正論の礼儀作法 「真実を語ることと、礼儀正しいことと、どちらが大切か」
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正論の礼儀作法 「真実を語ることと、礼儀正しいことと、どちらが大切か」

2014-03-02 09:35
    タイトルの「」の問題文は「武士道」に書いてありました。これは自分だけではスケールが大きすぎる問題なので、本からの引用を済ませた後に述べていこうと思います。


    アラン著「幸福論」から。
    (中略)人ごみのなかでちょっと押されたくらいなら、まず笑ってすますものと決めておきたまえ。笑えば、押し合いは解消する。なぜなら、ちょっと怒りすぎたかな、とだれもみんな恥ずかしくなるからだ。そうすれば、君はおそらく、大いなる怒りを、すなわち小さな病気をまぬがれる。
     ぼくの考えている礼儀作法とはそういうものなのだ。つまり荒ぶる情念をなだめる体操なのだ。礼儀作法をわきまえるというのは、すべての身ぶりを通して、すべての言葉をつくして、「いらいらしないように。われわれに与えられた人生のこの瞬間(とき)を台なしにしないように」と示すこと、言うことである。(中略)親切は人を侮辱することがあるものだ。ほんとうの礼儀作法とは、むしろよろこびが伝わって行って、すべての摩擦がやわらぐところにあるのだ。ところが、このような礼儀作法を教えているところはほとんどどこにもない。いわゆる礼儀正しい社交界のなかで、ぼくは腰の低い人はたくさん見たが、ほんとうに礼儀正しい人間には今まで一人も出会ったことがない。


    新渡戸稲造著「武士道」から。
    礼とは、他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することである。

    (中略)礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づく。

    (中略)躾が私たちの思考力を奪ってしまい、その限りにおいて礼儀作法を厳格に守り通すことが実に馬鹿げて見える(中略)儀礼的な礼儀作法には確かに不必要なくどくどしさがある

    (中略)

    優雅な作法を絶えず実践することは余分な力を内に蓄えるにちがいない。立派な作法は、したがって休止状態にある力を意味する


    (中略)


     参会する人びとは茶室の静かな空間へ入る前に、脇の大小とともに戦場の残虐さや政治上のよしなし事を置き棄ててくるのである。
     そして茶室の中に平穏と朋友の心を見出す。

    (中略)

     真実性と誠意がなければ、礼は道化芝居か見世物のたぐいにおちいいる。伊達政宗は「度を越えた礼は、もはやまやかしである」と言っている。

    正論は時に相手の心を傷つけることがあります。どんなにオブラートに包んだとしても、正論の与える刺激は大きいもので、最終的な不快感は免れません。受け手の心の広さに委ねられることになります。つまり、正論を言う時に注意しなければならないのは、相手がどんな心の持ち主か、その大まかな輪郭を把握することです。

    タイトルの問題文はケースバイケースと言う方が多いでしょう。ですがそれでは答えになっていません。二元論の牢屋から一歩出て観察している状態に過ぎません。結局この問題は実際に直面してみないと分からないようです。「はぁ?それも答えになってねえじゃん!」そうですね。ですが、今の言動で答えが出たのではないですか?

    ちょっと誘導尋問のようで申し訳なかったのですが、こんな感じで展開を組み立てていくと答えが分かります。ということは、この問題文自体ナンセンスだったかもしれません。だってどっちも大切ですから。

    問題文にはこんな補足ができるかと思います。
    「(礼儀正しくなくても)真実を語ることと、(仮面かぶりでも)礼儀正しいことと、どちらが大切か」

    自分なら後者を選びますかね。自分は、真実は自分で見出すものだと思ってますから。仮面かぶりの礼儀を見て相手が”真実”を”知った”のであれば、それはそれで礼儀正しい真実の伝え方になるのではないでしょうか。自分で悟らせることほど真実のうまい伝達方法はないでしょうから。



    あとがき


    ふぅ、だいぶ本論で気を使いました。引用文の赤字を特に意識して書いたのですが、たぶん読んでも気づいてもらえないでしょう。まだまだということです。

    昨日は5個も連投してしまい体力・集中力ががが。でも書きたかったから書きました。
    やはり朝に書く方が眠気覚ましに丁度いいですね。


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