「ポスト消費者社会のゆくえ(辻井喬・上野千鶴子 対談)」メモ
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「ポスト消費者社会のゆくえ(辻井喬・上野千鶴子 対談)」メモ

2016-04-03 19:00


    ・読まなかった本の整理中。これは何で買ったのか。おそらく経済とか流通とかは全然わからないので、少しでも知りたいと思ってかな。
     対談している二人ともよく名前を目にする有名人だが、私はあまり知らない。
     辻井喬氏が堤清二氏の別名だったことは私でもさすがに知っているが、作品は読んだ事が無い。パルコなんかもほとんど行ったことはないし、ファッションや広告なんかも関心は薄かったので、堤清二氏が活躍していた頃のセゾングループなどもよく知らない。
     上野氏は以前セゾングループの社史を執筆した縁があるとのこと。

     以下章立てに従って。対談の中では辻井さん、と呼ばれているが、うっかり堤氏と書いてしまった。直す気力が無いので失礼ながらそのままです。
    第一章 1950’s~1970’s
    1前史
     堤氏が西武百貨店に入社するまでのいきさつ。父親が婦人運動家たちに糾弾されて、政治生命を絶たれそうになった時に、当時秘書だった氏が平林たい子氏と交渉して、双方の顔が立つように話をつけた話、叔父が経営する西武百貨店を手伝えと父親に言われて、労働組合を作ることと、大卒社員を毎年公募するという条件で入社したこと、当初は伊勢丹創業者の小菅丹治氏に指南を受け、高島屋の新宿進出を自分が止める代わりに伊勢丹の池袋出店をあきらめてもらったエピソードなど。
    2激動
     ロサンゼルスに父親の命令で出店して(氏は自分は生粋の反米主義者なのに、と言っている)、大赤字ですぐ撤退した話、この損失を埋めるために成長し続けるしか道が無くなり、渋谷に新店舗を計画した話、自分の趣味と美術界の事情もあって、抽象画や現代絵画を中心にデパートで展覧会を行うようになった話、池袋店で発生した火災で社員が殉職し、責任を痛感した話など。
     渋谷店は、これで失敗したら終わりだという覚悟で、今とは違いうす暗いイメージだった土地に出店し、遅れてパルコ出店と公園通りの命名、NHKの移転なども追い風となって、単に店を出したのではなく、街を変えた、という実感を持ったという。
    3成長
     アメリカ進出の失敗経験から、日本でもスーパーマーケットの時代が来ると考え、西友ストアーを創業した話、百貨店と量販店は、アメリカだと客層が全く異なるのだが日本はそうならず、所得格差と客層が一致していない、食文化も同じものを大量に購入するアメリカに対し、毎日違うものを楽しむという多様性があるという話、デパートで文化的な催しを行うと、それに来る客は全くデパートに立ち寄らずに帰って行く、でも堤氏はそれが社会貢献だと思っていたという話など。 

    第二章 1970’s~1980’s
    1黄金期
     西部百貨店の黄金期は、1968年から1976年との事。日本の高度成長期であり、流通革命の時代でもあり、この間1970年には大阪万国博、1973年にはオイルショックがあった。
    西武百貨店は、オイルショックによる景気冷え込みを乗り切るため、下層階級の客をバッサリ切って、今は死語となっている、当時ニューファミリーと呼ばれたより上の客層にシフトしたという意味の事を社史に書いているそうだが、堤氏はそういう認識ではなく、高級な客も来やすいように文化事業を増やしただけと答えている。当時、高級住宅地には住めなかった団塊世代が西武線沿線に住み始め、彼ら団塊世代と二人三脚のように西武百貨店は新しい生活イメージを作り、売上を伸ばしていったみたい。
     堤氏は広告に力を入れ、自ら宣伝製作にかかわっていたという。今でいうCI(コーポレート・アイデンティティ)のようなことを、社員だけではなく外部のデザイナーを入れて、社内の女子社員の反応などもよくチェックしていたという。

    2第十期
     西部黄金期の、セゾンとパルコの広告というのは実に画期的で、商品を宣伝しない、というものだったが、こんなことが可能な時代は二度とこないだろうと言っている。
     費用対効果は数値化できず、広告が売上に貢献したかも定かではないと堤氏は言い、社長の道楽と思われていたとも。ただ、企業イメージ広告の成功例としてパルコがあったので、西部百貨店はこれに追随すればよくやりやすかったと。
     パルコ初代社長、のちに会長の増田通二氏に上野さんは取材したことがあり、「パルコが売るのは空間(イメージ)であって商品ではないんだもの」と言われたそうで、納得がいったと書いている。増田氏は堤氏の旧制中学時代からの同級生で、その縁でスカウトしたそうで、唯一の上下関係の無い、対等の関係をキープし続けた役員だったと堤氏は言っている。
     黄金時代が終わった、1980年に、糸井重里氏が西武百貨店の広告に関わるようになり、例えば「じぶん、新発見。」や「不思議、大好き。」がそうだったという。
     一方で、クリエイターも固有名詞で語られるようになると飽きられる時が来る、ということも意識していたという。セゾンが縁のあったクリエイターは、糸井氏をはじめ、自然に縁が遠のく感じで上手に離れていったという。ある有名クリエイターは上野氏の取材に対し、セゾンの売り上げが事務所全体の半分を超えないよう配慮していたという。
     西武百貨店の売り上げは1982年にピークを迎え、以降は百貨店冬の時代と呼ばれる業界全体の衰退期に入る。
     恥ずかしながら、パルコというのがテナント業だというのを今はじめて知った。なんとなくショッピングセンターの名前みたいに思ってました。マルイとかロフトとかルミネとか、いろいろ聞いたことあって買い物をしたこともあるけど、あまりそういう営業形態とかは考えたこと無かった。
     堤氏は西部百貨店が衰退した要因について、大衆消費社会が個人消費の時代になっていったためと言っている。つまり皆で同じものを持って安心、という社会から、自分の個性に合った特別なものを求めるようになったということかな。必要なものは既に持っているので。
     上野氏が西部百貨店の社史を書く時に同業他社や組合にもヒアリングして感じたのは、西部はイメージはダントツだったけど、品揃えや接客は老舗デパートに劣っていたということで、堤氏もそれは感じつついずれ追いつくだろうと思っていたら、追いつく前にかすんでしまったと答えている。

    3拡大戦略
     セゾングループというのは1985年から使い始めた名称で、それまでは西部流通グループだったという。堤氏の考え方として、消費者を教育して自立した消費者、自立した社会人にしたい、という事があったという。堤氏はいわゆる生協系の人達とほぼ同じ方向を向いているといいつつ、彼らの自立した消費者は自立した市民だ、という啓蒙的な考え方は押し付けがましくて反発も呼ぶ。そこで選択肢をいくつも西部が示して、その中から消費者が好きなものを選んでもらう、ということにしたみたい。
     西部は男女雇用機会均等法が成立する1985年の前から、女性社員の採用や女性管理職の登用には積極的だったそうで、それは西部がどちらかというとベンチャー企業で、優秀な男性社員はそもそも受けに来なかったのと、堤氏が採用は男女どっちでもいい、という考えだったこと、セゾンが客層としているのは20代の女性が主だったこと、などによるという。
     だが採用した女性社員が全員優秀だったかというとそんなことはなく、ダメだなあ、と思う人も半分いたという。自分がやった仕事を客観的に評価する姿勢がなく、「こうした方がいいんじゃない?」と言っても人の意見は受け入れず、私が認められないのは私が女だからだ、となってしまう、と。
     だが基本的にセゾングループは、男女関係無く定年まで雇用、の考え方だったという。
    また、定年まで働くのではない女性社員の処遇に関しても、契約社員の待遇、(結婚や子育てで退職した)OBの再雇用、パートタイマーの活用などの観点から、様々な制度を導入してきたという。保育園も作ったそうだ。女性のライフサイクルに合った生産労働を可能にする、こうした改革は、井戸和男さんという人事担当取締役から提案されたものだという。
     上野氏は、女性の使い方と、使い捨て方がうまい、と(笑)をつけて評している。
     堤氏は男女雇用機会均等法の成立を前にして、諮問委員会の委員もやっていたそうで、その時経営者側は反対、組合側は賛成という感じで対立していたのを、経営者に有利な法案なのに、何故経営者側が反対で組合が賛成なんですか?と質問をして反対派筆頭だった財界の重鎮を怒らせてその人が帰ってしまい、おかげで政府案がすんなり通って労働省から感謝されたと言っている。
     この法案は実は女性団体からは猛反対されて、立役者だった赤松良子さんやこの法案に賛成した社会党議員などは裏切り者扱いされたという。堤氏はそういう認識は無く、女性が深夜も働けないのが出世の妨げになると考えて、女性にとっていいことだと思っていたという。だが生理休暇がこのため無くなったことなどは、上野氏に言われるまで気付かなかったという。
    堤氏はアメリカの経験からクレジットカードも出すことにし、これを自分の系列店でしか使えない、いわゆるハウスカードではなく、加盟店全てで使用できるナショナルカードにすることにこだわったという。それで出来たのがセゾンカード。セゾンというのはフランス語の「季節」だってはじめて知った。ここで上野氏が、民主主義は必ずしも最適解を得られるとは限らないといい、堤氏の経営は民主主義的ではなかったからこそ最適解を出していた、というようなことを言っている。堤氏は民主主義は合議制の代名詞なのか?と疑問を持っていると言っている。

    4文化財団
     西部百貨店は売上につながらない文化活動をやっており、これは社長である堤氏の道楽としか言いようがなく、ご本人も認めているが、特徴的なのは 評価の定まった美術品ではなく、まだ評価の定まっていない現代美術や前衛芸術を中心としたということだそうで、それは評価の定まっている人には既に特定の百貨店とのつながりができていては入れなかったという理由もあるが、やはりご本人が好きだったからだという。 
    ここで何人かの作家名が出てくるが一人も知らない。フランク・ステラ、オルデンバーグという二人は途中でダメになった例としてあげている。他にマルセル・デュシャン、ジャスパー・ジョーンズなどの名前が出ている。堤氏は自分がいなくなっても文化事業が続くようにと、セゾン文化財団を設立し、また軽井沢にセゾン現代美術館もつくったという。
    堤氏が世を去り、セゾングループが事実上解体した現在も、HPを見るとこれらは健在なようだ。
     堤氏が渋谷パルコ9階に西武劇場(現在はパルコ劇場)を開館するに際しては、著名な舞台芸術化の朝倉摂さんの紹介でロックフェラー財団のポーター・マックレー氏を知り、彼からすすめられたメリー・スチュアートという黒人女性の劇場を見に、ハーレムまで行ったという。
     さらに銀座セゾン劇場をつくって、こちらでは著名なピーター・ブルック氏を招き評判となったが、妥協しない人なので新作をやるたびに舞台装置を大幅に変更することとなった(当然費用もばかにならない)ため、四回でやむなく終了したという。
     氏はこうした活動を、いわゆる企業メセナとは思っておらず、しいて言えば自己満足と評している。企業メセナというのは、もう死語じゃないかと思うくらいマスコミでは聞かない言葉になっているが、企業メセナ協議会という社団法人は今も活動しているみたい。

    5変貌
     高度成長期の大衆による大量消費社会が過ぎて、消費者の行動がどう変わったかという事は社会科学的に諸説あるらしいが、上野氏によれば「ステータス消費」という二極分解をしたという。つまり金持ちは高いものを自己顕示のために買い、貧乏人はものを買うのを抑制する。
     金持ち相手の高級ブランド品を売る店は、デパートの外へ出て独自に店舗を構えるようになり、貧乏人は量販店に流れて百貨店は苦戦する。堤氏はブランド品が高くなりすぎることには反対で無印良品を作ったそうだが、一方でエルメスやサンローランなどとライセンス契約して日本に持ち込んだのも堤氏だそうで、ブランド志向を助長した罪は自分にもあると認めている。上野氏は愛国者ではないけど、ルイ・ヴィトンに女性が行列を作るのは国辱と感じ、自分は一切ヴィトン製品は持たないという。
     堤氏によれば、80年代に入ってから、広告に対する反応が鈍くなり、時を同じくして渋谷にファストフード店が増え、子供のような若者が集まって夜を明かすようになり、街が汚くなってきたという。これはそれだけ子供の居場所が家庭になくなってきたからだろうと。
     そして渋谷からは、堤氏が思っていたような大人の客が消えていったという。

    第三章 1990’s~
    1 失敗
     1991年のバブル崩壊で、企業もエコノミストも多かれ少なかれ損害を受けたが、特に本業ではない不動産投資をした企業は傷が深かったという。セゾングループは創業以来、借入金で資金調達をする、借金体質だったといい、さらにデベロッパー事業にも参入し、土地を買うために金を借りるようになる。その中にはセゾンの命取りになったという西洋環境開発グループがあったという。
     西部環境開発グループのレジャー産業部門に「サホロリゾート」という会社があり、これは堤氏の発案で日本人に新しいバカンスを提案すべく、セゾンと地中海クラブという海外リゾート開発会社が半々の出資で作ったものだったが、日本には長期休暇という制度は未だに無く、セゾンも社員に長期休暇は与えていなかったということで、完全に堤氏の責任で失敗したと本人は認めている。
     他にもタラサ志摩というリゾートホテルと、銀座にあったホテル西洋銀座という事例を失敗例として分析しているが省略。また外資系のインターコンチネンタルホテルを買収し、10年で売ったという件も上野氏は失敗例としてあげるが、堤氏はこれは最初の2年は赤字だったが、その後ペイするようになり、売却益もかなり出たという。これが銀行の不良債権処理に巻き込まれて、世間からは損害を出したように思われてしまったという。
     また、セゾングループはクレディセゾンと東京シティファイナンスという二つの金融事業を持っており、クレディセゾンは小口融資に徹して生き残ったが、東京シティファイナンスの方は法人企業相手の融資に専念し、暴走して多額の不良債権を発生させ、親会社の西友も巻き込む形で経営破たんしたという。セゾングループの解体は、西洋環境開発と東京シティファイナンスの多額の負債が引き金になったということだが、こうなったのは適任では無いものを各社社長の座につけた自分の責任であると堤氏は言っている。被害が大きくなったのは、各社長と重役が実態を伝えようとせず、1991年に経営の第一線から退いたアドバイザーでグループの象徴でしかなかった堤氏にはなかなか放漫経営の実態がわからず、調査しようとしてもガードが固かったという。
     上野氏はこのあたりを太平洋戦争末期の軍部と天皇陛下の関係のように例えている。だが堤氏には統帥権にあたる権限はなく、彼らを解任する権限も無かったが、世間からは最高責任者と当然見られ、清算のために私財を投じることになったという。
     セゾングループが清算のために手放していった企業について、簡単に列記されている。一度も黒字にならなかったというつかしん、ファミリーマート、西友・・・
     ファミマもセゾン発祥とは知らなかった。堤氏はファミリーマートを売却すると聞いたときに、自分なら西武百貨店を売ってファミリーマートを残すんだが、と言ったそうだが、今それを言っても、というタイミングで当然無視されたそうだ。堤氏の部下は西武百貨店と共に成長してきた人たちで、西部百貨店を守る、という思考から当然ながら自由にはなれず、ショッピングセンターをやるにしても西武百貨店とテナントが同等の立場だ、ということも理解できなかったという。
     現在はつかしんは土地所有者のグンゼが経営母体、ファミリーマートは伊藤忠商事傘下で業界トップのセブンイレブンにひけをとらない規模、西友はウォルマートの小会社となったそうだ。

    2 解体
     堤氏は1991年に経営の第一線を退いて、セゾングループ代表からセゾンコーポレーション代表になる、と書いてある。同じ代表だが、セゾンコーポレーションというのは「個別事業の管掌及びグループ間の調整を図り、横断的な問題への対処、研究を目的に」設立されたとウィキに書いてあるけど何を具体的にやっているのかよくわからない。今もあるのかもわからない。
     だがこれまで書いてあった内容を見ると、実質的な権限は何も持たない、堤氏の隠居場みたいな印象を受ける。すると堤氏が亡くなった事で役割も終えたのかもしれない。
     この対談当時は(発行は2008年)堤氏は作家であり、はじめて周りに流されない立場になった、でも二十年遅かった(引退は63歳)、本当はサラリーマンのように55歳、せめて60歳で辞めたかったと言っている。
     企業経営というのは民主主義ではありえない、という話になって、企業を民主主義的に運営したら最適解が出るとは限らない、堤氏も当初はワンマン、独裁的に西武百貨店の近代化を試みて成功しており、合議できる体制にもっていくにはワンマンが引っ張らないと、というような意味の事も言っている。
     上野氏によれば、市場の意思決定は民主主義が最適であることが経験的に証明されていて、市場経済は計画経済に優るそうだが、企業組織の意思決定も民主主義が最適とは言えないらしい。
     堤氏は前近代的な百貨店と問屋との関係を壊して、生産者と直接取引できるように改革したりもしたそうで、これは氏がオーナー経営者だからできたことで、民主的に合意の上で、となればいつまでたっても改革はできなかったかもしれない。だがその引き換えに、氏は神格化されてしまったという。だが本人は西部は父親の会社という意識であり、改革は父親への反逆でもあったようで、自分がオーナー経営者だという認識はなかったという。
     権力者になりたくなくて反旗を翻したのに、権力者になってしまった自己矛盾を感じていたという。
     上野氏は三浦展という消費社会研究家と以前対談した際に、三浦氏が「セゾンの失敗は、堤さんが破滅願望を持っていたからだ」と言っていたと紹介し、堤氏にこれをどう思うか尋ねると、自分は早くから経営者には向いていない、早く辞めようと思っていたが、西洋環境開発と東京ファイナンスは整理しなければならないと思ってずるずるしていまい、この時のメインバンクとの交渉も、社内の仲間と交渉する感覚でやってしまって合意した事を文書で残さず、後でくつがえされたりもしたという。西洋環境開発が危ないという話は、社内では一切報告が無く、日本興業銀行の黒沢洋頭取から教えられるまで知らなかったという。
     辞め時を誤っているうちにバブルが崩壊し、さらに辞められなくなり、セゾン解体となってようやく責任を取る、という名目で辞められたという。

    3 再生
     60年代に第一次流通革命、大量生産・大量消費の時代があり、90年代にはさらにグローバリゼーションが加わった第二次流通革命がおきて、ダイエーが敗者となり、ユニコロが勃興する。ユニクロの武器はグローバリゼーション、つまり生産拠点の海外移転による価格破壊で、内需が拡大しても雇用は拡大せず、景気がよくても所得の再分配はなされない。
     無印良品も半分以上は国外生産だそうだ。量販店の販売価格はどんどん下がり、一方で高級品の販売は専門店に特化していく。これに挟まれた百貨店は空洞化が進む。百貨店で無ければ買えない物というのは無くなり、生き残るためには、パルコのように場所貸し業にならざるを得ない。パルコほどのプロデュース業のノウハウはなかなか持てないので、百貨店は効率の悪い場所貸し業になるしかないという。
     すると販売員も出典業者の出向でまかなって百貨店は出店料を取るだけになるのであれば、百貨店の社員はほとんど不要になる。百貨店は大型合併を繰り返し、淘汰の時代に入っていく。百貨店は売れ残ったら問屋に返せばいい、というリスクを取らない業態であり、これを買い取りに変えて不良在庫を持たないというノウハウは無いそうで、ここから脱皮できるかが百貨店生き残りのカギだと堤氏は述べている。
     通販が伸びるのも、リスクを負っているからだと堤氏は言っている。これに対して上野氏は通販はリスクを負わないから伸びるのでは?と疑義を挟むが、堤氏は配達までの時間短縮のために販売予測を立てて在庫管理をしなければ勝てず、リスクを負わねば勝てないという。堤氏は通販で失敗した経験があるそうだ。
     堤氏は量販店は斜陽産業という持論をお持ちとのことで、この場合量販店にはコンビニ、スーパー、GMS(ジェネラル・マーチャンダイジング・ストア=総合スーパー)が入る。この中で特にGMSは分解して、コンビニやスーパー、あるいは百貨店(百貨店になってもいいことないよ、と堤氏は言っている)になっていくと述べている。
     一方海外で成功したカルフールやウォルマートが日本ではふるわない理由は、堤氏自身分析しきれていないという。
     コンビニと日本型スーパーは生き残る、と堤氏は言っていて、日本型って何ですか、と上野氏が聞くと、生鮮食品の比率が高く、決して安くも無いものが売れる。これが海外から見れば、日本の消費者は経済的合理性が無い、ということになるらしい。
     昔は百貨店へショッピングに行くことは生活の中の「ハレ」だったが、今はショッピングという行為は「ケ」であり、日常生活を維持するためにスーパーに行く、と変化しているという。
     堤、上野両氏とも、日本の大衆全体が貧しくなったとの認識を持っており、これによってこれまでは同じ消費者が時には百貨店に行き、時にはスーパーに行くということがなくなって、スーパーにしか行かないような固定化された階層が出てきているという。この主たる原因は国外に雇用を持っていかれている事が大きく、小泉、竹中両氏がすすめた規制緩和、自由化、市場競争原理万歳、という政策の結果だという。
     だがまだまだ日本では例えば生協が生き残っているように、地場産業的なものを付加価値と考え、低価格を必ずしもよしとしない文化が残っており、堤氏はここを意識しているという。
     堤氏は百貨店はいわゆるオワコン(そんな言葉は使っていないが)と認識しており、これを何が何でも守ろうとか延命させようとは思わないという。
     可能な限り犠牲を少なくして、どのようにクローズするかを考えているという。だからもう業界人に戻る気は無く、現在経営をしている人は後退戦を強いられていて、指揮官には察して察しきれない辛さがあるだろうという。
     ここで突然、百貨店を人間にとっての共同体と考えるとどうか、と上野氏が問題提起する。
    堤氏は、日本には共同体は国家の監視機構でしかない、とアレルギーが強いが、一方で人間は何か自分を受け止めてくれるものがないと生きていけない。これまでは職場共同体や労働組合や政党がそういう役割を担っていたが、そうしたものは信用を無くしていてもはや受け皿にならない、という。
     ファンダムのような新しい形態はあるのだが、非常に排他的な集団になりがちで、自分達と違う考え、異論を持つ者はKYだ、とみんな弾いてしまう。こうした新しい共同体とビジネスがどれだけかかわりあいを持てるか、というのが大きな宿題だと、堤氏は述べている。
     どこで、どのような共同体をつくればいいのか、というのが 成熟した産業社会で人間がどう生きていけばいいのか、という問題とストレートに関連する、と述べている。

    第四章 2008(2008年は、この本の発行年)
    上野氏が、堤清二と辻井喬の使い分けについて、どのような意識だったのかを聞いている。これに対し「名前が違うだけですよ」と氏は答えるが、上野氏は辻井氏が堤氏を部分集合として内包しているのでは、という見解を述べる。
     堤氏はこれを否定する根拠は無いと言いつつ、ビジネス、文学、どちらの世界でも二つのバレバレな名前を使い分けていることについて損をしたと語る。
     父親にバレた時は特にたいへんだったが、やがてギャンブルなどよりはマシ、と折れてくれたそうで、夜眠れない時はお前の詩集の題名を見ただけで眠くなる などと皮肉を言ったとか。
     堤氏は必ずしも自分の責任ではないことも、立場上すべての責任をかぶって、世間からの悪口雑言に悶々と耐えながら失意の余生を過ごしている人を何人も知っており、自分はビジネスをやめても文学があってよかった、と語っている。
     戦争中に堤氏が軍人になろうとしたが父親の反対で果たせず、その頃たくさん詠んだ短歌を戦後はぱったり止め、共産党に入党して反主流派に属して除名され、かつての仲間が山村工作隊として潰れていったことから共産党の武装闘争に批判的な見方を持っている事などを語っていく。ただ、氏は共産主義者であることを辞めたことはないとも言っている。
     それでいながら三島由紀夫氏とは親しくて、「盾の会」の制服を作り、亡くなる二週間ほど前に呼び出されて、文学談義をしたエピソードなどを紹介している。自決2日前に電話があったが不在で話せなかったとも。お通夜に行って、三島氏のお父さんに、「貴方があんな制服を作るから、」と言われてひたすら謝ったとも。
     堤氏は、自分がいた当時の共産党の、閉鎖集団の中で、批判的な意見を持つ者は敵である、スパイである、スパイは殺してかまわない、とエスカレートしていくような部分が自分の中にもあったというような意味にとれることを言っている。
     上野氏は理想主義を抱えた共同体の地獄を見せつけられた思いです、と応じている。
    このあとシニシズムという思想の話になるが私は何を言っているのかよくわからない。
     ソ連で西部美術館が「日本のデザインー伝統と現代展」というのをやったときの話が面白い。会場準備中、工具をソ連の職人が次々に持ち帰ってしまったり、鯉のぼりを飾ろうとしたら政治的なシンボルと疑われて許可が出ない。堤氏が政府高官と談判して三日後に許可証が届いたとか。こんな許可申請の毎日だったという。オープンすると、主婦は電気洗濯機、若者はオートバイの前に釘付けになったという。
    堤氏はソビエトを見て、一人の独裁者が理想主義を独占して、本来の社会主義とは似ても似つかない国をつくっていった、と評している。ソビエト副首相から、中国の農業生産力がわが国を上回ったのはどうしてだろう、と相談を受けて、コルホーズの調査団を作ったことがあるそうで、縦割り官僚組織の成れの果て、という感じで、自分のところを通過すればもう責任は問われないので知ったことじゃない、その結果穀物倉庫には屋根が無く、貨物列車には穴が開き、コネのある者にしか作物が届かない、というひどいありさまで、農業作物を消費者に届けて初めて価値があるものになる、という考え方が無く、腐っていようが亡くなろうが、自分は作物を出荷した、という記録さえ残れば責任は問われないという人ばかり。
     堤氏は「官僚組織を壊さないとどうにもなりません」と副首相に報告書を出したそうだ。
     その後そのせいかどうかペレストロイカがはじまり、2008年当時のはプーチン大統領だったが、ロシア人は独裁者を生み出しやすい文化を持っていると堤氏は案じている。
     堤氏がモスクワ大学の客員教授をつとめた時のエピソードとして、マルクス=レーニン主義の完全な全集というのが一度も出版されたことが無い、という話になって、堤氏がグラスノスチの今こそお出しになるべきでは、と言うと、今の学生は一人も読みません、という話になったとか。
     堤氏は、ソ連や共産主義者の理想主義がもはや力を持たないのと同じく、企業集団ももはや理想主義を口に出すことはできなくなった、と言っている。
     堤氏の認識として、東西冷戦が無くなって、自由主義経済は堕落を加速し、産業社会が終末を迎えているという危機感を訴えている。
     社会主義という対抗軸が崩壊して、市場経済、特に大企業の経営者が堕落してマイナス面ばかりが出てきており、市場のチェック機能が働かなくなっている。
     大企業の堕落した経営者をチェックする、何らかの公共的価値を今後は何に求めればいいか、を堤氏に聞いてお開きにしましょうと上野氏は持ちかけるが、歯切れのいい解答は見出せない。
     上野氏も堤氏も、その公共的価値が伝統や共同体に基づくナショナリズムになってはいけない、と言いつつ、いわゆる進歩派の人たちが伝統アレルギーに陥って、過去の公共性や伝統を全部否定してしまったことも同時に批判している。こうしたことのたとえにレギュラシオン理論という言葉や短歌とかが出てくるけど私はよくかみくだけない。
     堤氏はマスコミ九条の会というのの呼びかけ人だったそうだけど、「戦争反対」とか「九条を守れ」「憲法改正反対」とかいう言葉を安易に言葉にする人は強く批判している。
     それでは単なるスローガンになってしまうと。
     茨木のり子さんという詩人の「私がいちばんきれいだったとき」という作品を、お手本としてあげている。
     両氏は、自分たちは日本の経済成長と衰退が、自分たちの成長と向老期とほぼ重なっている世代で、未来はよくなるという根拠の無い楽観を持っているけど、今の若い人は未来は悪くなるという感覚を持っている。彼らに未来は良くなると言えるよう、できるだけ犠牲を少なくして負債を軽くしておきたいと述べて締めくくっている。

     あとがきで、辻井喬名義で 上野氏がツッコミで、自分がボケであることが分かった。でもそれで若い人がセゾンを分析対象として興味を持つきっかけになればいい、と書いている。この5年後の2013年に86歳で亡くなっている。

     上野氏はツイッターなんかもあるようで、活発に活動しているようだ。ちょっと読んだだけだけど、共感するところもしないところもある。あまり著書とかは知らないけど、敵味方がはっきり分かれちゃいそうな人だな、という印象。
     でもこの対談本を読む限りでは、話の進め方は上手な人だなと思う。その上手さが、嫌いな相手はとことん追い込んじゃうんだろうな。

     私は経済とかファッションとかは平均値よりうといので、最後まで読みきる自信はまったくなかったがなんとか読めた(ひと月くらいかかった)。ポツポツと記憶にある広告とかの流れがちょっとだけつながった気もする。
     堤清二氏は、なんとなく偉い人で、会社がおかしくなったときに私財を投じて責任を取った人で、辻井喬という名前で詩も書いていた人だ、程度の知識しかなかったが、非常にユニークな経営者だったんだな、というのが今頃わかった。

     こういう難しい本は二度と読みたくないので、自分が気になったところだけ備忘録に書き出した。本来の対談者の主旨を取り違えたりしているかもしれないので、参考にはなさいませんよう。
     


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