ちょびの東京放浪記 その八
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ちょびの東京放浪記 その八

2015-05-24 18:07
    アガサ・クリスティの代表作の一つに「オリエント急行の殺人」というのがある。
    1974年に「オリエント急行殺人事件」の題名で映画化された際には大ヒットしアカデミー賞にも輝いた誰もが認める名作だ。

    オリエント急行とは西ヨーロッパとバルカン半島を結ぶヨーロッパの長距離寝台列車の俗称で、さまざまなオリエント急行がヨーロッパの西と東を行きかっていた。

    一般的に豪華な車両で構成され乗客も貴族や商人など裕福な者が多く、庶民の憧れでもあった。しかし、第二次世界大戦後の交通網の急速な発達と路線の縮小に伴い、オリエント急行も
    その役割を終え、現在では復元された観光列車を除き、運行していない。

    日本においても最近は寝台列車といえば優雅な旅行の移動手段と捉えられることが多いが(逆に夜行バスは格安の移動手段だ…)、一昔前までは庶民の乗り物だった。

    その歴史は古く1900年には日本でも寝台列車が運行開始され、長年庶民の足として活躍した。
    1980年代、これまた急速な交通網の発達・整理に伴い寝台列車も激減。他の交通網との差別化を図るため寝台列車はただ単に移動するための手段ではなく、搭乗することを目的として高級感を売り物に変化していった。

    石川さゆりが歌う「津軽海峡冬景色」も今は昔。庶民の乗り物だったブルートレインの雄姿は日本から姿を消し、「上野発の夜行列車」は人々の記憶の中と歌詞のみの存在となってしまったのだ。





    というわけで上野である。相変わらずの長い前フリであるがK女史と別れホテルにチェックインするため上野にやってきた。今からここが僕の行動拠点となる。東京メトロ銀座線、
    上野広小路駅に降り立つ。階段を重い荷物をもって上がると広めの道路に出た。雑多なビルと行きかう人々。

    自然とため息がでる。たった一人でここに立っていると、とても心細い。しかし頼りとなる
    K女史はもういないのだ。まあ何とかなるかと腹をくくって前進する。ほどなくして目的地についた。

    一階がパチンコ屋の小さめのビルにやたら目立つ看板が掲げられている。カプセルホテルDだ。何とも言えないいかがわしさを醸し出している。何となく入り辛い。とはいえ、約束していたチェックインの時間を少し過ぎていたので悠長なことは言っていられない。

    意を決して路地のような通路を通ってエレベーターに乗る。受け付けは6階にあり広いとは言えないロビーを進みチェックインした。一人でホテルに泊まったこともなければ、カプセルホテルも初体験だ。ドキドキしながら受付の女性に説明を受けながら鍵を受け取る。とにかく子の鍵さえあれば万事OKということらしい。少しホッとする。

    まずは自分のカプセルを確認して荷物の整理だ。最上階に移動して狭い通路を抜けるとカプセルルームがあった。外の喧騒とは違い館内はエアコンの音以外聞こえる物がない。そ―っと静かに移動して自分のカプセルを探す。当たり前だがどこも同じつくりなので数字(カプセル番号とでもいうのだろうか)だけが頼りだ。

    慎重に数字を見比べて自分の数字と同じカプセルを見つけた。なんということだ。上の段じゃないか。しかも下の段と左のカプセルにはすでに先客がいた。ほかにいくらでも空きがあるというのに何でこんなに密集しているのだろう。

    気を使いながら上の段に這い登る。見た目ほど狭くはないがストレスを感じないほど広くはない。外とカプセルを仕切るものは簾のようなシャッター(?)だけだ。少しでも物音を立てると他のカプセルにも丸聞こえだ。夜行バスの悪夢が脳裏をよぎった。

    カプセル(寝床)の確認もそこそこに、ロッカーへ荷物を預けることにした。ロッカーは幅が目いっぱい広げた親指と小指の間くらいしかない。これには困った。着替えを入れただけでロッカーがいっぱいになった。

    キャリーケースはとてもじゃないが入らない。仕方なくケースの中身をロッカーに押し込んで
    キャリーケースは受付に預けることにした。まあ格安で泊まらせてもらうのだ。文句をいえた義理ではない。

    前払いの料金を支払い、数十分の滞在で僕は飛び出すようにホテルを出た。手には東京ガイドブックと小さなカバン。首にはガラケーをぶら下げていざ上野を探検だ。まだ日も明るいがホテル前には客引きのお兄さんたちが、何十人といて、行きかう人に声をかけている。こういうのは本当に苦手だ。彼らと絶対に目を合わせないよう”クウ”を睨みながら小走りに通り抜ける。

    変な空気を醸し出したおかげかお兄さんたちは僕に声をかけなかった。よほど危ないやつに見えたにちがいない。僕がまず最初に行こうと思っていたのは上野恩賜公園である。ホテルから本当に近く探索し甲斐があったからである。





    5分ほど歩いたところで公園の入り口に到着した。上野公園の歴史は江戸時代にまでさかのぼる。1625年、江戸幕府がこの上野の台地(上野の山)に寛永寺を建立したことを端としている。なぜこの地に寺を建立したのか?もちろん呪術的効果を狙ったからだ。

    この上野の地は江戸城から見て北東の方角、つまり丑寅の方角に当たる。一般に鬼が牛の角と虎柄のパンツ(腰巻)をはいているのは鬼門の方角からやってくるからだ。
    この鬼門を封じるために建立したのが寛永寺なのだ。

    江戸幕府(あるいは天海)にとってこの地が重要な意味を持つのはそれだけではない。
    彼らが江戸を呪術的に世界最強の都市にするためにお手本にしたのが京都である。
    京都に都が置かれてから江戸幕府が開かれるまで(あるいは以後も)政治・文化の中心は
    京都にあった。

    京都もまた呪術によって守護された都市であることは誰もが(当時の人々も)認めるところである。その京都の呪術を江戸に持ち込むことは自然の流れだった。しかし、江戸の地は京都に比べて自然による風水的な守護を得るにはあまりにも貧弱な土地だった。

    そこで天海たちが考え出したのが言霊による守護だ。言霊とは言葉の音や字面そのものに霊的な力が宿るという信仰だ。従って同じ音(名前)を持つ物は同じ力を宿す。ならばと天海は上野の山に建立する寺に東叡山と言う山号を与えた。これは東の比叡山という意味だ。京都の鬼門である北東を守るのが比叡山だからそう名付けたのである。同じ名前を付けるだけで同じ霊力が宿るのだ。何ともお手軽な呪術である。

    上野公園の桜は有名であるが当然これも偶然ではない。吉野山を模して桜を植えている。
    天海の京都のコピー計画はもちろんこれだけではない。上野公園の代名詞不忍池もそうだ。

    この不忍池の中央には弁天堂がある。弁天堂があるこの小島は今でこそ歩いて渡れるがその昔船がないと渡ることができなかった。わざわざこの小島に弁財天を祀ったのは何故なのか?





    それはこの不忍池が琵琶湖を見立てているからだ。その証拠を提示するのは簡単だ。この弁天堂が琵琶湖の竹生島から勧請(のれん分け)されたといえばすぐに理解してもらえるだろう。
    琵琶湖にいる弁財天がここ不忍池にもいらっしゃるのである。

    こうして小京都が上野に再現され、徳川家の鬼門は万全の態勢で守護されることになった。
    寛永寺は壇上寺と共に徳川家の菩提寺として繁栄を極めたが1868年の上の戦争による焼失に
    よりその結界は崩壊し、北東の水戸藩から出た徳川慶喜によって徳川の時代は幕を閉じることになった。

    その後明治政府によりその用地は没収、公園として整備されることとなり、いま現在の公園の原型となったのだ。

    公園には多くの人々が安らぎを求めてやってきていた。道なりに歩いていくと大道芸の人もいる。木琴らしきものを並べて音楽を奏でていた。ほとんどの人は見向きもしていなかったが、
    外国人のカップルが興味ありげに演奏に耳を傾けている。

    演奏している人は世界各地を回っているらしく、流ちょうな英語で木琴のコードの話を二人にし始めた。ところがカップルはコードの話に大した興味はなかったようで、困ったような半笑いを浮かべながら、早く話が終わらないか待っている。





    話をこっちに振られなくてよかったと思いながら、僕はその場を去った。不忍池を左手に進んでいくと橋が見えて多くの人でにぎわっている。弁天堂だ。立派な石橋を渡ると目の前に赤い建物が見えてくる。これは戦後建てられたもので建立当時の面影はない。

    お堂の周りにはいろいろな碑が立っていておもしろい。
    すっぽん、ふぐ、めがね、鳥、自動車、包丁、慰霊など何の脈絡もなく置かれている。
    なぜこんなに様々な碑があるのかは全く見当もつかない。何か呪術的な意味が…あるわけはないだろう。





    弁天堂を一周するころにはそろそろ日が傾きかけていた。さすがに朝からずっと歩いていたので足が棒のようだが、スケジュールはぎっしりだ。休んでいる暇はない。このまま急いで上野動物園を目指そう。








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