与える者と受ける者の態度のバランスについて
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与える者と受ける者の態度のバランスについて

2015-02-10 21:24
  • 2

 本当のことを言うと、こういう話題は隠されるべきことなのかもしれないですし、書き方によっては大きな誤解を招くことになるかもしれません。それでもあえて書こうと思います。


 インターネットが普及したことによって誰でも気軽に情報を発信することができるようになり、その情報を吟味・批判する自由も生まれました。言論の自由もあって、いろんな情報や発言が飛び交うことがしばしばあります。

 そんな中で僕が思ったのは、そういう状態にある中、与える者と受ける者の態度がどのようなものになっていくのかということです。





 まず与える者の態度からみていきます。

 商品であれ情報であれサービスであれ創作作品であれ、与える側の態度の中で共通するのは、「認めてもらいたい・共感を得たい・利益を得たい」という要素です。中には自己満足で与える者もいるかもしれませんが、利益を得ることを期待しないで与える人は稀でしょう。実験的に与えるように心がけていても、こうした期待を拭うことは困難です。大体は受ける側に何かしらの期待を求めるわけです。

 そのためには受ける側の気持ちを最大限汲み取るようにして気を遣うようにします。文章を書いて情報提供する人なら、文体とか言葉遣いとか、読みやすさとか、いろんなところに気を遣います。商品を売る人なら流通経路で欠陥が生じないかどうか、すごく気を遣っていると思います。画家でさえ、筆遣いや色遣い、表現方法にはすごく気を遣っていると思います。自由な発想で自由に描こうとしていても、無意識のうちに鑑賞者のことを考慮に入れているものです。そうでなければ他人に見せる絵にはならないでしょう。

 中には自己満足で作っていたものが大いに評価されることもあります。受け手に媚を売らずに自分本位の立場で作る人もいます。こういう人たちはたいてい他人を気にしない傾向にありますが、こうした余裕の態度が見られるのも、自分に自信があり、堅固な信念を持っているからこそできるわけで、そうでなければ気を遣わざるを得ないでしょう。

 つまり、与える者は心に余裕がない限り受ける者に気を遣うわけです。普通は「認めてもらいたい・共感を得たい・利益を得たい」という要素がある限り、受ける者のことを考えて与えるのです。





 次に受ける者の態度をみていきます。

 これは与える者の態度とは対照的で、与える者に対して何か気遣うことなく批評・批判を行うことができます。特に言論の自由を重視すればするほど批判精神が強まり、ひいては行き過ぎた態度をとることに繋がります。インターネット上なら尚更なことです。見知らぬ人に対して何を気遣う必要があるのでしょうか。そういうわけで、インターネットではしばしば、与える者に対していわゆるお客様的な風潮で批判を行うわけです。行き過ぎれば誹謗中傷になります。特に無償で何か提供している人たちにとってこうした態度は精神的苦痛になります。そのせいで活動を止める人もいることでしょう。

 確かにインターネットで(特に匿名で)何かを与える側になるなら、そういった批判や態度は当たり前のものと思って考えるべきなのかもしれません。与える側には責任があり、欠陥があれば攻撃されて然るべきで、それは自己責任だと。ですが、僕に言わせればそんなのは受け手の論理であって、批判するにしても、もっと言葉を選ぶべきだと思うのです。

 受ける者も気を遣うことがあるはずだと思う人もいるかと思います。確かに、リアルな人間関係ならある程度気を遣うかもしれません。しかし、実際心の中では自由に批判し、自由に否定(肯定)しているのが現実なのではないでしょうか。少なくとも、与える者よりも受ける者の方が気を遣っているということはないと僕は思います。

 与える者はいろいろと気を遣いますが、受ける者はそんな事情など知らずに気軽に平気でぶしつけに批判する自由があります。これはお金を払っていてもいなくても似たような状態が起こります。僕の知る限り、お金を払っていようがいまいが、こういった関係になりがちです。





 なぜこのような関係になるのかハッキリした理由は分かりませんが、一つ言えるのは、受ける者は与える者の苦労とか努力とかそういった「汗」を理解できぬまま評価をしている傾向があるということです。時間をかけて吟味し思慮深く評価することができず、ただ感性の赴くまま評価する傾向があるのです。そのせいもあり、そうやって何かを浅く評価することは自分自身の素を出してしまうことになるのですが、評価する者はそういったことすら考えず(特に匿名なら尚更考えず)好き勝手に批判するわけです。

 与えた物に欠陥があって、それが明らかに与える者に非があるなら仕方がありません。こうして書いている文章に欠陥があって攻撃されたとしても、「お前の文章が悪い」と言って一方的な攻撃をする隙を与えてしまった自分にこそ非があると認めるべきなのでしょう。しかし、それだけで終わらせて本当にいいのでしょうか? 受け手はスッキリしますが僕はずっと精神的苦痛を味わっていることになります。ただでは済まされないことです。これがトラウマになってしまうことだってあるわけですから、その時点でその人の発信意欲が断たれてしまうことだってあるのです(発信する側の態度が悪い、発信物に欠陥があるから指摘しただけであって、悪いのは発信者だ! と言うのであれば仕方がありません……)。

 中にはそういった批判を真摯に受け止めて謙虚に与えるべきだと主張する人もいるかもしれません。そのように公平無私な態度で与えることができれば理想的でしょう。そして謙虚な人ならこう言うかもしれません。批判に不満を持つような未熟で不遜な態度は隠されるべきだと。しかし、そのような聖君な態度で常にいなければ与える者になってはいけないのでしょうか。確かにできる限り欠陥をなくしてそのための最大限の努力はすべきだと思いますが、だからと言ってそこまでしないと与える者になれないというのではあまりにも敷居が高すぎます。言論の自由などのそういった自由は本来与える者にあったはずなのに、これでは言いたいことも言えない。批判が怖い人やそういった責任を持てない人には発言権がないかのような空気さえ感じられます。

 だからと言って受ける者の意見を無視するわけにはいきません。辛辣な批判であっても、その辛辣さを取り除いて建設的な部分だけ取り入れればいいのです。自分勝手に都合よく批判しているであれば、与える者も都合よく解釈していけばいいのではないかと思います。





 科学の世界を軽く例に挙げてみましょう。論文は厳密に精査され、査読する人は厳密に批判します。少しでも欠陥があれば容赦なく攻撃します。科学論文の世界はそういう厳しい世界です。ですが、これはあくまで科学論文の世界の話です。世の中確かに厳しいですが、厳しくしている原因は何なのかと言えば、受ける者の好き勝手な批判態度にあるのではないかと僕は思っています。

 とはいえ、受ける者がYESマンになっていては意味がありません。僕が言いたいのは、現代社会における受ける者の態度があまりにも行き過ぎているのではないかということです。そういう意見は気にするなと言う人もいますが、そういうわけにはいかない場合もあります。





 タイトルに「バランス」という言葉を用いました。いかにも予定調和的な言葉ではありますが、あえてこの言葉を使ったのは、この文章を読んでいる人に少しでもこの2者の態度のバランスを考えてもらいたかったからです。結構言葉足らずなところもあるので誤解を生む場合もあるでしょうし、バランスなんて人それぞれだから一様に決まらないと言う人もいるかもしれません。それでもこのバランスについて一考してもらいたいのです。そうでなければ、これからの社会、与える者と受ける者のパワーバランス(?)が崩れてしまい、行き過ぎた状態がますますエスカレートすることになってしまいます。

 これは僕がいま思っているよりも遥かに重大な問題だと思っています。企業と顧客の関係、創作者と鑑賞者の関係、生産者と消費者の関係、放送主とリスナーの関係、動画投稿者と視聴者の関係、その他もろもろの人間関係に大きく関わる問題だからです。結構身近なところでこういった問題が生じているので、皆さんぜひ考えてみてください。

 このままだと、まともな与える者がどんどん減っていって批判淘汰に耐えうる限られた人たちにしか与える権利がない社会になりそうで怖いです。実際にそうなっているかもしれませんが、とにかく、否定する自由と共に、与える自由というのも保障されなければならないと思った次第です。




あとがき


 できる限り中立に書いたつもりですが、どうしても情報発信者としての自分が先行して受ける者への批判を少し強く書いてしまいました。長々と書き続けるのも気が引けたので、できる限り簡潔に書こうと努力したつもりです。




 今回は3行まとめはありません。


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私も、同じように思っています。
私が言いたいことを論理的に述べていただき、読んでいて凄くスッキリしました。

今の世の中は、利便性の向上と共に、発信する者・受け取る者のバランスが崩れてきていて、
このままでは、発信しようとする人達がいなくなってしまうのではないか?と危機感を覚えています。
発信しようとしている者達を何らかの形でフォローしてあげる必要性が出てきたのではないかなぁと感じています。
65ヶ月前
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>>1
 本当に、その危機感は僕にもあります。
【追記】言いたいことが山ほどあって、すごくコメントが長くなってしまいました。申し訳ありませんm(__)m

 尊大な態度で発信する人がむやみやたらに増えてノーマナーな発信をするのも問題ですが、現代では受け手の態度が(匿名性があるせいか)尊大になっていてノーマナーなコメントを「発信」する人が多いと思います。まあ彼らも煽りには煽りで返される危険性を承知の上で書きこんでるわけですから、明らかに間違いだろうと思う、もしくは大多数が間違いだと主張しているところにしか入り込まない傾向があるかと思います。現代では、明らかにパワーバランスが受け手の方に流れているような気がしてなりません。

 個人的には、心の声であっても汚い言葉を吐いてはいけないのではないかと思っています。僕はかなり言葉遣いに気を遣う方でして、普段何気なく出てくる言葉に対しても睨みをきかせています。一見して心が窮屈のようにも思えますが、慣れてしまえば心地よい環境になります。だって汚い言葉を無意識に吐かなくて済むのですから。そういった言葉が流れない心はとても居心地がいいです。

 非常に難しい話ですが、インターネットもリアルの世界も、そういった精神的な居心地のいい環境になってくれればなーと思っています。本当は悪い要素がないというのは窮屈ではないんですよね。そう思わせる空気があるだけで、見方を変える努力をすればいいだけのことなんです。トイレや部屋だって綺麗の方がいいですよね。つまりはそういうことです。

 理想論は馬鹿にされがちですが、理想を高く持たない現実はいい世界を作れません。そう考えると、理想と現実のパワーバランスと情報の発信と受信のパワーバランスはどこか似てるようにも思えます。今は現実と受信側が勝ってる状態で、現実が理想になって混同してしまうという状態になっています。

 現実が正しいのではない。自分にとって本当に居心地のいい環境こそが正しいのだと、僕はそう思っています。
65ヶ月前
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