閉じる
閉じる
×
自分の新書の読み方を紹介します。
つまり、自分には次のようなフィルター(ふるい)が生まれるのです。
ブログを書いていて分かったのですが、あとがきになると気がゆるむのです。本論はどうしても論理という鎖に縛られなければならないので、一種の緊張感が生まれます。だから本論はどこか仮面をかぶっています。あとがきになると筆者は疲れているので本心が出やすいのです。
よく評論は最後を読めと言われますが、まさにそれで、究極的にはあとがきを読む方がいいのです。
というわけで、あとがきです。今回はここを読むよりもまず本論を読んだ方がいいでしょう。
自分はあとがきから読むのは究極的な効率主義だという意見には賛同しません。むしろ筆者の希望通りに解釈するためにはあとがきという材料は欠かせないのです。効率主義とかそういう問題ではなく、筆者の思惑にはまって読むという現代国語に忠実な読み方を提示しているだけです。そういう意味で、教科書の評論文にはあとがきを載せるべきだと思うのですが、どうでしょうか?
①目次を読む新書には必ず「目次」と「あとがき」があります。目次は本論の要約になるので、適当な新書の場合はこの時点で蓋をします。あとがきは筆者の本心が書かれており、それを踏まえて本論を読んでいくと筆者の言いたいことがよくわかるのです。
②あとがきを読む
③気に入ったら本論を読む
つまり、自分には次のようなフィルター(ふるい)が生まれるのです。
タイトルを見る→目次を読む→あとがきを読む→本論を読む
ブログを書いていて分かったのですが、あとがきになると気がゆるむのです。本論はどうしても論理という鎖に縛られなければならないので、一種の緊張感が生まれます。だから本論はどこか仮面をかぶっています。あとがきになると筆者は疲れているので本心が出やすいのです。
よく評論は最後を読めと言われますが、まさにそれで、究極的にはあとがきを読む方がいいのです。
あとがき
というわけで、あとがきです。今回はここを読むよりもまず本論を読んだ方がいいでしょう。
自分はあとがきから読むのは究極的な効率主義だという意見には賛同しません。むしろ筆者の希望通りに解釈するためにはあとがきという材料は欠かせないのです。効率主義とかそういう問題ではなく、筆者の思惑にはまって読むという現代国語に忠実な読み方を提示しているだけです。そういう意味で、教科書の評論文にはあとがきを載せるべきだと思うのですが、どうでしょうか?
広告