隙だらけという隙だらけ
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隙だらけという隙だらけ

2018-12-31 12:49

     平和な社会になりつつある中、僕達は自身で身を護る方法というのを置いていってしまったようです。武道の必要性はファッションの方向へと進み、剣技もまた芸術利用のための道具として参与しているようです。そして、このように記事を読み進めている間、あなたは命の危険に関して自分自身を護らずに文章を読み進めていることを今しがた自覚してみるといいかもしれません。

     常々危険がないのも事実ですが、いつ世界が滅んでもおかしくはないというくらいには、僕達には予測能力というのが欠如していると言い切ることができます。あらかじめ敵の奇襲が分かっていれば、分かってさえいればそのまま難儀なく対処が可能で、あらかじめ初恋の人が分かっていれば、分かってさえいればそのまま難儀なく契りをよしとしてしまうことになるわけですね。

     人は恐怖を感じると一時止まってしまいます。だから戦争が頻繁に勃発してきた時代の兵士たちは、経験によって自身の恐怖をコントロールしていきました。しかしながら、恐怖は、恐怖心としてどこまでも心の奥底で、迷路の如く入り組んだ構造を最大限に利用しながら隠れているに過ぎませんでした。兵士は平和になった後、その恐怖心に苛まれ、実に強力な鬱病を発症したかの如く振る舞われた、否、そうせざるを得なくなってしまったわけです。

     集中は、何かに対しての鉄則を以てして何か特定のことを為し遂げるわけですが、その分だけそれ以外の状況に対して無力であることを示しています。自己が無力であることを自覚することに集中するというのは、つまるところ世界という奇襲に対して全くの無力であるが故に、かえって自己が守られていることを意味します。というのは、単に何かしらのバリアが張られたというわけではなく、単純にそういう悩みの状況のときは結局、誰からも狙われていないのです。ただ、外に出ようと一歩踏み出そうとするときには、「記号のスナイパー」が構えていることを知らなければなりません。だからこそ、誰も外に出ようとはしないのです。記号のスナイパーはいつでも待ち構えているわけですが、別に命をいただくこと以外にも構えている理由はあるのでして、例えば「Congratulations!」と言わんばかりにお祝いをするなど、様々です。そんな中で、どういうわけかネガティブな、しかも最大限にネガティブなことを思い起こしながら行動し、生活せざるを得なくなってきた、そういう戦争時代の名残が、遺伝子に刻まれているのかもしれません。別に進化論からすれば、遺伝要因はそう簡単には変わらないとは思いますが、僕からしてみれば、命に危険があるなら、遺伝子さえも生き残るには致し方がないことが起こってしまったのではないでしょうかと、言いたくなります。

     人類の、特に大衆の隙間はとにかく単純化されてしまっています。音楽を一人で聴くときのリズム、話し方、歌を歌う時の癖、そして、言葉の使い方、行動するときのタイミングや空気の感じ方、存在しないことに対する無頓着な言い草、誰かがやってるから自分もやるという流れやすさ、あるいはその逆の自分本位な、身勝手な言い回し、これらすべてが例外なく大衆化されており、ゆくゆくは大衆の進化論に還元されていくはずなのですが、どうやらまだまだそういう黎明期でもなさそうです(ソースは僕のブロマガの大多数な香ばしいコメント達)。

     そして一度この流れを形成すると、流れの見えない人は誰かに流れをぶった切られるまで同じことを繰り返してしまいます。見た目は全く違う日常を過ごしているのにもかかわらず、全く同じかのようにとらえられ、囚われ、結果、無限後退論理に陥ってしまい、反出生主義や厭世主義といったパターンに付き合うこととなるわけです。ここにスルースキルや無視の効用があるわけですが、彼ら(大衆と見なされている大衆という自覚のない)人類は、どこか客観を求めすぎて、あるいは自己を主張しすぎて、丸みを帯びた生き方の中で、どこか尖った選択によってギャンブルをしようとしている生き方を望んでいるのかもしれません。自分自身が大衆の一部でありながらも、個人であろうとするその生き様そのものが、現代では大衆そのもので、誰もが大衆であるという抗いがたい、本当は当たり前な事実に対して、大衆嫌悪なパターン人種は何も対抗策を持ち得てはいません。引っさげるものもなければ、文句をいう必要性を自ら排除して自分の、自分による、自分のための人生という、考えてみれば意味不明で利己がすぎる生き方を貫こうとするわけです。

     そういうのを突破せんとするのが、恐らくは現代の実存主義なる生き方になりそうですが、まだ生き様というところまで行き着いてないというのが、現実的な実存主義者の有様なわけです。「カタ」を「ザマ」に変えるための、そういう生き様が理論化できればとは思うのですが、あまりにも表現が多様で、多用がすぎることがあり、今でもこの文章を見やすく、分かりやすくしようと思えば思うほど、そういう現状を伝えようとすればするほど、脱線気味になってどうでもいいとし、さっと次の文章へとバッタ飛びをするわけです(決してそれがダメということではありません)。

     そして何より、このように文章を読み進めていく上で、読者のみなさんや、僕の中の精神性、そして隙だらけな隙、そういうことを指摘するときの隙間、狙われるタイミング、どこまで行っても隙だらけとなってしまうゼノンのパラドックスの如き無限分割、それによる不毛という印象からくる無限後退なパターン認知、それがアナロジーという類推過程を経ていって通じる「境界なき補助線」、その補助線によって初めて認知されてしまったかのような「錯覚としての自己」、長すぎて歯切れのわるいこの文章の様を評価するもう一人の自分。書くとキリがなく、枚挙にいとまがありません。

     僕はこれぐらいでしかこの種の形而上学を述べることはできませんし、下手すると記述様式もこのような具合でキリがなく、延々と連綿に続いていくのかもしれません。このような連続のようで実は不連続な非連続性を、僕は説明しながらも、自身の頭の整理に利用しているに過ぎないのかもしれません。つまり、これが僕の普段の語りであり、普段の頭の中の流れであり、どこかで切らなければキリのない停止性を孕んでいる何かがあるのかもしれません。





    というわけで、今日はここまで。
    それでは皆様、A Happy New Year!




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