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「仏教と神道(ひろさちや著)」第Ⅲ部 合掌の沈黙 拍手の音
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「仏教と神道(ひろさちや著)」第Ⅲ部 合掌の沈黙 拍手の音

2021-06-21 19:00


    ・Q14 神道では「禊」によって身を清めるといいます。仏教の「禅」との違いは?
     神道では身を浄めるための行為として「禊ミソギ」と「祓ハライ・ハラエ」がある。両者は本来異なるが今はほぼ同一視されている。
     起源は古事記もしくは日本書紀の、伊弉諾尊が死んで黄泉の国に行った伊邪那美命に会いに行くが結局逃げ帰ることになり、黄泉の穢れを祓うために禊をするというもの。 
     これが禊であり祓でもあるのだが、違いがよくわからない。
     
     著者は一応の区別として以下のように書いている。
    禊・・・罪や穢れが無くても、身を浄めるためにする。神事や祭祀の前にも行う。
    祓・・・罪や穢れを祓うためにする。

     具体的な方法は水を浴びたり火にあたったり塩をまいたり。祝詞をとなえてもいい。
    でも禊と祓で例えば水の浴び方が違うとかは書いてない。自分の心が今穢れていると感じるかどうかで違うのだろうか。

     仏教の禅は神道のように罪や穢れを祓い落せる物質のようなものとは考えておらず、内面的な煩悩を考える。三毒と呼ばれる「むさぼり」「いかり」「おろかさ」を克服するために行うのが禅だという。具体的には座禅になる。

     密教に灌頂(かんじょう)というものがあり、外見的に似ている部分もあるが別物で、神道の禊祓と仏教の禅は全く別物だという。

    Q15 では、神道のいう「穢」とは何ですか。仏教にも、同じような禁忌はありますか。
     神道には赤不浄黒不浄というのがあって、赤は出産や女性の月のものに関わる血を穢れとし、黒は死を穢れとする。こうしたものを基本的には塩で浄める。
     仏教においてはこうした不浄、穢は無いという。法然もそう言い切っているのだが、神道の影響が強い日本では仏教も不浄、穢れを意識せざるを得ないのだという。
     お清めの塩を貰うのは神式の葬儀だけというわけではなく、仏式の葬儀でも香典返しには必ず塩は入っているもんな。

    Q16 仏教では祈る時合掌しますが、神道ではなぜ柏手を打ち、音をたてるのでしょうか。
     合掌は後付けっぽい解釈もあるが、古代インドの敬礼法というか日常動作が仏教と共に入って来たとのこと。本来は合掌して「ナマステー」と言えば「わたしはあなたを尊敬します」という意味で「おはよう」「こんにちは」「さようなら」を兼ねるとのこと。

     神道の柏手ももっともらしい解釈がいろいろあるが、これも俗説っぽくておそらくは古代の敬礼法がそのまま伝わったもので、日常動作としては廃れたが神前の作法としては残ったのだろうという。
     神道における拝礼の基本は二礼二拍手一礼だが神社によって八拍手のところもあり、葬儀の時は音を出さずしのび手となるとのこと。

    Q17 仏教の儀式では焼香をします。神道は玉串奉奠(たまぐしほうてん)。このことに、両宗教の特徴が現れていますか。
     香を焚くのはインド古来の風習であり仏教以前から。臭いをごまかすため、精神を鎮静させる作用があるため、時間をはかるための実用的な理由が大きいと考えられる。
     焼香の回数や線香の本数など宗派によって様々だが著者は最低限でいいだろうとの考え。そういいつつ特殊例に対する配慮を述べている。

     玉串奉奠の由来もいまひとつはっきりしていないが、所作はほぼ決まっているとのこと。

    Q18 仏教にはさまざまな仏像があります。ところで、神道には、神像はないのですか。
     仏教の仏像は日本伝来と同時に入って来たので仏教=仏像みたいになっているが、お釈迦様存命の頃には仏像は無く、入寂後500年ほどしてからつくられるようになったという。
     仏教には「儀軌(ぎき)」という仏像の作り方のルールブックみたいながあって手に何を持たせるか、どんな飾りをつけるかなど細かなことまで決まっているのだという。
     一口に仏像と呼ぶが、本来は如来像とか菩薩像とか明王像とか、インドの神々にちなんだ梵天像、帝釈天像、弁才天像、毘沙門天像・・・と様々な区別があるという。

     神道の神は「姿なき神」であり、神そのものに実体も姿も無いと考える。それでは神を拝めないので神体とか依代とか神籬(ひもろぎ)とか磐境(いわさか)とか、神が依り憑いた物体や人間、場所を設定して礼拝するのだという。
     例外的に造られた神像もあるにはあるが少ないとのこと。仏像は仏をしのぶためのもので仏そのものではないが、神像は神が宿る依代となるので神そのものになってしまう。なので簡単には造らず、姿なきものとし感じる方がいいらしい。

    Q19 天神さまは菅原道真公、八幡さまは応神天皇。明治以後も、乃木大将や東郷元帥などの神社があります。神道では、誰でも神様になれるのですか。仏教の、念仏を称えれば誰でも仏さまになれるという考えとは、少々違うように思われますが・・・
     
     歴史上の人物が神社に祀られている例をあげれば
     菅原道真 応神天皇 楠木正成 楠木正行 新田義貞 毛利元就 上杉謙信 織田信長
     豊臣秀吉 徳川家康 徳川光圀 乃木希典 東郷平八郎

     などがある。神社の格にもいろいろあってこれらは戦前の別格官幣社や府県社というもの。郷社や村社などローカルな神社を探すと無名の人が祀られた神社も多いとのこと。だが死ねば誰でも神として祀られるというわけではない。ただ靖国神社だけは例外で、ある条件下での死者は祀られてきた。

     一方で死ねば誰でも仏になるかというとちょっと誤解もある。日本ではもはや本当の意味で出家している自力仏教オンリーの人はまずいないので多かれ少なかれ他力仏教の考え方に影響を受けていて、この場合念仏を称えて阿弥陀仏に帰依すれば死後極楽浄土に生まれる。でもこれだけでは仏ではない。極楽浄土で修業して悟りを開いてはじめて仏になる。
     なので何の努力(修行)も無しに誰でも仏になるかというとちょっと違うとのこと。
     ただし親鸞の説いた浄土真宗では極楽浄土に生まれればそれでよい、というような考え方を説いたらしい。



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