ダブルスタンダード 視点の違いによるステップの違いについて
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

ダブルスタンダード 視点の違いによるステップの違いについて

2014-03-05 16:09

    答えは一つとは限らない


    「3+7=」
    皆さんはこの式の左辺をどうしますか?
    多くの人が「10」と答えるであろうこの場面、実はいろんな答えが隠されているのです。

    ①右辺=10
    ②右辺=2×5
    ③右辺=(1+2)+(3+4)
    ④右辺=19-9
    ⑤右辺=X とおく(答の保留)
    ⑥そもそもこの文字の意味が解らない。

    等々、いろんな答えがあるのです。これは決して屁理屈ではなく、立派な理屈です。人間の脳は①をスッと出すわけではありません。3+7の仕組みを知ることで10という解を得るわけです。

    また、②という見方をしていた場合、①がパッと思いつくとは限りません。3+7の仕組みから2×5という答えを編み出した場合、足し算から掛け算へと変換できることを知ってはいますが、足し算を合計する仕組みを知らないからです。こんな感じの思考プロセスも十分あり得ます。③も同様で、数を分解する方法を知ってはいるものの合計をする方法を知らないのです。つまり、どれも正しいですが、見方が違うとその見方によって答えのタイプが違ってくるのです。まさに「The answer is inside of me.」です。




    どれも正しいことから生じるダブルスタンダード


    「でも②から④は水面下では①を知っているのではないか?」と思われるかもしれませんが、とんでもない。確かに無意識に知っているからできるのかもしれませんが、意識という、精神全体の一部を切り取る特殊ケースでは①を知らないで②から④を出すことがしょっちゅうあるのです。②から④を知っているからと言って①に気づくとは限りませんし、逆も然りです。

    ここからが事の核心なのですが、例えば②を正しい答えとすると、その瞬間、②を除いた①から⑥の答えは除外されるのです。そして②を正論とするならば、②と異なったロジカルタイプ(論理階型)の答えを許すわけにはいかないのです。ところが人間は自分勝手で、②を正しいとしてきたにもかかわらず、②以外の①から⑥もあり得るからと言ってそれを使ってしまうのです。どれも正しい選択肢ですが、元の見方を排除して別の見方をよしとするというのはダブルスタンダード以外のなにものでもないでしょう。もしかしたらトリプルスタンダードもありうるかもしれません

    特に②の見方から⑤や⑥の見方をしようものなら、それは卑怯者以外のなにものでもないでしょう。Aの時は②でBの時は⑤、Cは面倒だから⑥というようにしていけば、その一貫性のなさから、いずれは心のシステムが混乱を来すに違いありません。
    無意識の暴走です。

    これから脱出するには、①から⑥すべてを肯定する以外に選択肢はありません。本当に一貫性のある選択とは、①から⑥すべてを考慮した選択ではないでしょうか。





    ステップについて


    見方が違って来れば、そこから進む道も違ってきます。つまり、道を歩むステップが違ってくるのです。そしてそのステップは意識を通じて無意識に送られるわけですが、意識はそのステップをあまり覚えてはいません。おぼろげに覚えているだけです。もしはっきりと覚えているなら、簡単に特定の記憶を取り出すことができるでしょう。

    グレゴリー・ベイトソン、メアリー・キャサリン・ベイトソン共著「天使のおそれ」にこんなことが書いてあります。
    (中略)少年がみごとに証明を終えると、ソクラテスはこういった、「見るがいいこの子は最初からこのすべてを知っとったんだ。」
     しかし、これはまったくのナンセンスだ。「次は、どういう質問に答えたらいいのか?」一段階ごとにソクラテスが提供してやったこの問いの答えを、少年は知っていたわけではない。最初から独力でピタゴラスの定理を証明しろなどといわれたら、その定理の各ステップがどういう順番になっているのかを知らない少年にはぐうの音も出なかっただろう。
    もしピタゴラスの定理について完璧に知っているとするならば、その定理の応用例や証明の種類、さらにはそのステップについても知っているということになるでしょう。また、証明に限定すれば、その見方の違いから、それぞれの見方におけるステップまで知っているということになります。

    また、こんなことも書いています。
    (中略)DNAに含まれた命令に加えて、胚は発達のステップをいかなる順序で踏むかという指示をたずさえていなければらない。発達の”アルゴリズム”を知っている必要があるのだ。ここにおける情報は、公理とも各行の実行手続きとも種類の異なるものである。演算の行間にはステップの順序が秘められている

    見方の違いによってステップが異なるということは、本来踏むべきはずのステップを踏まずに正しいとされる答えに行き着く場合もあるのです。それがいいことなのか悪いことなのかは
    分かりませんが、生命現象にはそれぞれ欠かせない”ステップ”というものが存在するのです。同様にして教育にもこれが当てはまるのではないでしょうか。本来踏むべきはずのステップを踏まずに定理や公式ばかりに飛びつくことになっていないでしょうか。

    しかし漢字や英語を覚える際、部首や接尾辞などを理解してから覚えるというステップを踏まなくてもよしとしています。この場合、”言葉として使えればいい”というまた別の目的があるからです。ここに文系と理系の違いがある気がします。一概に線引きすることはできませんが、文系は全体像を、理系は部分を意識しているように思えます。どちらも重要ですが、どちらかに偏ることは大変危険です。複数の基準を軸にした価値観が生じてしまい、一貫性がなくなるからです。

    ではなぜ人間は複数の基準をまたにかけることができるのでしょうか? それは一度受けた情報をどこかで鵜呑みにし、情報を知識ではなく情報として扱っているからだと思います。つまり情報と情報がねじれの位置にあって関連性を持たないとき、ダブルスタンダードが発生するのです




    ステップとステップのねじれの位置関係


    要するに、ダブルスタンダードに陥ると歩むべきステップにもねじれが生じるのです。ピタゴラスの定理を覚えていても、証明方法を知らない場合があるのはそのためです。この場合、ピタゴラスの定理を覚えたステップと、証明に必要なステップにはねじれの位置関係があると言えます。この決して交わることのない位置関係は、別の情報が入ってこない限り、別のステップによって書き換えられない限り、交わることはありません。忘れるとか分からないというのは、こういったステップとステップのねじれの位置関係が大きく関わっているのです。教える側のステップは必ずしも教わる側のステップと同じとは限らないのです。




    あとがき


    この文章を書く時、上から下まで順序良く通時的に書いたわけではありません。要所要所修正しています。なのでこの文章から通時的なステップを認識することはほぼ不可能です。しかし、もし文章を書く過程が録画されていたり記録されていれば、それを追いかけることができます。それによってそのステップは通時的になると言えるでしょう。ねじれを解消するとはこのことなのです。



    三行まとめ

    正しい答えでも見方は違い、それによってダブルスタンダードに陥ることがある。
    ダブルスタンダードになる原因は、ステップとあるべきステップがねじれるから。
    そのねじれの位置関係を解消することこそ本当の意味で一貫性があると言える。

    広告
    コメントを書く
    コメントをするには、
    ログインして下さい。