●Twitter連投
2013年1月3日

内田さんに聞いた話。内田さんは教育大の学生時代に、講談社のバイトで入って、そのまま入社して少年マガジンの編集部に。マガジンを作った牧野さんというのは、戦後出版きっての編集者だと思う。牧野さんの無理難題に、内田さんは振り回されるんだな。
posted at 02:13:58 

通販というのは、少年マガジンが始めた誌上領布会というのが、はじまりだと言われてる。マガジンの誌面で、記念切手とかモデルガンとか売ったんだな。それは、確か、牧野さんに命じられた内田さんがやったはず。切手代用というシステムも。このへん、記憶不確かw
posted at 02:17:39 

30数年前に、内田さんと、飲みながら聞いた話だから、記憶が不確かだが。ある時、牧野編集長から、内田さんは、マンガの原画を渡される。講談社の受付に、誰かが置いていったのだが、名前も連絡先も書いてないので、調べろという命令だった。
posted at 02:21:02 

その原画は、確かにオリジナルな画風で完成度も高かった。内田さんは、いろんなマンガ家や、アシスタントに絵を見せたが、誰も分からないと言う。困り果ててしまった。それで、神保町にあった、マンガを得意とする古本屋があって、そこに持って行くことにした。
posted at 02:24:49 

その本屋の店長も、分からなかったが、アルバイトの少年が、「ああ、この線知ってます」という。そのマンガ家は、まだ無名の、モンキーパンチだった。
posted at 02:26:34 

それから何年かして、内田さんが、少年マガジンの編集長になり、黄金時代を迎えるのだが、講談社に原稿を持ち込んできた新人がいた。絵は下手だけど、何か凄いパワーを感じて、内田さんが会うことにした。いろいろ話してると、その少年が「僕のこと分かりますか」と言う。
posted at 02:31:03 

よく見ると、あのモンキーパンチを教えてくれた、古本屋のアルバイト少年だった。そして、その少年こそが、ジョージ秋山だったのである。この話を内田さんから聞いた時、僕は、えええっ、と大声をあげてしまった。当時の少年マガジン編集部というのは、無名の才能が、渦巻いていたのだな。
posted at 02:34:33 

ジョージ秋山の、銭ゲバとか、アシュラの顔のモデルは、内田さんだと言われている。迫力あるんだ、これが。内田さんは、少年マガジン黄金時代のエピソードをたくさん教えてくれたが、この話が一番驚いたな。
posted at 02:38:02 

エピソードのたくさんある人生が良いなあ。
posted at 02:41:25 



内田勝さんの発言メモ
1979年9月10日 20:42 記

1979年9月10日
銀座・三笠会館で会合。
参加者は、高山英男(現代子どもセンター所長)と内田勝(ホットドッグプレス編集長)。いずれも40代。橘川は29才。

内田勝さんは、1960年代の後半に「少年マガジン」の編集長として、新しいマンガの潮流を作った人。若い時代に少年マガジンで、通販ビジネスを作った人でもある。当時は切手代用であった。1977年頃、講談社の新規雑誌開発部長だった頃、高山さんの紹介でお会いして、以来、不定期ながらお会いして情報を交換してきた。新規事業の雑誌は「ホットドッグプレス」(HDP)となった。創刊の前に、文化通信で発行した、創刊キャンペーン特別号の一面で僕と内田さんの対談が掲載された。その新聞は、特別号であったためか、文化通信に問い合わせても実物を発見できなかった。以下の文章(メモ)は、食事をしながらおしゃべりした時に、記憶に残っていたものを、家に帰って記録しておいたものだ。読者マーケティングと時代の流れを見ることによって雑誌を編集していた内田さんの編集者態度が分かる。内田さんから教えてもらったことや、少年マガジン編集長当時の数々のエピソードもある。いつか、まとめる。