらしい。著者はこうした時代を神仏混淆と呼ぶべきだろうと言う。
     時代が下ると本地垂迹(ほんじすいじゃく)説というのが現れて、仏は水で神は波のごとく現れ方が違うだけで両者は同じものだと説くようになる。
     本地(真の姿みたいな)の仏が垂迹(仮の姿みたいな)として神の姿をとって現れるみたいな。中身は仏だけど人間から見ると神、みたいな存在を権現と名付ける。
     この考え方は法華経や密教の教理にうまく合致したらしい。そのために神と仏の組み合わせ表ができたりもする。神道の方から反本地垂迹説という巻き返しが出て、本来は神だけど仏に見えるのだ、という反論が出る。いずれにしても
     神=仏 というところで仏教側と神道側の意見は一致したことになり、著者はこれを両者が一体となって融合した「神仏習合」だと言っている。

    Q13 仏教のお経は仏の教えを書いたものといいます。神道の祝詞は仏教のお経のようなものですか。
     本居宣長によれば祝詞の語源は「のりときごと」で、「のり」というのは宣りとか告りとか詔りとか書いて、人間よりも上位の存在が人間に言い聞かせた、守るべきルールみたいになる。
     古代日本では天皇=神だったので祝詞=天皇のおことばということになってくる。
     これを天皇が直接臣下に言うのではなく、祭礼として祭祀者が神に語りかける形で周囲に聞かせるみたいな形式をとる。
     「宣命」という・・・と宣(の)る と結ぶものと
     「奏上」という・・・と申す と結ぶものがあり、
     逆に臣下から天皇へ何かを伝える場合は「寿詞(よごと)」呼ばれる。

     この寿詞というのが現在の祝詞と呼ばれるものにあたるという。基本的には神を讃えてから様々な神の恵み(家内安全とか商売繁盛とか五穀豊穣とか)をくださいなと祈願して、その実現に対する感謝も一緒に示すみたいになっているらしい。
     現在はひな型があって、部分的に単語を入れ替えるだけみたいになっていたりもするらしい。

     仏教のお経の方は仏の教え、実は聞いている人たちが仏となるための教えなのだけど、日本特有の事情としてそうした思想よりも仏教の持つ呪術的な効果を目的として国家繁栄を祈るみたいになったとのこと。
     修行を積んだお坊さんが美声で漢語のお経を唱えれば呪術的効果も増すということだったらしい。

     結果として五穀豊穣や家内安全などを祈るのであれば、祝詞もお経も差が無いだろうと書いてある。

     祝詞には家内安全の祝詞 とか 厄年の祝詞 など、空欄に名前を入れればいいようなものがいろいろあるらしい。

     祈るなら難しい言葉の方がありがたみを感じるのはわかるような気がするけど、全然わからない言葉でも親しみがわかないような。
     もうちょっと素人でも覚えやすくてわかりやすい俳句や短歌、標語みたいな感じにならないものかと言うと、罰当たりだと言われちゃうだろうか。
     

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