心のつながりについて
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心のつながりについて

2015-02-12 20:19

     心というのは脳がないと機能しないそうです。脳をごっそり持っていかれたら、完全に植物状態になるのでしょう。というわけで、これに従って、心は脳の情報処理による一種の産物とみていくことにします。

     そうみていくと思うのが、「集団的な意識」や「集団的な無意識」というのはあるのかということです。このブロマガで空気(atmosphere)について少し考えてた頃があって(詳しくはこちら)、結局のところ僕の中では集団的意識や集団的無意識はないということになっていて、空気は個人の脳による情報処理によるものだということになっています。つまり個人の考え方や見方を変えれば空気を払拭できるはずだというのが僕の意見です。要は気の持ちようなんですよ、ということなのです。もしそういった集団的なものがあるとしても、それは個人の力で簡単に払拭することができる意外ともろいものだということになります。

     これは共通のクオリア(感覚質)があるのかみたいな議論になりそうですが、これについてはひとまずおいときます。今回は心のつながりについて述べたいので。





     まず心のつながりで必要不可欠なのがコミュニケーションです。言語であれ非言語であれ、とにかく何かコミュニケーションをとることが重要ですよね。コミュニケーションをすればするほど心はどんどんつながりを得ていく。そのように感じるのが普通だと思います。

     でも最近、人は意外と孤独で、個的で、コミュニケーションをしているようで実は分かったつもりでいるだけなんじゃないかと、そう思うようになりました。簡単に言うと、人はコミュニケーションをしているようでしていない。ただ自分自身の「解釈」に従って言動を発しており、その言動を他人は自身の脳の情報処理によって「解釈」する。それがコミュニケーションと呼ばれているものなのではないかと思うようになったのです。

     何が言いたいのかというと、人間は脳による解釈から逃れられない故に、自分自身の都合のいい解釈で分かったようになっている。「こっちの選択をする方が相手はこういう言動に至るだろう」という期待のもと判断している。たまたま似たような(全く同じというわけではない)感覚をお互いにもっているから共有しているという状態が生じているわけで、もしこれが成り立たなかったらコミュニケーションすらとれないわけです。日本語が分からない外国人の方がこの文章を読んでもチンプンカンプンなのは当然ですし、日本人の方でさえ、僕の言わんとすることが読み取れなければやはりチンプンカンプンなのです。案外ブラックボックスなところが多くて、日頃の経験や記憶を頼りに推測しているだけなのかもしれません。

     人は思った以上に個的で、思った以上に情報を都合よく加工処理しているのです。これは脳科学に関する本を読めばわかることなのですが、人は思った以上に無意識的に行動しているのです。普段意識して行動していることが実は意外と無意識的だったりします。そんな感じで、心のつながりも意外と個的なものなのではないかと僕は思うのです。

     心はつながっているようでつながっておらず、仮につながっていたとしても、いつ切れるかわからない、そんなつながりです。

     ところで、脳は正直だと言いますが、仮に握手か何かで物理的なつながりを得たとして、リアルタイムに脳の状態を観察できたとしても、そこから得られる情報はやはり自分自身が都合よく解釈しているだけのものにすぎないのです。

     それでも社会が秩序だって混乱しないのは、だいたいみんな似たような経験や記憶を保持しており、情報処理につかわれる脳の全体的構造もさほど大差がないからです。もし情報処理の仕方が違っていれば、間違いなく混乱をきたして共存の道も困難なものになっていたでしょう。

     とはいえ、僕たちはそれぞれ違う時間・空間を過ごしているわけですから、共通した経験や記憶よりも違う経験や記憶の方が多いはずです。生き方がそれぞれ違いますから、分かり合えないことの方が多いのです。意気投合したとしても、それは自分の経験と記憶が合致したという事実を自分の中で作り出しているだけで、相手はもしかしたら演技をしているかもしれないという可能性を切り捨てているわけです。

     脳には早とちりな部分があり、「可能性は低いけどもしかしたらこういうこともあるかもしれない」という考えに至るまでに時間がかかるのです。瞬時に判断するときはだいたい(自分の世界観の中で)可能性の高い方を優先しているのです。これに関して疑問を抱いた人はおそらく中立な立場で考えようと思われているでしょうが、それでもやはり自分の世界観の中で判断している以上、主観的にならざるを得ないのです。





     しかし、いくら心のつながりが自分の中にしかないとしても、外の世界と常にリンクしている以上、常に更新されていきます。家族の一人が亡くなれば、その人に関する情報を更新できない(厳密には更新されているけれども無に近づいていく)わけです。もし僕の言わんとすることに共感を持つことができれば、僕とあなたとの関係に情報的なつながりが生まれたことになるでしょう。そういう風に考えれば、僕の中の自分をあなたの頭の中に(全く同じとは言えないけれども)形成することができたということになります。このような見方もできれば、実際は自分の頭の中で情報が再綜合されているわけだから自分自身だと言うこともできるわけです。

     このように、心のつながりには様々な見方があります。僕はある意味で利己的に感じられるような考え方を支持します。つまり、たとえ肉体的に自分じゃなくても、今までの経験や記憶、そして今感じている身近な世界は精神的に自分なのだということです。自分というのは宇宙に比べればすごく小さいのですが、思った以上に広いかもしれませんよ。

     一つ断っておくと、具体的に身近な物が自分というわけではなく、それらの物から得られる情報や世界観が自分と言っているだけのことです。大げさなことではありません。

     ただ、今はインターネットによっていろんな場所に情報的にアクセスできるようになったので、昔の人々よりも相当多くの自分を抱えることになっているのではないかと思います。それを他人から入ってきた意見にすぎないと切り捨てるのもいいのですが、まずは情報を処理して解釈しているのが紛れもない自分だということを自覚した上で考えるべきだと思うのです。

     あなたはいま他人の文章を読んでいるわけですが、そこから得た情報や記憶は紛れもなくあなたのものです。あなたという人格が、この文章からそういう情報を得ているということは、「あなた」という大きな存在の中に僕がいると取ることもできますし、「あなた」の解釈によって加工された「もう一人のあなた」と取ることもできるでしょう。解釈は自由です。


     僕にとって心のつながりは自分の中の一種の幻想世界なわけですが、このように考えることで、自意識過剰な部分も多少ほぐされ、精神的に少し安定するようになりました。少しネガティブで過激に書いた部分もありますが、これが僕です。ただし、常に更新されますので、明日には気が変わってるかもやしれません。




    あとがき

     物理的にも情報的にも人間は意外なほど個的なのだと簡単に書いたわけですが、他人を自分のことのように考えるという解釈もあんがい実用的なのではないかと思っています。他人を反面教師として捉え、自分の理想像を常に更新していく感じです。

     世の中には確かに共通言語や共通感覚みたいなものはあると思います。だから他人の言いたいことを理解できるわけです。ドラマやフィクションが成立するのもうなずけます。しかし、ある次元で理解できたとしても、より高次元で分かったとは思わないことです。分かった気になって決めつけることほど愚かなことはありません。実は僕がそういう人間なので、今回の文章は自分を戒めるつもりで書きました。




    三行まとめ

    人間は肉体的にも情報的にも意外と個的である。ただし常に更新されている。
    他人と心をつなげ、共有しているようで実は個人的な解釈をしているに過ぎない。
    ある次元では理解できても、高い次元になればなるほど個的解釈に陥る。


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