ちょびの東京放浪記 その九
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ちょびの東京放浪記 その九

2015-05-29 21:28
    上野公園は広い。なぜなら迷子になってしまったからだ。弁天堂をお参りした後、すぐに
    上野動物園にこうと道路を渡って階段を上り左におれてまっすぐ行けば着くはずだった…

    道に沿って歩いていると左手に赤い鳥居が見えた。外国人の観光客がたくさんいるようだ。
    花園稲荷神社と五条天神社だ。京都の伏見稲荷に比べれば規模は小さいが、ずらりと赤い鳥居が並ぶさまはなんだか異空間に通じる通路みたいで観光客の心をひきつける。





    鳥居とは、読んで字の如く鳥の寄生木であり、あの世とこの世を隔てる結界である。
    天岩戸神話の常世の長鳴鳥が止まった宿り木が由来とされる。

    また興味深い説に出エジプト記に出てくる門の柱と鴨居に羊の血を塗ったというユダヤのしきたりから来ているというものがある。日ユ同祖論も都市伝説としてとても面白いが、今回は
    主題から逸れるのでやめておこう。

    せっかく来たのだから寄って行こうと鳥居の前までやってきた。ところがそこから先に進めない。別に結界が張られて邪心の塊である筆者が入れないとかいうのではない。

    外国の観光客が次から次と記念写真を撮ってそこを通れなかったのだ。”鳥居”というのは
    外国人から見て、とてもエキゾチックでこれこそザ・日本というシンボルのようだ。
    家族や友達、恋人いろんな人が嬉しそうにスマホで写真を撮っている。

    前にも言ったかもしれないが日本の文化を知ってもらえるというのは、日本人として純粋にうれしいものだ。僕は自分も写真を取りながら、鳥居が通れるようになるのをしばらく待った。とくに待つのが苦痛にも感じなかった。

    すっかり満足したのか外国観光客の集団はあっという間に散り散りになり、残されたのは僕一人となった。静かに鳥居をくぐり異界へと入っていく。若いときは全く興味はなかったがやはり神社仏閣はいい。心が洗われる。神や仏を信じることが大事なのではない。

    見えざるモノに対して奢らず謙虚な気持ちで接するということが大事なのだ。
    お天道様はいつも見ていることを忘れてはならない。(-人-)





    清々しい気持ちで元来た道を戻って人通りの多い道に出る。これはたしか左に行けばよろしいな?ずんずん進んでいくと、何やらテレビの撮影が行われていた。上野公園の自然を紹介する番組らしい。五人くらいの小規模のクルーで楽しそうに撮影していた。

    撮影の様子を横目に見ながらトコトコ歩く。足は痛いが前進あるのみ。すると道が二手に分かれている。地図を見るがよくわからない。今自分がいる位置が分からない。はて困った。

    どっちに行くべきか悩んでいると看板がふと目に入った。どうやら左手に行くと、牡丹の展覧会的なことがやっているらしい。ということは右に行けば動物園に行けるはずだ。

    迷うことなく右側に行った結果、僕は迷ってしまった。動物園に着かない。一体ここはどこなのだ?自分の居場所が分からないから地図は役に立たない。こうなってしまっては仕方がない。スタート地点に戻ろう…

    20分ほどかけて戻ってスタート地点の看板に目を凝らす。左側にあるのは間違いないのだが、どこをどう間違えたのだろう?もしや右方向なのかと行きかけたがどう見ても人の流れは左側だ。やっぱり左!





    道を間違えないようにと歩いていくと先ほどはなかった人だかりができいている。
    大道芸人の方らしい。大音量の音楽をかけて見物客を呼び寄せている。僕もフラフラとその音楽におびき寄せられ見物人の一人になっていた。

    風船を組み合わせて某ミッ〇ーマウスをつくったり、中国コマのパフォーマンスなどなど
    オーソドックスだが迫力の芸だ。こういった大道芸で生活するのは本当に大変なことだろう。
    この人も全国各地を回っているようだった。

    一回の公演で平均どのくらい稼ぐのかはわからないが今回の稼ぎはそこそこ良かったようだ。僕も少なくて申し訳ないが小銭を入れさせてもらう。楽しい芸をありがとう。

    さきほどのボタンの展覧会の看板。まさか、まさかとは思うが念のためだ。こちらに行ってみよう。あっさり上野動物園に着いてしまった。やれやれ、全く無駄な時間を過ごしたものだ。





    まあ大道芸も見れたし全く無駄だったわけではないか。まわりを見ると意外なほど人が少ない。平日の夕方だからだろうか。動物園の横に併設された子供遊園地がにぎやかだ。

    遊園地の前には昔ながらの売店があった。都会のど真ん中にある動物園だ。田舎の動物園とは違うのかと思っていたが、結構普通なんだなーと親近感を持った。





    入場口の前はガラガラだ。子供連れとカップルがちらほら。混雑を予想していただけに拍子抜けする光景である。ゆっくり見学できるし空いているに越したことはない。入場料金を払って中に入る。

    幼稚園くらいの子供たちが記念写真を撮っている。なんとかわいらしい。動物よりこっちを見ていたいくらいだ。あまりじろじろ見ると不審者だと思われてしまうので、さっさと移動する。右手にいきなりジャイアントパンダの看板があった。





    飼育エリアへの入場をコントロールする柵が置いてあるが柵を使うほど人はいない。
    これはラッキーだ。曲がりくねった通路を進むとガラス張りのオリ(?)があり数は少ないが人だかりができている。中をじーっと見てみるがパンダの姿が見えない。

    一体どこに居るのか。もしやもう展示時間が終わって中に帰ってしまったかと思ったら、
    隅の方でぐるぐる徘徊している白と黒の毛玉が見えた。おお、いるじゃないか。





    一頭のパンダが隅っこの方で延々と行ったり来たりしている。どうやら、中に戻ってゆっくり休みたいようだ。まるで仕事に疲れて帰ってきた中年サラリーマンが、家の鍵を失くして玄関の前を行ったり来たりしているようだ。何とも哀愁漂う姿である。テレビで見る愛くるしい姿とは打って変わって疲れ切ったその姿に客も不満気だ。

    パンダも自分の役割というのがわかってるのかもしれないと思った。9時から5時はしっかり愛想ふりまいて自分の仕事をこなし、それ以降はプライベートタイムだ。愛想なんかふるまっていられない。さっさと家に帰ってビールのいっぱいでもグイッといきたいのだろう。

    全くかわい気のないパンダがその隣のエリアにもいた。こちらも出入り口の前をうろうろし、客の方には見向きもしない。とにかく唯々この場から立ち去りたい様子だった。

    そりゃそうだよなーとパンダに同情する。一日中ガラスの向こうから、カメラやビデオを撮られながら、かわいいポーズをしなくてはならないのだ。一人きりの時間も欲しいのだろう。
    切ない気分でパンダエリアから足早に去った。

    パンダの飼育は色々な意味でとても難しい。いま現在日本の動物園で飼われているパンダはすべて中国生まれだ。パンダは中国からレンタルで貸し出されているのは皆さんもご存じだろう。年間のレンタル料は”つがい”で約一億円といわれている。昔はパンダ外交などと揶揄されていたが、今では立派なパンダビジネスなのだ。

    レンタル料が高いことに加え、飼育にも細心の注意を払う必要がある。パンダが珍しい動物だからという理由だけではない。病死はともかくもし何らかの手違いで死なせてしまえば、損害賠償を払わなければならないからだ。

    さらにパンダは”種”としての生存能力に驚くほど欠けている。パンダは大熊猫と書くように熊の仲間であり本来雑食だ。ところがパンダは肉をめったに食べない。肉の味を感じることができず、肉を食べることが嫌いなのである。

    そのくせ、植物を消化する酵素を持ち合わせていないという訳のわからない生態を持っている。一日中もぐもぐかじっている竹をほぼそのまま排泄するのだ。竹そのものにほとんど栄養がないのに、そのわずかな栄養も摂取することができない。

    よってパンダは常に栄養失調で体に不調がある。人間が十分な栄養を与えないと生き延びることができない。さらに言えば、パンダは育児も苦手だ。発情期そのものが短く、メスの受精期間はさらに短い。

    妊娠しても兆候がなく(おそらく本人も気付かないのだろう)、生んでも気づかないことがある。通常1匹~約50%の確率で双子の小さな赤ちゃんを産み、かなりの確率で死なせてしまう。





    その巨体で小さな赤ちゃんを押し潰したり、双子なら育児放棄で片方の赤ちゃんを捨ててしまうのだ。また赤ちゃんは生まれてすぐに試練が待っている。その小さな体で山のような大きさの母親のミルクを飲むため自力で乳首に辿り着かなければならないのだ。よくまあ今まで絶滅せずに生き延びてきたと感心する。

    年間の飼育費用も相当なものだ。一日18kgもの竹を食べなければその体を維持できず、環境の変化にとても弱い。食費だけでも年間500万円くらいかかる。

    そこまでしてどうしてパンダを飼うのだろう?と疑問に思う。いくらパンダが人気だとはいえあまりにも費用対効果が低すぎる。見に来てくれるお客さんのためにという気持ちももちろんあるだろうが、単に意地だけでやってるんじゃなかろうかとうがった見方をしてしまう。

    いろいろ物思いにふけりながら、次のエリアに向かう。ところが動物がなかなかいない。サルもいないし虎もいない。みな展示エリアを離れ寝床に帰っていた。どおりで客が少ないはずだ。動物のいない動物園に来て楽しめるのは偏屈な哲学者くらいのものだろう。

    鳥エリアにやってきた。ここはまだ多くの鳥たちが展示されていた。そこにやたら騒いでいるグループがいる。外国人らしい。東京に来て感じたのは外国人の多さだ。ここ数年、特に外国の観光客が多いらしいが、どこに行っても異国の言葉が飛び交っている。





    騒いでいるのはどうやらアメリカ人らしい。その中でも黒人の若者が一人、尋常ではなく騒いでいた。全く迷惑なやつだ。旅の恥はかき捨てというが、最低限のマナーは守ってほしいものである。

    と思っていたのだが、どうも様子がおかしい。騒ぐというより叫んでいる。
    ぎゃあああああああああああああああ!おーまいがああああああああああああああああああ!

    とにかく叫んでいる。関わるとろくでもないことが起りそうだったので遠くから様子を見る。よく観察すると彼は鳥が少し動くと叫ぶようだった。つまり鳥が怖いらしい。ばさっと羽を
    広げただけで、この世の終わりがきたのかと思うような叫び声をあげている。

    彼の連れはその様子を見てゲラゲラ笑っている。しかし彼はものすごく真剣だ。世界一怖い
    お化け屋敷にでもいるように慎重に歩を進めている。そんなに怖いなら動物園にくんなよと
    思うが、彼も仕方なく友達に付き合っているのだろう。

    これほど怖がっているのだ。入園するときはとてつもない心の葛藤があったに違いない。
    彼の勇気に拍手を送ろうではないか。ぎゃあぎゃあ騒いでいる彼を避けながら前に進む。
    彼に幸あらんことを。





    さて水辺の動物エリアだ。ペンギンやアシカの愛らしさに頬が緩む。ニヤニヤしながらアシカを見ていると館内アナウンスが流れ始めた。そろそろ閉園の時間なので速やかに退場してください。全部見たわけではないが、動物もほとんどいないし今回はここまでにしよう。

    出口に向かって歩いた。つもりだった。冷や汗が出る。まさか。いやまさか。また。
    そう、迷子である。たかが、動物園の中ではないか。迷うはずがない!しかし迷ってしまった。

    まずいぞこれは。閉園はもうじきだ。おっさん一人が園内で迷子で見つかるなんて死んでも
    嫌だ。必死で出口を探すが分からない。本当にやばいぞと焦っているとイチャイチャしているカップルを見つけた。「そろそろ帰るか」みたいな話をしている。

    このチャンスを逃すと一生ここから出られないと思った僕は彼らの後を必死でついて行くことにした。つかず離れず、不審がられないようにあとをついて行く。十分不審だが気分は熟練の刑事だ。犯人を尾行するようについて行く。

    するとさっきの鳥恐怖症の彼のグループも流れに合流した。間違いなくこちらの方向であっているぞ。心に余裕ができたので黒人の彼の様子を見る。今はすっかり落ち着いて笑顔もこぼれている。この数時間で彼は人間として成長したに違いない。おてんとうさまは努力するものを見捨てないのだ。





    ほどなくして出口に着いた。ほっとしたのと同時に疲れが半端なく体中を襲った。もう限界だ。余計なことでウロウロしすぎてへとへとだ。ここらで少し休憩したい。ホテルに戻るか?いやまだまだ時間はある。ホテルに戻っても何もすることがない。

    少し休んだらあそこに行こう。江戸の総鎮守浅草寺へ。でもその前に休息も必要だ。目の下にパンダのような隈を作りながら、僕は上野動物園を後にした。



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