意識を意識して動かすということ 眼球運動の焦点のような意識体について
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意識を意識して動かすということ 眼球運動の焦点のような意識体について

2019-03-21 14:52

     これから話すことはあくまで僕自身に関する事柄であり、他の誰かに役立つとは思っていません。ですが、僕だけにこんな能力(?)が備わっているとは思えないので、誰か心当たりのある人向けに、それこそ未来の自分にでも書き送るような内容となります。

     主に意識についてですが、まず最初に、僕には未来が時折みえてしまうことがあるということを告白せねばなりません。ふとボーっとしている瞬間に一枚の夢が画像のように視野に現れ、それが数か月後に全く厳密なかたちで現れてくるのです。「あ、これ前に見たやつだ!?」という感じですが、小学生低学年くらいからこの種の現象が起きており、頻度も偶然にしては捨てきれないレベルで発生しているのでデジャヴとも言い難いというのが個人的な見解です(当然ながらジャメビュでもありません)。

     しかしながら、この未来がみえるという能力はあくまで無意識によるものであり、さらに自分自身に関することにもかかわらず、僕自身の欲望などには一切関知しない未来像のみが実現するので、例えば意図的に意識して大金持ちになる自分像をイメージしようとしても、それが叶うことは全くありません。自分の世界の中で、自分の意欲とは全く無関係な、それこそ死角から突如現れたかのようなイメージが視覚の一部(だいたい眼球、額あたりから発生するもの)として予め予約され、それがある日ある瞬間、本当に突然忘れた頃に来るわけです。一度だけその未来像を歪めたことがあります。一時予感しては意識してその未来像に対する反応(主に眼球の動き)を歪めようと感覚のような意識を曲げる感じを、まるで過去の意識と腕相撲をするかの如く、その未来像とやらを捻じ曲げたことがあります。当然ながら、何も特段変わったことはなく、ただ分かったのは「ああ、未来ってこんな感じで変わるんだな」という感覚だけでした。

     よくある未来人とか予知能力者の類とは一切を異にして、地震予知のような能力ではないことは分かってました。繰り返し述べますが、自分以外のことは予知できませんし、自分自身のことでさえ予言できません。だから誰かに役に立つというよりは、この種の現象が生起されたときには、「ああ、まだ自分は生きてるんだ」という安堵感を抱くことになります。時々夢の中でありがちな、銃で撃たれたり誰かに暴力されたりするイメージも、ないことはないですが、それらが実現したことは一切ないです。あくまで自分自身の意欲感情に関係ない部分で未来が計算されてやって来た、ただそれだけだと、今では思えるようになっている次第です。

     そしてこの能力も、次第に頻度が減ってきましたし、実現間隔も数日おきになることが多くなり、今度はどの記憶が未来に起こり得るのか、自分でもわからなくなってきました。つまり、皆さんと同じように、いつ命がなくなってもおかしくない、メメントモリ状態になってしまったのです。とはいえ、とりわけみんなと同じようになった、それだけなので、これからは少し気をつけて生きなきゃなと少しだけ一念発起する程度で、特別変わった感情はありません。

    ーーー

     さて、今まで書いてきたのはやや無意識寄りの能力(?)なお話でしたが、ここからは意識を意識して動かすということについて自分なりの解釈盛りだくさんで触れてみたいと思います。

     何かを記憶をしたり言葉の意味をイメージして結びつける際、眼球運動が起こることは知っている人は知っているでしょう。僕の場合、その眼球運動によってもたらされる「意識の焦点」が視覚において軌道としてみることができます。今から話す「意識体」についてですが、どういうわけか頭蓋骨よりも外には出られないというのがハッキリわかるようになってます。特に僕の場合は左上の方にその意識体を動かそうとすると頭蓋骨にぴしゃりとひっぱたかれて落とされてしまうんですね。右上に行けば多少外側に出られはしますが、いずれにせよ、頭蓋骨よりも外にその意識体を出そうとすると途端に集中力が消えて別のことに意識が向いていしまうように無意識にそうなってしまうのですね。

     意識体を動かすといっても、動かしやすい軌道とそうでないのがあります。僕の場合は螺旋、渦巻きが非常に心地よく動かしやすい軌道の一つになっており、逆に角々しい、四角形や多角形のようにきっちりかっちりした軌道は意識して集中しないと難しいです。正三角形を描くときでさえ、最後の一辺を繋げようとしたときに意地悪されて中々くっつかないように軌道が歪められてしまうんです。あらかじめ点と点をくっ付けようと線で結ぼうと意識して力めば力むほど、この意識体はカオスな動きを見せていきます。

     そして何よりも、この眼球運動における意識体の運動は、みぞおちの部分に大いに関与し、フィーリング(feeling)に大いに関与しているものと僕は考えています。チャクラとかチャネリングというのがあるなら、もしかしたらそれに大きく関わっている部位なのかもしれません。が、僕にも正直よく分かりません。この意識体に関しては分からないことだらけで、今まで誰かに懇切丁寧に説明しようとしても、理解されることはなかったのですから。

     最近になってタルパのような、意識して人間のような像を作りだすのに似たようなことができるようにはなりましたが、二次元の静止画系よりも三次元のリアルな人間の方が動かしやすいですね。ただ、顔認識を一度でもすると、感情が高ぶってすぐにイメージ像が消え去ってしまい、集中できなくなります。そういうわけで、どういうわけか顔無しの二次元キャラクターのようなものを目をつぶってイメージできるようになりました。人格も作れるようになって、時々(言わせてる感半端ないですが、)会話できるようになりました。頭の中で独り言してるだけなので、エア友達してる気分です。客観的に見れば無表情でこういうことしてるんですから、すんごく痛々しいですねw

     言い忘れてましたが、記憶や論理的思考にも密接に関わっており、その時は眼球運動の焦点を意識して動かすことができないのですが、無意識にその軌道を読み取るが如く見据えることができます。つまり裏を返せば、そのような意識体なる点を動かそうとしている間は記憶や論理的思考力の言語化等ができないようになっているのです。そして音楽やテレビのような知覚刺激があると意識体を動かすためのエネルギーのようなものがしばしば発生し、これを使って動かしています。

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     少し話がそれてきたので意識体についてまとめます。
    ・意識体は眼球運動の焦点のような「点」である。
    ・意識体は頭蓋骨の域を出ないことが多い。
    ・意識体は意識して動かすことができるが、力み過ぎるとカオスな渦巻き等の軌道をもたらす。
    ・意識体をコントロールする際、眼球運動だけでなく、みぞおちに対する力加減が大きく関与している。
    ・意識体を操作している間は記憶や論理的思考力の言語化が困難である。
    ・音楽などの知覚刺激によって意識体を動かすためのエネルギー源を得ることが多い。(ただし、大体眼球運動の焦点を動かすことが分かってから、このエネルギー源に頼ることなく動かすことができるようになってきた。)

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     では意識体のインターフェースについてもう少し詳しく述べていきます。この意識体はあくまで眼球運動の焦点としての「点」なので、目線を指先に当ててその「点」を指先に乗せる(あるいは含ませる)ことによって、指先が魔法の杖の如く使えるようになり、その動きがまさしく渦巻きのような螺旋運動となります。

     例えば右手でコップを手に取る場合、真っすぐ手を伸ばすのではなく、円を描いて遠回しに掴みます。慣れてくれば普通にサッととることができて、むしろこっちの方が自然なコップの取り方なのでは?(具体的には省エネというか動きとしてのコスパがいい、小回りが利く)となって意識体をうまく使いこなすことができます。マウスのトラッキングにも螺旋運動を活かして効率よくアイコンをクリックすることが、今のところ一番分かりやすい応用例でしょうか。あとは文章を読むときに直線的に読んでいるわけではない(目線を直線の如く動かしているわけではない)ということがハッキリわかったのが大きいですかね。

    【関連記事】
    「人は文章を直線的に読んでいるのか?」

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     ここまで一読して、最初の未来予知云々は関係ないのでは? と思われた方もいるかと思いますが、実は意識体がある時ふとどっか行ってしまった場合に発生することがあり、まるで隙間風にイメージが入り込んだかのような、そんな感じの現象に見舞われるのです。ですから、やろうと思えば意図的に未来像をみるよう、訓練できそうではありますが、残念ながら意図的な未来像は決して実現しません。むしろそのような期待は夢に終わって実現しないことの方がほとんどなのです。どうして意欲的に意図してしまうと実現しなくなるのか、そこら辺のメカニズムに対する理解には及んでいないのですが、おそらくそのような未来像は繊細で、下手するとすぐに消滅してしまう類の、本当にもろくて儚い像なのかもしれません。その証拠と言ってはなんですが、逆に意識体に対して力んだ場合に、カオスな渦巻き螺旋を見せてくれるだけで、特段儚くもろく散っていくわけでもありません。むしろある程度意識しなければ動かせないですし、諦め感覚で力を抜くとどういうわけかスムーズに点と点を線でつなぎ結ぶことが可能となってしまうという、、、自分でもよく分からんとです^p^

     ちなみに力みをなくすと、対称性のある美しい図形(幾何学模様)が見えることがあります。フラクタル図形というよりは、本当に一見して美しい模様です。フラクタルのような入れ子のような図形はイメージして作り出そうとすればするほど集中力が突如途切れてしまいます。

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     この意識体の応用例が、力み具合を絶妙に調節することによる日常に対するインターフェースとして利用することです。日常の家事や頭の使い方、会話表現、スキンシップ等にも密接に関与していることが分かってきました。

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     ここまで理解していくまでに大分苦労しました。まず経験者が一人もいないですし、精神分析系の本などを読み漁ってもイマイチピンとこないし、哲学系にも脳科学系にも当たりましたがイマイチでした。んで、割かしピンと来たのが、グレゴリー・ベイトソンの「精神の生態学」だったわけです。自分の身体や認知をコンピュータのように捉える機械論がすごく理解するにあったってスッキリする形になり、唯物論のようなところは毛嫌いしてましたが、まあ、あまり毛嫌いしてても現実がそうなので仕方ないわけで、最近は丸くなった方かなと思っています。

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     オカルトと思って一向にかまいません。人によっては経験がないでしょうから、形而上学的な概念になっていて、言葉だけで説明するには不十分すぎるところもあるかと思います。ですが、現状の僕はこれ以上の的を得た説明をすることができません。未来の自分がなんとかしてくれると祈るばかりです。

     それでは今日はここまでにしておきます。

     またどこかで、会えたなら。

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    【追記】
     ちなみになぜ意識「体」なのかと言いますと、点の状態から力みを抜いた瞬間に幾何学模様を描くことができるからです。つまり、点が何かしらの複雑さを以てして展開することになるわけですね。

    人は文章を直線的に読んでいるのか?


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