なんでもネットで決めると思考停止するという神話について
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なんでもネットで決めると思考停止するという神話について

2014-06-20 10:34
  • 4

 なぜネット依存によって考えなくなる人が出るという神話が出てくるのでしょうか。本がネットに変わった、ちらしや広告がネットに替わった、メディアがネットに代わっただけではないですか。

 ネットに依存するということは、情報という一方的な刺激を”受けることに依存する”ということで、確かに思考停止(他の意見をあるがままに受け入れる)になることもあるでしょうが、大抵の人はtwitterなど、ネットで情報発信をする側に回ってますし(そうでなくとも自分の頭の中で情報整理しているはず)、感情的な意見はあるけれども、そこには確かに自分の意見はある。これは自分で考えたことにはならないのでしょうか?



 ネット依存によって熟考することがなくなったというのも間違いでしょう。ネットによっていろんな意見に触れるようになる。確かにこれは受動的な人間なら自分の意見をつぶしてしまうことになり、「自分はいろんな意見に触れているのだから自分の視野は広いはずだ」と勘違いすることになります。しかし、ネット依存になるほどネットをしている人ならそれくらいは承知のことでしょう。依存になるほどやってる人がいつまでも受動的になっているとは到底思えません。

 むしろ、ネットによって思考停止する人というのは、ネットを始めたばかりの、情報を得るのに夢中になっている人のことを言うのではないでしょうか。ネットに対する”構え”を身につけずに試行錯誤して情報をただ追っかけてる状態というのは、考えているように思えますが、肝心の情報について冷静に見つめる目を失っていると思います。冷めた目で見ることができるようになって、ようやく考えることができるのです。

 ネットに対する”構え”を身につけているネット依存の人はネットに対する付き合い方というのを無意識的に見につけているわけで、もしそれが思考停止につながるのであれば、新聞やテレビ依存になっている人にも同じことが言えそうです。

 確かに情報に貼りついている間は熟考できないでしょう。ですが、時間かけて考える機会が与えられれば熟考はできるんです。ネットがあろうがなかろうが、時間さえあればできるんです。つまり、熟考とネット依存には、そもそも何ら関係がないのです。



 ネットの評価を信じるなというのはつまるところ人間を信じるな、人間不信になれ! ということでしょう。批判的思考は大切ですが、ネットで情報発信してレビューしてくれる人は思考停止ではなく、考えて書いてくれているわけで、そういう意見を参考にして判断する力というのも必要なのではないでしょうか。例えば本のレビューで「読みにくい」という意見を含むものが多ければそれはだいたいの確率で読みにくい本だと察しがつくわけで、その本に対する”構え”をあらかじめ取得することができるわけです。あらかじめ自分なりに”予習”をしておくというのは大切なことです。

 お金を大切に使わなければならないこの時代に、なんの情報もなく投資するというのはお金を無駄にすることに他なりません。他の人がせっかく引いてくれた防衛線を参考にしないで、無謀に突撃するというのは、愚か以外の何物でもありません。実際に見に行く必要があるかどうかという判断材料になる。これだけでも自分の時間やお金を経済的に使うことができるわけですから、ネットの情報はむしろ有意義と言えるのではないでしょうか?

まあ、この記事が有意義かどうかはさておき

 

 そもそも考える、熟考するってどういう状態のことを指すのでしょう? これについてはほとんど誰も知らないと僕は思っているのですが、どういうわけか慣用的に「考えろ」と言う人が多いです。少なくとも僕はう~んと唸ることが考えることだとは思っていません。むしろその逆で、思考停止している状態だと思うのです。唸っていても言葉は出てきません。う~んと唸っている時点で、実は考えるのをやめているのです。



三行まとめ

ネット依存と熟考には何ら関係がない。時間さえあれば熟考はできる。
思考停止するのはネット依存の人ではなく、ネットに初めて触れる人。
考えるとは、熟考するとは、思考するとは実際にどういう状態なのか?




この記事のきっかけ↓

「ゆとり」の生き方に中高年が嫉妬? 「なぜ普通に就職しない」「すぐ辞めるに決まってる」


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ネット依存と熟考が関係ないという点には賛成することができました。
しかし、ネット依存の人にも思考停止に陥る人の可能性については他にもあると思います。
それは、ネットに触れる前からあまり物事を考えない人です。(僕がそうです)
「周りの人が言っているから」「テレビでそういってたから」など、当たり障りの無い意見で自分を塗り固めてしまうことに慣れた人にとってネットはとても魅力のあるものだと思います。
そこでどういう状態を考えていると言えるのかという壁に、同じくぶち当たります。
僕は物事を考える基本は、「why」 と「how」をどれだけ追求しているかにかかっていると思います。
「なぜ」そんなことがいえるのか、その考えが「どのようにして」うまくいくのか、それを何回も層を深めながら繰り返し、主張の根拠を強くしていくことが考えるということです。
そのことから思考停止に陥る人は、ある意見を主張するときに「誰々が言っていたから」とか、自分の思考経験のないまま、当たり障りの無い答えで日常の生活で起こる問題をうまくやっているのではないかと思います。
そうやってうんうん悩むのは、慣れない人には苦痛でしかないですから。
ネット依存が考えなくなるとは関係ないより、むしろ考えない人がネット依存に陥ってしまうのではないか、という可能性を考慮してみました。
73ヶ月前
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 これ、確かにそうなんだけど。基本的にはインターネット中心の情報収集の仕方でも構わないとは思うんだけど。そこにも限界があって。
 それは、同じように本から得た知識や情報だけでは駄目なんじゃないかな、と。やはり、どこかで自分の経験というものが必要になってきて。
 そもそも、全員がネットからしか情報を得ない世の中になってしまったら、新しい情報が入って来なくなってしまうわけ。毎日、更新されるニュースなんかも、どこかの誰かが自分の足を使って集めてきてくれた情報なわけ。
 だから、基本はこれでいいと思うんだけど。ネット中心の人生でも。でも、完全にそうなるとマズイとも言えるんだよね。
73ヶ月前
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>>1

>>僕は物事を考える基本は、 ~ 考えるということです。

 全くその通りなのですが、実際にどういうプロセスを歩むと深く考えていることになるのか、どんな情報と知識が深く考えさせるのか、頭を傾けたりう~んと唸ることがどういう意味で深く考えることにつながるのか、そういうことがほとんど知られていないのが現状です。

 なので、単純に「why」や「how」を使うにしても、そういった思考の道具を実践的にうまく利用するノウハウ(これこれの流れやこれこれのタイミングでwhyを使えばうまく思考できるなど)がない以上、僕は「考えろ・考えなさい」という言葉を安易に使うべきではないと考えています。「考えろ」と言われたときに、そう言われた人がどんな行為(う~んと唸るなど)をするのが効率よく「考える」ことにつながるのか、僕はそういう「考えるときの行為」を問題にしているのです。

 記事にある「そもそも考える、熟考するってどういう状態のことを指すのでしょう?」という疑問には概念的なものや行為的なものなど複数の答え方があったわけですね。誤解を生む文章で申し訳ありませんでした orz


>>ネット依存が考えなくなるとは関係ないより、むしろ考えない人がネット依存に陥ってしまうのではないか、という可能性を考慮してみました。

 なるほど~。確かに今思えば過去の自分がそうだったような……。ん、待てよ? そうなると、ネット依存に陥った人はもとから考えていない人間なわけだから、ネットが中毒的な人気になった理由はもとから考えていない人が多数を占めていて、しかもその時代はメディア依存という同種の依存に陥ってる状態だったから本当に思考停止している年代というのは……。いや、これ以上言うと機関の襲撃に遭いそうだからやめておくことにする。
73ヶ月前
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>>2

 まあネットの情報のルーツが実体験から得たものだから全員がネットに集中すると~、というのは分かりますが、実際にそうなりますかね? 誰もが実体験をしてネットに思ったことを発信するわけですから、ちょっとそこら辺は分からないです。
73ヶ月前
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