今を生きるってどういうこと?
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今を生きるってどういうこと?

2015-03-01 13:14
  • 5

 今を生きるとは何か。


 普段生活している時は特にそんなことを意識して考えているわけでもない。でもあえて「生きる」ことに意識を向け、さらにそこに「今」と限定することによってすごく狭い意味で「生きる」ように言う。この今を生きるとはいったいどういうことなのか。


 そもそも僕たちの知覚する今というのはどういうことなのか。

 池谷裕二著「単純な脳、複雑な「私」」に書いてあるのですが、例えば手を動かすとき、次のようなステップを踏むそうです。
認知レベル:動かそう/動いた
脳活動レベル:準備/指令

①準備 → ②動かそう → ③動いた → ④指令
 つまり、手を動かそうと思う時にはもう脳がそのための準備をしており、動いたと感じた後に動けと指令を出しているのです。

 この本にはこんなことが書いてあります。
 今君らが感じたもの、目に見えたものも、脳の中だけで「自分は”今”ここにいて、こんな風景を見て、こんなことを考えている」と感じている限りは、その”今”は過去の世界を感知していることになる。

 現実の時間と心の時間に差があったままでは、きっと、いろいろな不都合が起こるだろう。ということで、脳は感覚的な時間を少し前にズラして、補正しているんだ。

(中略)

 しかも、おもしろいことに、補正しすぎてしまっている傾向がある。「動く」前
に「動いた」と感じるということは、補正が過剰で「未来」を知覚してしまう証拠だね。脳には、まあ、そんな不思議なことが時折起こる。

「3-56 僕らは常に未来を知覚してしまう」

 今を感じているということは、脳によって準備された今を知覚していることになり、さらにそれに対する過剰な補正によって時には未来をも知覚することになるということになります。

 すごく不思議な話ですが、こんな感じで、今(現在)とは言っても、過去の現在、未来の現在のような概念が出てくるのです。今を生きるということは、現在の現在なる時において生きるということなのかもしれません。

 今、現在を生きるということの不思議さについて述べました。少なくとも「今を生きる!」と念じている限り今を生きていないことになります。むしろ、そんなことを念じていない何気ない日常生活にこそ、今を生きる要素があるのです。今を生きなさいと言われたら、それを念じないようにして普段通りに生活するのがいいのです。これが本来の意味で今を生きることだと僕は思います。今を生きようとするのではなく、今を生きている状態を何気なく作ることに意味があるのです。あえて今を生きると意識するのではなく、今を生きている状態を自覚することに意義があると思います。






 ここからは僕なりの今を生きることについて述べていきます。


 今を生きることというのはつまり、現在の状態を深遠に観察することだと僕は思います。

 普段の自分の状態を観察し、そこから自分についての情報を得ていく。そして分析・考察し、未来の自分にフィードバックするのです。過去でさえ、それを想起するのに現在が必要です。今を観察するということは想起される過去を観ることにもつながります。未来の自分については分からないので、個人的には、今という状態を観察することでしか自分を知ることができないですし、改善することもできないのではないかと思っています。

 常に今の自分を観察・考察することはできないですが、何気なく改善すべきところが見つかれば、善は急げという言葉通り、すぐに解決策を出していく必要があると思います。最初は解決策を考えるだけでも難しく、時間がかかると思いますが、ノウハウさえ体に染み込ませればなんとかなるものです。そのノウハウとは、自分がこうしたらいいんじゃないかという直感を重んじて、それをすぐに実行することです。いろんな解決策を思いつく場合は、適当な選択肢を選んで後で反省すればいいのです。



 このように考えていくと、今を生きるというのはある意味では自分を知ることに繋がりそうです。自分探しのために旅をすることがありますが、ああいう行為こそが今を生きることに直結しているのではないかと思います。

 自分について知れば知るほど、それは奥深いものとなり、キリがありません。ですが、そうやって得た知識は決して無駄なものではなく、むしろそれは自己や他者を知るためのノウハウとなるのです。そして、今を生きている状態をより深く、より高次元に知ることに繋がっていくのです。





 今を生きるということは、自分自身を知ることと言えるかもしれません。いや、自分自身だけでなく、身近な人達や環境について知るということにも繋がるのではないでしょうか。

 


あとがき

 最後少し頭が煮えてきたので簡単にまとめました。今回は考えてきたものを書き起こしたというよりは、考えながら書いたという感じです。ですから、少し文体がいつもより変なことになってるかもやしれません。今は風邪気味で文章を書く体力があまりないのですが、せっかく疑問に思ったことだから、すぐにブロマガに書いておこうと思ったのです。

 いやー、今を生きるって難しいですねー^^;
(いや、これは今の欲求に従って生きているというだけでは・・・気のせいか!)



三行まとめ

今を生きるという時点で過去。時には未来の情報が舞い降りてくることもある。
今を生きると意識するだけでは今を生きていることにはならない。
今を生きるとは、現在の自分自身、身の周りの人達や環境を自覚するということ。

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そうなんですよねー。
”今”と言うものを”今”と認識出来る時点で、それは”過去”なんですよね。
この辺り考えてみるとすごく面白くて、時間の概念とはそもそもなんぞやと考えてみたり、
色々考えてみた結果、結局のところ今ってなんだよって思ったり、頭パンクしちゃいます。
63ヶ月前
×
>>1
 僕の時間認識についての考えを言いますと、無限なる永遠という次元を人間が有限に知覚して過去・現在・未来という概念を頭の中に作ったのではないかと思っています。無限の大海を手でつかみ、それを時間として認識している感じです。

 実は物体の動きやエネルギーの流れが時間認識の起爆剤になっていて、そういう動きや流れが全くないところでは時間を認識しようがないのではないかと考えています。とはいえ、依然として無限なる永遠という次元は存在していて、そこに”ゆらぎ”が生じて人間が時間を認識できる状態になったのではないか、そう考えています。

 永遠の現在という概念もあるくらいですから、時間について考えるほど想像力が掻き立てられて面白いです。ですが、いつかこの面白い状態から真実を手にする状態にまでいけたらいいなーと思ってます。人類中誰かが解決してくれるでしょう。その時まで、今という神秘状態を楽しみたいと思います。
63ヶ月前
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 ちょっと失礼します。minatoさんは「アキレスと亀」とかはご存じなのでしょうか?
 ゼノンの「飛ぶ矢は飛ばない」という話にも通じる瑞々しい時間観も思い出して
とてもおもしろかったです~。

 次元、という概念は空間を扱う幾何や数学上の概念で、永遠、はそれを超える形而上学上の超時間概念に
なるわけなのですが、ただ、「永遠の現在」はちょっとやばいのでくれぐれも気をつけたほうがいいですよ?
 永遠、や、歴史、を素朴に認められるのなら、いらぬお世話なのかもしれませんがw

 さて、時間は、「今」は、回帰なのか?歴史なのか?w
63ヶ月前
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>>3
 そうですね。永遠の現在についてはそういう概念もあるということで一線を引いてる感じです。僕は思想や考え方に対してはまずできるだけ感情移入みたいに入り込んでいって、そこから自分なりの一線を引くという接し方をしています。たぶんまだ僕の無意識は永遠の現在について少し興奮気味になっているのかもしれないです。

 永遠は次元を超える概念という話ですが、確かにそうですね。ただ、「永遠という○○」の○○の部分に何が入るのかが瞬間的によくわからなかったのでとりあえず次元という言葉をあててみました。もしかしたら不適切な表現だったかもしれません。強いて言えば「永遠という超越的な何か」という表現がよかったのかもしれません。すみませんでした。

 どちらかと言えば脳が認識する「今」は回帰なのかなーと思います。補正しすぎて未来が見えるなんてことがあるようですし。少なくとも僕の中で、人間の知覚する「今」というのは無理やり過去から未来からくっつけた混合物みたいなものになってる感じがします。そう考えると、「今」は回帰と歴史のごちゃまぜみたいな? よくわからないですね。

 蛇足になりますが、いま僕たちが感じる「今」というのは意識があるから、厳密には物心がついたときから感じられる(理解できる)わけで、物心のついてない赤ん坊に「今」を問うても、たとえ言葉をしゃべる能力があっても中国語の部屋みたいな感じで、「今」を理解してるわけではないと思います。ここら辺は意識の問題につながるんですけど、「今」と認識できるというのは本当に不思議な能力ですよねー。


 ちなみにゼノンはちょっとかじった程度です。かじった程度ではありますが、そこから思いついたアイディアを記事にしたものがあります。興味があればどうぞ。
http://ch.nicovideo.jp/minato-t/blomaga/ar530307
63ヶ月前
×
 こちらこそ横あいから失礼しました~
あと、歴史、というのも表現としてまずかったですね。
回帰、に対置するべきものは一過、でした。

 ゼノンのパラドクスは更に発展させると、「ミネルバのフクロウ」で、
運動や動作、時間の経過、もっと言えば現象や現存在、は認識において
掴んだ、と思ったときにはもう動いて別地点にあったり変化してしまっ
たりしてるため、理知は常に現象の寝静まった黄昏に羽ばたく、という
ことになるわけですね。
 その理知や思考が果たして脳にあるのか?
 という問いもまた、悩みの種ですがw

 時間が回帰性なら、時計の針が12時間後に同じ位置にくるのと同じく、
未来予想の可能性も説明がつきますが、やはり問題は歴史概念の大前提
でもある、
 「同じ人が二人といないように、同じ時もまた、二ときとしてない。」
・・・一過性のほうでしょうね。

 困ったことに脳も実存する現象現実現存在である以上、ひとときとして
同じであることは有りえない一過性の存在ですので、
 では、一過性の脳が回帰を認識するとはこれいかに?

 なんて、・・・更にややこしくなってしまいますw

 私事ですが、自分は脳と思考や認識・思想はもうずっと前に切り離して
考えるようになってしまってますw
63ヶ月前
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