記憶の不思議 同じだから抜け落ちるのか、違うから抜け落ちるのか
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記憶の不思議 同じだから抜け落ちるのか、違うから抜け落ちるのか

2014-03-12 18:15


    記憶と習慣


    記憶と言うのは不思議なもので、「A=B」と「B=A」は必然的に=で結ばれるにもかかわらず、「A=B」と書くのに慣れてしまうと「B=A」と書くための意識が薄れてしまうのです。つまり両方をセットで書けるようになるには「A=B」と「B=A」両方書き慣れていなければならないということです。

    高校の頃、微分の定義の勉強をしていた時、初めのころは最初に「lim」を書き忘れることがしばしばでした。左辺を=で繋いだ後、「lim」を書くのをどうしても忘れてしまうのです。これは一種の病気でした。何回か気を付けるうちに書けるようになりましたが、たまに書き忘れたりしました。また、分母と分子にあるhを払ったのにもかかわらず「/h」と書いてしまい、慌てて消しゴムで消すという作業を繰り返していた時もありました。今思えば懐かしいです。

    「書く」という行為は人間の習慣に根ざしている行為のいい例です。裏を返せば、書いている間は何も意識的に考えていないのです。書きながらアイディアが浮かんでくることはありますが、それはあくまで直感で受動的です。能動的に何かを考えるというわけではありません。自分は独り言しか能動的な思考を知りませんが、それはさておき、掛け声のように、書く瞬間は何も考えていないのです。書くというところに意識を集中させ、それ以外のことは意識の外に追いやります。

    一般に、「書く」、「しゃべる」ことで「記憶する」わけですが、書く瞬間に意識に入ってくる情報というのはごくごく特定のもので、「書く」、「しゃべる」を連続的に行うことで特定の情報が入ってくるわけです。瞬間的に書いたりしゃべったりしても何も得られないと思いますが、瞬間が連続すると特定の情報が入ってくるわけです。ここまでは特に突っ込むところはないかと思います。





    同じだから抜け落ちるのか、違うから抜け落ちるのか


    問題はその特定の情報を意識がどのようにして制御し、ふるいにかけているかです。意識はそれ自体が無意識にくらべて規模が小さくかつ密度があるので、より効率のいい情報収集、つまりその場その時の目的に合った情報収集をする必要が出てきます。もし冗長的で無駄な情報はできるだけ削り、純粋に目的に沿った情報のみを取り扱うのであれば、それは同じだから抜け落ちるということになりますし、もし目的に沿わない情報をできるだけ削るのであれば、それは(得たい情報と)違うから抜け落ちるということになります。おそらく意識はこれらを同時(同時に思えるほど瞬時)に行って情報処理しているのではないかと思います。

    しかし、何をもって同じとし、何をもって違うとするのか、その判断基準が明確でない限り、ここから先は進むことができません。もし運営さんのニコ割広告による閲覧ブーストがかかるのであればこれ以上立ち入ったことは書かない方がいいと思いますが、今回はそれがないことを信じて持論を述べていこうと思います





    ロジカルタイプによる判断基準


    いわゆるタイプ(次元)によってふるい分ける判断基準です。人間には論理(ロジック)という武器がありますから、ロジカルタイプによるふるい分けが可能かと思われます。いま自分の手元にはiPod touchがありますが、これは携帯音楽プレーヤーと呼んでもいいですし、ただ端末と呼んでもいいですよね。右に(「iPod touch」→「携帯音楽プレーヤー」→「端末」)と行けばいくほど一般化されていきます。

    実はこのように、抽象度の低いレベル(iPod touch)にあるものは抽象度の高いレベル(端末)よりも記憶しやすいのです。なぜなら抽象度の低いレベルの名前はものそれ自体に対してより身近だからです。逆に名づけやすさという面では抽象度の高いレベルの名前の方がいいです。(ここら辺が持論なんですが、何をもってして身近なのか、その判断基準がぼやけてるんですよね。よく区別して考えれば分かるのですが、無意識のうちに記憶する際、どうやって区別して記憶しているのか分かりません。無意識にとっては関係さえうまくいけばそれでよく、関係項の抽象レベルは二の次なのです。)。





    名前の名前は名前ではない


    名前と名付けられたもの(ものそれ自体)は異なるという自明の理があります。それを拡張して名前の名前は名前ではないというのがあります。これはベイトソンの天使のおそれで知ったのですが、要するに、名前の名前はもとの名前ではないということでしょう。記憶のシステムはこのようにして”種類”という判断基準を生み出し、次元の異なる名前を区別していると考えられます。ただ、名前の名前が名前と混同してしまうこともありますし、ものそれ自体をまるでものそれ自体と認識するようなエラーもあります。ここら辺がやはり、無意識は項と項を比べているというよりも関係のみを見ているという感じがします。もしかしたら項を関係と取り違える場合もあるかもしれません。そもそも意識や無意識に項という概念があるのかどうかも怪しいです。





    夢と隠喩


    草の三段論法”といった、メタファーによって、つまり関係によってふるいにかけるという判断基準です。おそらくこれが一番しっくりくるのではないかと思います。というのも、夢という記憶の整理と言われているものがこんな感じで発展しているからです。前にも引用しましたが、ベイトソンの精神の生態学から。
    FATHER (中略)何に喩えているかは示さずに喩える、Aについて言えることを、Aの名前を明かさずに、Bに当てはめる。「国が腐敗する」と言うだろ? その国に起こった変化を、バクテリアが引き起こす果物の変化に喩えているわけなんだが、隠喩ではバクテリアのことも果物のことも、表には出てこない。
    DAUGHTER 夢も同じ?
    F 逆なんだ。夢は果物の方を見せておいて―バクテリアまで見せるかも知れないが―国は出さない。夢は関係を取り上げてそれを練っていく。その関係が”何と何の”関係なのかということは取り上げないんだ。
    ところで関係には次元があるのでしょうか。項と項の次元が違っていても、何かしらの関係が共通していると認識すればその項と項は”くっつく”のでしょうか。もしかしたらこの疑問はナンセンスかもしれません。関係は次元の橋渡し役で、関係それ自体に次元がないのかもしれないからです。

    そうなってくると関係とは何かということになりますが、自分にはさっぱりです。
    ですが、ヒントとなるように、ベイトソンの言葉を書いておきます。
    関係というものは、本当に「記述」されたりするものだろうか。メッセージが関係を「決定」したりするのだろうか。どのようなメッセージが交換されるかということこそが、「関係」なのではないだろうか






    あとがき

    これは読者の方に見せるものというよりもメモ書きみたいなものです。なので気楽に読んでってください。三行まとめも作りません。

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